江戸文化に吉原は不可欠のものだ。現在の風俗営業とイコールではない。もちろん、そういう側面もあるが、それだけではない。大人の社交場であり、最新文化の発信地でもあった。そこからファッションが生まれ、文学が生まれ、アートが生まれた。花魁もただの売春婦ではない。落語「紺屋高尾」に見られるように、アイドルでありスターであった。とはいえ、それが性の搾取を前提にしている以上、対象となる女性にとって、そこは地獄そのものであったということは紛れもない事実である。
その事実を改めて突きつけるのが本書だ。
時は大正の末。著者は、父親が死に家が困窮したため、周旋屋の甘言に騙され、吉原がどういう所かも知らずに19歳で吉原に売られる。初めて取らされた客に強姦同然に処女を奪われ、悔し涙にくれながら、復讐のために日記を書き続けることを誓う。
彼女の目を通し、花魁の悲惨な生活や店の過酷なシステムが露わになる。それにしても酷い。玉代の7割5分を店に取られ、食事や着物代は自分持ち、借金を引かれて、手元に来る金は稼ぎの1割にも満たない。その上、客が少なければ、何かと理屈を付けて罰金を取られる。競争心を煽り、一人でも多くの客を取らせようとする。生理中でも休ませない。子宮が傷つき、腹痛に苦しもうが客を取らされる。
「文七元結」「柳田角之進」「もう半分」「鼠穴」など、借金のカタに娘を吉原に売る噺は多い。これを読むと、その痛切さが実感を持って迫ってくる。落語では悪女に描かれる、「品川心中」のおそめ、「三枚起請」の喜瀬川すら愛おしく思える。「明烏」の浦里、「紺屋高尾」の高尾太夫だって哀しい。落語はあくまで男の視線からのものだが、遊女の哀しさを、優れた芸はしっかりと伝えてくれる。
人間というのは、環境に適応しようとするものだ。花魁のように過酷な状況にあるものは、そうすることで自分を守ろうとする。進んで客を取り、花魁としての生活に埋没しようとするのだ。それは、人間としての正気を失うことだと言ってもいい。しかし、著者は日記を綴ることで正気を保ったのだと思う。(ただ、それは著者に何倍もの苦しみを与えることになったが。)
著者は花魁として2年間、地獄の日々を過ごした後、逃亡。社会活動家である柳原白蓮のもとに身を寄せ、自由廃業することができた。結婚をしたということまでは分かっているが、その後の人生については詳しく知られていない。市井の人として、平凡な、だからこそ幸せな人生を送ってくれたものと、私は信じたい。
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