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2014年5月30日金曜日

畑先生の思い出②

畑先生の思い出をもう少し。

ゼミのコンパでは、まず先生に楽しんでもらうことを考えた。
何しろ、文学部の学生である。世間一般の人より浮世離れしている奴が多かった。勝手に飲ませておくと、何だか訳の分からん飲み会になっていってしまう。(それはそれで面白かったりするわけだが。)
畑先生自身、ご自分が面白くない飲み会だと、すねて、シメの歌を歌ってくれないこともあった。
そこで、副ゼミ長の岐阜改め高山T君(T君からの強い要望による)と、落研部員の私の出番だ。まず、先生お気に入りのガラモンSさんを隣に配置し、T君と私が対面に座る。私は落研でこそ根暗で通っていたが、人間関係というものはあくまで相対的なものだ、文学部では「陽気な冗談ばかり言っている男」(小説『山の上大学文学部国文学科ゼミ対抗ソフトボール大会』より)となるのである。相方のT君とは、会話の呼吸が合った。ゼミ長のS君によると、私たち二人の会話は漫才のようであったという。そうして、二人で、S君やら後輩やらを軽くいじりながら、場を盛り上げた。
前にも書いたが、学会のお手伝いをした後はよかったね。先生が「寿司を食べよう」と言うと、すかさずT君が「『小僧の神様』ですね」と切り返す。寿司屋の後のスナックでは、先生がボトルキープしていたサントリーホワイトを振る舞ってくれたが、ガラモンSさんは先生の隣で、手慣れた様子で水割りを作っていたっけ。

私の落研最後の対外発表会には、先生も観に来てくださった。
この時私は『芝浜』を演ったのだが、先生は「よかったよ」と誉めてくださった。「あのお飾りの笹の葉が揺れる音を、亭主が雪が降っている音に聞く場面が、なかなかいいね」
受付には、洒落だったのだろう、当時でも珍しい合成酒を置いて行かれた。合成酒を飲んだのは、あの時が最初で最後だが、あの味はちょっと忘れられない。
卒業間際になって、先生から「落研の顧問を辞めるよ」と言ってきた。詳しくは覚えていないが、新幹部がしくじったらしい。いくら謝っても駄目だった。
教師であれば、間違いを教え、諭し、次は同じ間違いをさせないようにする、というプロセスを踏むべきだろうけど、先生の場合は許せないんだな。それがいかにも先生らしい。
高山T君が「先生はろくでもない大学生と、ずっと同じ土俵に上がり続けたんだな」と言ったけど、畑先生を語るには、けだし名言だと思う。
そして、しくじっても破門されても、私たちはそんな先生が大好きだったのだ。

畑有三先生のご冥福をお祈り申し上げます。

追記。
畑先生のシメの歌は『古い顔』だと、高山T君が教えてくれた。T君曰く、「ダークダックスも歌っている名曲。『美人だったあの人も/今では会えぬ人の妻』という哀愁の名フレーズ。ぜひ読者に紹介してほしい」とのことでした。

4年の軽井沢合宿。30年以上も前のものです。





2014年5月29日木曜日

畑先生の思い出①

畑有三先生がお亡くなりになったということを、大福さんのブログで知った。
私は、大学時代、先生のゼミで学び、卒業論文を書いた。また、先生は私が所属していた落語研究会の顧問でもあった。いわば、正真正銘、私の恩師である。
先生を偲び、思いつくまま、先生の思い出を書く。

先生との出会いは、1年の時の一般教養の講義であった。その授業は、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』が題材だった。まあ、無頼派にかぶれていた私にとって、さして関心のあるジャンルでもなく、正直言って内容は覚えていない。ただ、先生の長身で洒落た雰囲気だけは印象に残った。
3年になってゼミを選択する時、近代文学というだけで、先生のゼミを選んだ。
ゼミは、3年生が、3人ほどのグループを作り、レジュメを作成して発表する。他の学生は、授業ごとに、題材になった作品の感想を書いたレポートを提出する。
私は他の授業はほとんど出なかったが、ゼミだけは出席した。ただ、4年になってからは、生来の怠け癖が出て、出席はするものの、レポートは1つだけ出したっきり、後は全然出さなかった。
先生からは「伝助君(もちろんここは本名だが)、レポート出しなよ」としきりに言われたが、とうとうそのままにしてしまった。
おかげで4年の時のゼミの成績はB。ゼミでAが取れなかった奴は、学内で私一人だったろう。
しかも、先生は、私が3年の時、落研の顧問になられたが、1年も経たないうちに、幹部がしくじって顧問を辞められた。
私は不肖の弟子でもあったのだ。

