このテレビというメディアで瞬く間にスターの座に上り詰めた落語家がいた。
「昭和の爆笑王」初代林家三平である。
この三平を売り出したのも、出口一雄であった。
神津友好の『笑伝 林家三平』の中にこんな一節がある。
* * *
人形町末広の楽屋口を出ようとして、三平は呼びとめられた。
「あ、ちょっとちょっと、出口だがね」
「はい、出口だったらあちらですよ」
「なにをいっとるんだよ、わたしはKR(ラジオ東京テレビ)の出口だ!」
もう少し売れている芸人だったら出口さんを知らないはずはなかったのだが、なにしろ売れない二ツ目だからKRの出口芸能課長の顔を知らなかったのも無理はない。そのとき出口さんも、声をかけた場所が勘ちがいしそうな楽屋口であったことに気づかず、〈この野郎、シャレのきついヤツだ!〉と三平に腹を立てていた。
しかし仕事は仕事、KRがテレビ開局早々のサスプロ番組(スポンサーなしの自主提供)として、「新人落語会」という若手落語家の視聴者投票コンクールのような番組を、赤坂のスタジオから生放送していた。
その司会役に三平を、出口さんが起用してくれたのだった。
* * *
当時の三平の評価は「落語はおそろしく下手だが、ことによると大化けするかもしれない」というものだった。
出口の尊敬する桂文楽は練に練り上げた一部の隙もない端正な芸で知られる。もちろん、出口の芸の好みもそのようなものであったろう。しかし、その文楽の孫弟子にして、落語としては滅茶苦茶な、それでいておそるべき破壊力を秘めた三平を、出口は抜擢したのだ。
ここに出口のプロフェッショナルを感じる。 先に引用した場面でも、出口は初対面の三平に腹を立てている。しかし、何気なく書かれているが、「仕事は仕事」なのだ。出口は人の好き嫌いは激しいが、私情で仕事はしなかった。
どちらかといえば自分の好みとは対極にある無名の若手の可能性を見出し売り出す。後から思えば、テレビほど三平にうってつけの媒体はなかった。あのオーバーアクション、決めのポーズ、愛嬌にあふれた豊かな表情、どれもこれもテレビでこそ映えるものだ。つくづく出口一雄の炯眼に恐れ入る。
Suziさんが送ってくださった資料の中には、内海桂子・好江が、出口によって、ラジオ東京の落語と歌謡曲をパックにした演芸番組の司会に起用した話が載っている。
内海桂子は「ここまでやってこられたのは出口一雄さんのおかげです」と感謝の意を表しながらこのエピソードを紹介した後、こうように書いている。
「これは私だけのお願いかもしれませんが、ラジオ、テレビそのほかの演芸に携わる方々に定年は無用だと思います。演者の年齢に合わせたプロデューサーがいらしてこそ芸人は落ち着いて年がとれるのではないでしょうか。 いま活躍している(この資料が書かれたのは「亡くなった小円遊さん」とあるので1979年頃だと思う)中年の真打さんは、みんなこの出口一雄さんにお世話になった方々です。」
出口の仕事は、「芸人たちのために」という側面が多分にあった。専属制にしろ、専属料や出演料のおかげで、どんなに落語家の生活が向上したか(五代目小さんは専属料を元手に目白の家を建てた)。ぶっきらぼうで無愛想と言われた出口一雄が多くの芸人たちに慕われたのは、決して不思議なことではなかったのだ。
また、出口は芸人よりも表に出るのを嫌がった。その象徴的なエピソードがある。(これもSuziさんから聞いた話である。)
『綴り方教室』で売った柳亭痴楽が口演中客席に出口を見つけた。そこでアドリブで「ラジオ東京の出口様、表で狐が待ってます」とやったところ、出口が激怒、痴楽は大目玉を食ったという。
楽屋落ち的な笑いが嫌いだったこともあるのだろうが、裏方である自分を客前に出すような感覚や、そのことで自分にある種の権威がまとわりつくような感じが許せなかったのだろう。昨今目につく「**プロデュース」なんていう売り方は、出口一雄には到底できない。「そんな野暮な真似ができるか」という出口の苦い顔が目に浮かぶ。
Suziさんによれば、出口はTBSを定年になった時は、用意された重役の椅子を蹴って退社したという。表に出ることが嫌い。権力を持つのが嫌い。出口一雄はどこまでも出口一雄だった。
『笑伝 林家三平』表紙。
イラストは南伸坊。
出口一雄との交流を綴った内海桂子の新聞記事。
(Suziさん提供)
以上で『出口一雄 ラジオ東京(TBS)時代』の稿を終了します。
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