それは2006年の4月のことだった。
私は当時、柳家三太楼という落語家のHPを愛読していた。柳家権太楼の一番弟子。柳家さん喬を思わせるソフトな語り口、それでいて時折見せるエキセントリックな爆発力は、確かに権太楼のDNAを感じさせた。2001年に真打に昇進し、実力派若手真打として将来を嘱望されていた。
その彼のHPが突然、閉鎖された。そして、落語協会のHPから三太楼の名前が消えた。やがて、師匠権太楼のHPで、三太楼の破門、落語協会からの除名が発表される。理由は「弟子として許されないことをした」とだけしか書かれていなかった。何が何だか訳が分からず、憶測が憶測を呼んだ。色んな噂が流れたが、真相は依然として分からなかった。
その渦中、私は4月下席の池袋演芸場、夜の部を観に行く。
この席は、三遊亭白鳥、柳家喬太郎等、1960年代生まれの若手真打が競演するという企画で、三太楼も出演予定だった。
近くの回転寿司でビールを飲みながら軽く腹ごしらえをして、客席の人となる。出演者は誰も三太楼のことには触れない。当たり前か。そんなデリケートな話題に、触れられるはずもない。
代演で林家たい平が出た。(それが三太楼の代演だったかは、よく覚えていない。)たい平は、いつも愛嬌のあるサービス精神あふれる芸人だ。しかし、この日は違った。引き締まった、どこか怒ったような顔つきで、彼は高座に現れた。そして、ほとんど枕も振らず、『お見立て』に入っていったのだ。
たい平が登場したのが、仲トリの2つ前。そこへトリネタでもおかしくない『お見立て』をぶつけてきた。私は同じ池袋演芸場で、2000年に古今亭志ん朝の『お見立て』を聴いている。たい平の『お見立て』は、どこか、この志ん朝の『お見立て』を彷彿とさせた。
そして、それは、私には三太楼への強烈なメッセージのように聞こえた。「三太楼、必ず高座に帰って来いよ」と、たい平が叫んでいるように聞こえたのだ。
その後、仲トリの柳家喬太郎が自作の新作(「夫婦喧嘩の噺」と当時のメモにはある。)で場内を爆笑の渦に巻き込み、柳亭市馬が『締め込み』を余裕綽々で演じ、トリの三遊亭白鳥は改作『悋気の独楽』の怪演で観客の度肝を抜いた。
誰もが三太楼の行く末を案じながらも、それを言葉にせず精一杯の熱演でそれに代えたように感じた。その中でも、私としては林家たい平がベストだったな。あの『お見立て』に、私はたい平の男気を感じた。
その年の10月、柳家三太楼は、三遊亭小遊三門下、三遊亭遊雀として再出発を果たした。彼の再起を、私は密かに喜んだ。
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