京須は前述の著作の中でこんなふうに書いている。
「そんな出口にとって黒門町―八代目桂文楽だけは例外だった。文楽への批判は許さなかった。文楽についての誤った、あるいは不十分な情報も認めなかった。桂文楽は彼にとって生涯、神様であったようだ。」
文楽にとっても出口は重要な人間であった。
川戸貞吉編『対談落語芸談』で五代目三遊亭圓楽は文楽を「たぐいまれな幸運児」とし、その根拠を次のように語っている。(以下圓楽の部分を抜粋引用する)
「まず出口さんというもっとも桂文楽を愛していた人を番頭さんにしたということね。これァもう番頭さんというよりブレーンですね。
それからTBSの専属だったということ。それがためにあの文楽師匠は、時間の制約がなく、気ままに出来たっていうことがあるでしょ、あの師匠に限っては。 おそらくねェ、どのネタでも、文楽師匠のはぴったり28分なんて、30分番組に寸法通りの噺はないですよ。みんな23分であったりね、21分であったり。20分デコボコが多いんですよ。そうすとね、あとどうするかというと、対談やなにやらで埋めて、そうして大事に使われたということですね。
そして季節感のある噺が多かったもんですから、夏ンなると『船徳』、『酢豆腐』、ね?冬ンなるとなにッていうふうに、ピシャアッと頭ンなかで全部出口さんが計算して、出してましたね。したがって、飽きも飽かれもしなかったということね。」
昭和20年代後半から30年代にかけて、文楽は昭和の名人への階段を駆け上ってゆく。芸術祭賞も紫綬褒章も、落語家初の栄誉に輝くのは文楽であった。安藤鶴夫や正岡容等の文筆による文楽礼賛がその後押しをしたのは間違いない。その一方で出口一雄が担ったメディアによる貢献も決して小さくはないと思う。
文楽のTBS(つまりは出口一雄)に対する感謝の心は、文楽がTBSを終生「うちの会社」と呼び、常に背広の襟に社員証を付けていたことに表れてはいないだろうか。
Suziさんは文楽と出口の関係を評して「まさに親子の間柄」と言っている。また、彼女は文楽についてこんなふうに語ってくれた。
「文楽さんは色男でした。落ち着いていてチョッとほかの噺家さんとは違っていましたね。 眉毛の長い人、って記憶が私にはあります。
彼の甘納豆を食べる時のあのしぐさと音のうまさは誰もマネができなかったんです。 大きい豆を食べる時、小さい豆を食べる時の所作のやり方、教えてあげようか?ッて言って私に教えてくれた記憶があります。
これは文字では書けません。伯父が文楽さんの帰った後、『弟子を取るのが嫌いな人が珍しいなあ、お前に教えるなんて』って笑ったのを覚えています。」
黒門町から『明烏』の甘納豆の食べ方を教えてもらう、なんて贅沢な経験なんだろう。羨ましくてため息が出る。
ちくま文庫『古典落語 文楽集』表紙。
イラストは和田誠。
こちらは朝日新聞社編『落語文化史』。
山藤章二描くところの志ん生・文楽。
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