ゼミに入って、3年の夏休み。合宿を千葉県の御宿にあった、大学のセミナーハウスでやった。
私が新宿駅の集合場所に行くと、ゼミ員は誰もいない。しょうがないので、指定された電車で、一人御宿に向かった。私は皆が乗る電車を間違えたと思った。「まったく皆しょうがねえな」とぶつくさ言いながら、駅に下り、道を聞きながらセミナーハウスに向かう。
すると、サイクリングをしている一団にあった。これが畑ゼミ御一行様だった。
私は、日程を1日間違えていたのだ。もはや研究会はとうに終わり、リクレーションの真っ最中。あとは打ち上げのコンパを残すのみだった。
先生は、私の顔を見て呆れたように、「しょうがないなあ」と言った。(ほんとにしょうがない。)
セミナーハウスに戻ると先生は、「じゃあ君、これでコンパのつまみに刺身でも買って来なさい」と言ってお金をくださった。
私は、車で来ていた同郷のI君と、岐阜T君と三人で、町の魚屋に走った。
魚屋の親父さんは、「今はトビウオが旨いよ」と勧めてくれた。トビウオの刺身は、思ったよりずっと安くたくさん買うことができ、先生もご満悦であった。
このコンパが、私のゼミでの落語デビューとなった。その話は、以前書いたので、繰り返さないが、先生は「君の落語は面白いねえ」と言ってくださった。そして、その時のネタ『権助提灯』について、いくつか所見を述べられた。「もしかしたら、そのお妾さん、奥に間男隠してたんじゃないの」などと、鋭い指摘もなされていた。
その後は、ジャズ研のDさんの『センチメンタル・ジャーニー』。
シメは先生の歌である。歌詞もメロディーももう忘れてしまったけど、何て歌だったかな、ワルツで、「みんなみんな今はもう…」って感じだったかな。
とにかく旨い酒だった。その真ん中に、先生はいたのだ。

ほんと、とりとめがなくなっちゃった。今日はこれまで。もうちょっと続きます。




2014年5月27日火曜日

息栖神社

一昨年の今頃だったかな、用足しに神栖へ行ったついでに、息栖神社に寄ってみた。
鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社と呼ばれる。
現在の利根川の河口は、その昔(利根川が東京湾に注いでいた頃)、霞ヶ浦が海へと接する所だった。
そして、この三社は、霞ヶ浦が海から大きく内陸へ入り込む、ちょうど入り口の辺りで、きれいな三角形を形作っている。
この息栖神社は、鹿島・香取に比べれば、ちょっとこじんまりしているかな。社殿も、昭和35、6年頃火事で焼けたらしく、今は鉄筋コンクリート製になっている。いささか荘厳さに欠けるかもしれないけど、境内はしんと静かで、神寂びたいい雰囲気だったよ。
鳥居の向こうは船溜まり。その昔、参詣する人は、船で来たんでしょうなあ。

2014年5月23日金曜日

向ヶ丘遊園駅界隈

今回は、川崎市多摩区、小田急線の向ヶ丘遊園駅界隈です。
まずは南口ね。
駅前にそびえる中和ビル。ここにあったパチンコ屋の雀球でラークをとったことがありました。
南口のロータリー。昔はこんなに居酒屋はなかったなあ。
これは登戸へ行く方。このシブい建物は当時からありました。

北口へまわります。
北口の駅舎は年代物。デザインがかわいいね。
北口のロータリーが広くなっていた。 
この辺りは昔のままだなあ。 
牛乳屋さんは閉店していました。
クリーニング屋さんの所に、昔よく行った、親父さん一人でやってる牛丼屋があったのだ。

2014年5月21日水曜日

川崎点景

昔のことを書いていたら、川崎が懐かしくなりました。
一昨年、OB会に行ったついでに、ぶらついた時の写真を載せてみます。

この路地にアパートはありました。今はなくなってしまったけど、右側の植え込みの辺りです。
アパートの路地を出て、川崎駅方向に歩いた辺り。
尻手駅付近。この建物は当時のままです。
アパートの路地を出た所にある豆腐屋。もちろん当時のまま。昔は隣に和菓子屋がありました。
リサイクルショップってのはシブい店構えが多いね。
尻手から八丁畷の駅に向かう途中。よく噺の稽古をしながら歩いたもんです。
八丁畷駅ホーム。浜川崎線の電車がやって来る。

