前にも書いたが、私は茶の湯を生んだこの国を誇りに思っている。
たかだかお茶を飲むだけで、何が作法だと思う人もいるだろうが、茶の湯は、総合芸術である。道具、調度、書画、果ては建築、造園に至るまでが鑑賞の対象になる。それは、空間を、時間を、プロデュースする作業だ。しかも、茶会は形に残らない。まさに「一期一会」である。私に茶の湯の心得はないが、その世界への憧れはある。
茶の湯の巨人、千利休。その弟子である三井寺の本覚坊が、師ゆかりの人々との対話を通し、利休の死の意味を探っていく。密やかで奇妙な小説だ。一つの章が、一人の人物と本覚坊との対話をもとに構成される。次の章では前章の人物は既に死んでいる。いわば、本覚坊との対話が終われば、その人物は役目を終えて死ぬ。そして、終章では、もはや死者である秀吉と利休が登場するのだ。
大分前、この作者の『利休の死』という短編を読んだことがある。それは、偉大な俗物秀吉とストイックな芸術家利休との対決が構図となっていたと思う。しかし、ここでは、前作の対決の構図は背後に潜み、「利休の茶」の本質の方に焦点が当てられているような気がする。
「利休の茶」は「戦国の茶」だ。戦国時代、武将たちは競って茶人を抱え、合戦の合間に茶会を開いた。いや、「合戦の合間」という言い方は正確ではない。彼らにとって、合戦も茶会も同じ重みを持っていた。彼らは、合戦の後の血まみれの心で茶を飲み、再び血まみれの戦場に赴いた。茶会を取り仕切る茶人にとっても、そこは戦場に等しかった。茶席において、彼らは静かに命のやりとりをしていたのである。
この小説に登場する、山上宗二、千利休、古田織部の3人の茶人は、いずれも切腹をして死んだ。利休、宗二は秀吉から、織部は家康から死を賜った。いずれも時の権力者の武将からだ。茶室で武将と切っ先を交え、美の力で屈服させてきた結末がこうだったのか。
本覚坊が幻想の中で聞いた、この3人の茶会での言葉が、「無ではなくならない。死ならなくなる!」というものだった。「無よりも無」である「死」を、この戦国の茶人は自らの美の到達点としたのだろうか。
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