高校の卒業アルバムの寄せ書き、友達が「大社長」とか「トレノGばんざい」なんてことを書いている中で、私は「終わりし道の標べに」と書いた。気障だねえ。その頃から、安部公房は、私の好きな作家だったのだ。
一読して思う。そうか、安部公房も「火宅の人」であったか。
檀一雄の『火宅の人』は小説家が女優を愛人にする話だったが、この本は小説家の愛人になった女優の話だ。
23歳年下、自分が勤める大学の教え子で、自分の劇団の女優となる娘と関係を持つ。しかも、安部の方からアプローチしたらしい。
安部公房といえば、抒情に流されない、圧倒的に知的な作家という印象がある。それが、しっかり若い娘に溺れるんだな。
つくづく人間って弱いんだな、と思う。人には理性では御しきれない業ってやつがあるのだろう。安部にとっては、この山口果林がそういう存在だったのかもしれない。
でもね、著者と安部の家族との確執も綴られているが、そりゃ妻や娘にしたら堪ったもんじゃないよねえ。私は家庭が大事だし、妻や子を愛しておるので、どうしても安部の家族の感情を想像してしまう。著者も辛かったろうが、家族の辛さは格別だろう。安部公房自身は苦しかったんだろうか。
だからといって、安部を責めるつもりはない。おそらくしょうがないことだったのだ。安部公房は、火宅の道を選んだ。そういうことだ。
著者による衝撃の告白の連続だ。家業の従業員に受けた、幼児期の性的虐待。NHK連続テレビドラマ『繭子ひとり』のヒロインが決まった頃、安部の子どもを宿し中絶したこと。安部の妻との修羅場。安部公房との事実婚生活、そして彼の最期。行きつ戻りつ、時に繰り返されながら、それらが淡々と語られる。
安部の死後封印され、なかったことにされたが如き存在だった著者は、語らずにはいられなかったのだ。安部とともに生きた証が欲しかったんだと思う。それは、安部のことを、「安部」でも「公房」でも「彼」でもなく、いちいち「安部公房」とフルネームで表記していることに、痛切に感じられた。
余談だが、安部公房が撮ったと思われる写真がいい。表紙カバーの無防備な表情、仕草。まさに心を許した者にしか見せない姿だ。可愛らしいし、美しい。安部公房が彼女に溺れているのが、まざまざと分かるようだ。
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