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2010年4月9日金曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか①

この間、物置で三遊亭圓丈の『御乱心』を見つけてきて、久し振りに読んだ。面白かった。さすが圓丈は男だねえ。

ここで改めて、あの落語協会分裂騒動とは何だったのだろう、ということを考えてみたい。
昭和53年、三遊亭圓生が、橘家圓蔵、古今亭志ん朝らとともに新協会設立を企てたのがそれだ。そして、その事件は、後の東京落語界に大きな影響を与えることとなる。いや、その後の東京落語界の行方を決定づけたと言ってもいい。
発端となったのは、大量真打ち問題。端的に言えば、現実主義の柳家小さんと理想主義の三遊亭圓生との対立が原因である。
昭和30年代、東京落語界は黄金期を迎える。それにつれて、入門志願者は急激に増えた。特に、文楽・志ん生・圓生・正蔵・小さん等、ブームを支えた本格派を抱える落語協会は、みるみるうちに大所帯になっていく。その結果、今までの真打ち昇進のやり方では、遣り繰りがつかない状況になってしまった。その打開策として、現実派である柳家小さんや人情家の林家正蔵は、10人をいっぺんに真打ちに昇進させ、飛躍のチャンスを与えようとした。
一方、真打ちを文字通り、真を打つ、つまり、客を納得させるだけの芸の持ち主でなければならない、と考える者にとって、それはあまりに安易な方法に映った。三遊亭圓生、古今亭志ん朝は、そんな風潮に異を唱える。
もちろん、理想と現実がせめぎ合うのは世の常だ。本来であれば、その理想と現実のせめぎ合いを経て、よりよい方向を探っていくべきであろう。
ところが、圓生は協会離脱を決意する。
圓生は子どもの頃からの芸人で、芸人子どものような気質があった。政治力があったとは思えない。加えて、言わないでもいいようなことを言ってしまい不興を買う、といった傾向があったらしく、人望もそれほどなかった。彼自身に協会を離脱し、新協会を立ち上げるだけの器量はなかっただろう。
ただ、圓生には圧倒的な芸の力があった。文楽・志ん生は既に亡く、昭和の名人として、圓生は誰もが認める存在だった。
これを利用しようとしたのが、立川談志と三遊亭圓楽だ。二人はもともと現実主義者で、小さんに大量真打ちを献策したのも実は彼らだった。では、なぜ彼らは、自分たちの考えと対極にある圓生を担いだのだろうか。(次回へつづく)

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