2014年5月20日火曜日

雑誌『Swich』―進化する落語

ちょっと前、雑誌『Swich』を買った。特集は「進化する落語」。
ラインナップが、いかにも『Swich』的。これが「現時点の最先端」という判断なんだろうな。
対談が、立川志の輔×佐野元春、笑福亭鶴瓶×横山裕(関ジャニ∞)、春風亭小朝×千原ジュニア、春風亭一之輔×チイ・イトウ。インタビューは、桂文枝、柳家喬太郎、立川談春、春風亭昇太、柳家花緑、柳家三三といった面々。
ね、組み合わせなんかも、いかにも『Swich』的でしょ。
こうなると、もはや落語家は寄席芸人じゃないね。そうだよな、今や落語会は、ライヴコンサートのノリだもんな。立川談志や春風亭小朝が目指したように、落語はステイタスを上げたんだ。立川談春の記事なんか読むと、孤高のロッカーみたいだもんな。
オールドファンの私には多少違和感はあるけど、でも、けっこう楽しく読んでるよ。何たって、トップランナーの言葉にはオーラがある。
私は以前、このブログで、最近の落語の進化の仕方では「江戸の風」は吹かないんじゃないか、と書いたことがあるけど、柳家喬太郎もそういうことを意識してたんだね。こんなことを言ってる。
「『江戸の風が吹く吹かない』みたいなことを家元(立川談志)が言い始めたでしょ。『喬太郎さんの古典は面白いけど、江戸の風が吹いていない』と言われることがあって。でもね、八〇年代の風を吹かせられる人はあまりいないんじゃないかと思うんです。俺は全噺家の中で八〇年代の風を吹かせられる稀有な例なんだぞ、と。それをお客さんが望んでいるかは別として。」
それでいいと思うよ。「江戸の風」は晩年の談志が行き着いた、郷愁のようなものだ。漠として形はない。そんなものに憑りつかれたら、「間」に憑りつかれた春風亭一柳のようになってしまう。
正岡容は桂文楽の落語に大正期の東京を見た。とすれば、八〇年代の風を吹かせる名人が出たっていい。
ま、それはともかく、この特集全体で示されたものが、若い落語ファンにとっては、現代における至高の落語なんだろう。落語は青春の芸だ。落語ファンは誰でも、青春時代に夢中になった芸を基盤に、繰り返し何度でも語らずにいられない。(桂文楽も橘家圓喬を繰り返し語っている。)だから、今、この時に出会った芸を大切にしていけばいいんだと思います。
ちなみに、この雑誌、活字が小さいのよ。老眼にはいささかツラいなあ。

2014年5月18日日曜日

本堂完成落慶式


お寺の本堂が完成し、落慶式があった。
うちも檀家でもあり、親父や伯父がかなり熱心に関わっていたので、私も長男を連れ顔を出す。
まずは伯父の家で法要。
その後、稚児行列があって、お寺へ行く。
前の本堂が出来てから300年振りの建て替えとのこと。ってことは、300年に1度の大イベントということになりますか。すごいねえ。


2014年5月15日木曜日

詩を読む

八木重吉や飯島耕一を読んでから、ちょっとばかり詩にはまっている。
20代の頃は、よく詩を読んだ。
特に大学時代、その状況と共に、その頃読んだ詩を思い出す。
朝の南武線の中原中也。
夜の川崎のアパート、酒を飲みながら読んだ、飯島耕一『上野をさまよって奥羽を透視する』、三上寛『お父さんの見た海』、『吉本隆明詩集』、『現代詩手帖』の中に入っていた、伊藤比呂美、泉谷明。
それらの詩のフレーズが、南武線沿線の町工場が連なる風景や、川崎の路地の暗がりの記憶と共に、ふと立ち上ってくる。
最近は、角川文庫版の『中原中也詩集』を読んでいる。奥付を見ると、昭和52年版。高校2年の時買ったものか。当時、中原の詩集は角川文庫からしか出ていなかったと思う。大学の頃、私はこの本を、いつも提げていたアーミーバッグの中に入れていた。
私は、中原の詩を読みながら、彼の恋情、孤独、倦怠に、自分の姿を見た。彼の長谷川泰子への詩に、私は何度当時好きだった女の子を投影したことだろう。朝の南武線で、「朝の歌」や「宿酔」を読みながら、何度気怠い絶望に身を任せただろう。
詩人の言葉は、極めて個人的な所から発したものだが、そこには普遍的な力があったのだ。
今、改めて読んでみると、昔のLPレコードを久し振りに聴いた感じがする。この歌の次はこれだったんだよなあ、とか、これはベストアルバムには入らないだろうけど、味のある小品だなあ、とかいった感慨が次々とわいてくる。「彼女の心は真っ直い!」(「無題」)って、ランボーの「ジャンヌ・マリーの手は太い!」に何だか似てるなあ、なんていう新しい発見もある。
何にせよ、中原の名フレーズにしびれる。
「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は静かです」(「春の日の夕暮」)
「夏の空は動かない、/雲片れ一つあるでない。」(「夏の日の歌」)
「風が立ち、浪が騒ぎ、/無限の前に腕を振る。」(「盲目の秋」)
「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる」(「汚れつちまつた悲しみに……」)
どこがいいといわれても困る。困るけど、いいのよ。聞いたことのない中原の声が聞こえる。そして、私の声がそれに重なる。
結局、詩は理屈じゃないな。中原は、詩に言葉以前の原初の表現を求めたけど、どんなに分析しようとしてもできないというのは、そういうことなんだよな。

