ページビューの合計

2010年4月8日木曜日

ご先祖様

長塚節の『土』の中に、勘次の娘、おつぎが裁縫所に通うという場面がある。明治時代、農村では、この裁縫所が女子に裁縫技術に加え、礼儀作法も教えた。いわば女子向けの教育機関の役割を果たしていた。
私の家が、今の土地に根付いたのも、実はこの裁縫所がもとだった。
うちの初代は、霞ヶ浦の対岸の村の出身だったが、夫と別れこの土地へやって来て、裁縫所を開いた。そこで稼いだ金を貯め、田地田畑を少しずつ買い増やしたのだ。
初代のおばあさんは、偉い人だったらしい。うちの墓は裁縫所の教え子たちが建ててくれた。今も彼女たちの名前が刻まれた石碑が残っているが、その住所は広範囲に及び、地名を見ると20㎞も離れた集落もあった。墓は周囲より一段高く作られた。当時、新参者の分際で他を見下ろす墓を建てたというので不興を買い、一部を破壊され、訴訟騒ぎにもなったという。
初代の養子が私の祖父である。最初の妻を亡くし、後妻に入ったのが、私の知る祖母だ。祖父には1男2女がいたが、娘の一人は早世し、跡取り息子は戦争で死んだ。そこで自分の生家から養子をもらう。これが私の父である。
養子、養子でつないで、やっとこの家で生まれ育った男が私だ。まるで、森鴎外か中原中也だな。片や孝行息子、片や放蕩息子だが、私はどっちなんだろう。
最近、父が物置を片づけていて、掛け軸が2本出てきた。2本とも初代のおばあさんの絵だ。1本はおばあさんの座像。1本はおばあさん夫婦を描いたもの。どちらも教え子たちが、どこやらの絵師に頼んで描いてもらったものらしい。
この間、父と母屋で酒を飲んだ時、見せてもらった。
座像の方が、おばあさんは若い。髪は銀杏返しかな。着物の上に、黒の割烹着みたいなやつを来ている。傍らには針箱。座布団の周りには裁縫道具が描かれている。少し開いた口から、お歯黒が覗いている。顔立ちは面長で、どことなく品がある。
夫婦で描かれているものは、おばあさんにいくらか白髪が交じっている。それ以外は座像の方と同じような感じ。夫の方は白髪交じりの総髪だ。父の話では、この人が天狗党の残党だという。私は、それまで最初の夫の方を天狗党だと思い込んでいた。てことは、ご先祖様はあの争乱を生き延びたのだ。すごいな。この人はおばあさんの死後、家に残らず相続を放棄したという。(この辺はあやふやだ。ただ、うちの墓に彼の名前は残っていない。)
掛け軸は虫が食っていたが、父は表装に出してみると言っていた。
「縁あってこの家に養子に来て、これを見つけたのもひとつの縁だ。出来るだけのことをしてみるべ。」父はそう呟くように言った。

0 件のコメント: