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2018年2月10日土曜日

水戸射爆場のこと

かつて、この茨城県にも米軍施設はあった。水戸射爆場というのがそれである。調べてみたことを以下に記す。

昭和21年6月、米軍は旧陸軍水戸東飛行場を接収して演習場にした。勝田市・那珂湊市(現ひたちなか市)・東海村にまたがる、陸地面積1182ヘクタール、当時の後楽園球場220個分にも及ぶ広大な土地だった。昭和27年7月には、日米安全保障条約に基づく行政協定により、「アメリカ軍水戸対地射爆撃場」となる。

射爆場の歴史は、事故の歴史でもあった。誤射誤投下等による周辺地域の被害は、昭和44年までに141件にのぼる。
昭和24年、25年と相次いで2名の阿字ヶ浦の住民が事故で死亡。
昭和32年、「ゴードン事件」により1名死亡。
昭和36年には、那珂湊市街地誤射事件があった。

中でも「ゴードン事件」は酷い。
昭和32年8月2日、ゴードン中尉が操縦する横田基地定期連絡機が、帰還のための離陸直後、尾輪を出したまま超低空飛行をし、自転車に乗った母子をはねた。63歳の母親は首と胴体を真二つにされて即死、24歳の息子は肝臓破裂の重傷を負った。
米軍は異常気流による不可抗力事故を主張したが、往路でも阿字ヶ浦海岸海水浴場を超低空飛行し、人々を避難させたことが判明、那珂湊市議会は「いたずらである」と断定した。茨城県警は水戸地方検察庁に書類送検したが、結局、公務中の過失として不起訴。被害者には補償金として43万円余が支給された。

もちろん地域住民は抗議活動に立ち上がる。昭和38年8月、阿字ヶ浦海岸において「水戸射爆場返還推進県民大会」が、6000人規模で開催された。
しかし、この後も事故は続いた。
昭和41年1月24日、前渡農協に10キロ模擬爆弾誤投下。
昭和42年9月28日、馬渡宮下の市道脇に25ポンド模擬爆弾誤投下。
昭和44年12月1日、ヘリコプターから5キロのアルミ製ドアが落下。
昭和48年1月24日、中根大和田、鹿島神社境内に25ポンド模擬爆弾誤投下。
「勝田市史料Ⅴ」による「水戸対地射爆場周辺誤投下状況図」の写しが手元にあるが、誤投下場所は実に74ヶ所に及ぶ。大部分は境界線付近だが、勝田駅や、東海原子力発電所の近くにも落ちている。東海原発は既に稼働しており、その状況はとても正気の沙汰とは思えない。

そしてようやく昭和48年3月15日、射爆場は全面返還された。代替地には伊豆諸島の御蔵島と新島が挙げられたが、地元住民の強硬な反対により、断念のやむなきに至った。

と、ここまで書いて暗澹とした気持ちになった。
ここに書いたことの現在進行形が、まさに沖縄にあるのではないか。
茨城では27年の歳月がかかったものの、射爆場は返還された。代替地とされた御蔵島も新島も、地元が強硬に反対したことで、その計画は立ち消えになった。
「聞いてもらえた本土」と「聞く耳を持ってもらえない沖縄」。この違いは鮮明である。

水戸射爆場の跡地は現在、国営ひたち海浜公園となっている。
その中でメインの射爆目標となっていた場所に、「みはらしの丘」がある。初夏はネモフィラ、秋はコキアの名所として、多くの人が訪れる。その美しさは海外でも評判を呼んでいるという。
沖縄の米軍基地がいつかこんな場所になってくれることを、私は切に願う。

阿字ヶ浦海岸よりひたちなか港を望む。

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