2014年5月11日日曜日

母の日の鰻

母の日の夕飯には、母の好物の鰻を出すことにしている。
それにしても高くなりましたな、鰻。ここ10年で倍になった。
年に1回ぐらいしか、もう食べられないなあ。
何しろ絶滅危惧種だもん。無理して食うことはないか。
でも、今日は特別だからというので、土浦駅前の老舗「小松屋」さんで、買って来ましたよ。
酒をちょっとふりかけてレンジでチン。ふっくらとして旨いねえ。
ビール、酒を飲みながら、じっくり味わいながら食べる。
食後は、妻のために買って来たケーキ。こちらも美味しくいただきました。


2014年5月6日火曜日

霞ヶ浦散歩

歩くのは苦ではない。
家から最寄駅まで、歩くと1時間ほどかかるのだが、散歩がてら歩いて行くことが、けっこうある。
この時は、電車に乗る用事があったので、天気も良かったし、カメラをぶら下げて、霞ヶ浦散歩と洒落こんだ。
私はうお座生まれのせいか、水のある風景が大好き。特に霞ヶ浦はいい。ここは私が生まれ育った、他とは比べようもない絶対的な場所である。
堤防をぶらぶら歩いていると、実に様々な鳥や蛙の鳴き声が聞こえる。まるで誰かが誰かを呼んでいるように。「呼ばう」とは求愛のことだ。そうか、春は恋の季節なんだな。
霞ヶ浦は、太古の昔から、今も変わらず、たくさんの命を包み込んで、ここにある。私は、霞ヶ浦を前にする度に、自分もまたその一部であることに気づかされる。そして、いつも、人の世のちっぽけさを思う。ちっぽけなりに色々あって大変だけど、誠実に向き合いながら、でも、ちっぽけだということをきちんと自覚しながら、何とかやっていこうとも思う。
ランボーは「太陽と溶け合う海」に永遠を見たが、私は目の前に広がる霞ヶ浦に永遠を見る。

以下は、散歩しながら撮った写真です。
坂を下りると眼前に霞ヶ浦が広がる。
手土産に、ここの鰻の白焼をよく買った。肉厚で柔らかくて旨かったなあ。
ここから堤防に上がる。
田植え前の田圃も美しいねえ。
ヨシの中からは、盛んに鳥の鳴き声が聞こえてきた。


2014年5月3日土曜日

田植え

今日は田植え。
午前中に広い方の田圃、午後に狭い方の田圃を植える。
仕事を終えて、鰹の刺身を買いに行こうとしたが、魚屋では鰹は品切れ。
やむなくカスミで買ってくる。
早めに風呂に入って夕食。風呂上がりの瓶ビール、旨し。
おかずは、鰹の刺身、鯵のたたき、山芋の千切り、空豆、谷中生姜。ビールの後で酒。初夏の味。いいねえ。
DVDで古今亭志ん朝の『お直し』を観る。哀しい噺だな。志ん生、志ん朝、どちらもいい。それぞれ持ち味は違うけど。平岡正明は志ん生に軍配を上げていたが、私は別物という印象を持ったな。志ん朝は、見事にこの噺を現代に息づかせたと思いますよ。
ちびちびとボウモアを飲む。しみじみと旨い。

2014年5月1日木曜日

小樽の建物

小樽の、私好みの建物。
小樽というと、運河沿いの煉瓦造りの倉庫が有名だが、歩いていると、フツーの民家や店なんかに味のある建物が多い。
上の、居酒屋「でん助」なんか、たまんない。
それにしても、私はどこ行っても、同じような写真を撮ってくるねえ。
最後の写真は、電車の中から慌てて撮ったもの。真ん中の建物はお風呂屋さん。ちゃんと落ち着いて撮りたかったなあ。

画像が貼り付けづらかったのは、どうやらインターネットエクスプローラーに問題があったみたい。グーグルクロームにしたら、すんなりできたよ。