落語が、東京ローカルの芸から全国区へと広がった機会が2回ある。
ひとつは、戦後、ラジオやテレビによって、落語番組が数多く放送された時。もうひとつは、落語協会分裂騒動によって寄席に出られなくなった三遊亭圓生一門が、全国のホールを回って、興行を打った時だ。
前者によって全国に落語ファンが生まれている状況の中で、さらに後者が実演をもって落語の魅力を全国に広めた。しかも、昭和の名人、三遊亭圓生が先頭を切って全国を渡り歩いたのだ。このことによって、寄席に頼らない興行形態が確立したといっていい。
この、寄席に拠らない落語を存分に生かし切ったのが、立川流といえよう。
自ら落語会を企画し、客を呼び、ファンを開拓する。1回勝負の高座、そこで客を納得させ、「もう一度聴きたい」と思わせなければならない。そんな厳しい環境で、志の輔、談春、志らく、談笑といった立川流のスターは生まれた。
確かに現在の落語界は、彼ら立川流の存在抜きには語れない。志の輔はもはや当代を代表する名人の風格を身に付けつつあるし、談春は「いちばんチケットをとるのが困難な落語家」としてロックスターのような全国ツアーを展開中だ。志らくは若いファンの間でカリスマ的人気を誇る。談笑の過激な笑いもすごい。
ただなあ、立川流、きつくないか、と私は思うのだ。
立川流のやり方では、一人一人が一国一城の主だ。つまり、皆が皆、野球で言えば、エースか4番打者でなければならない。
人間は、哀しいことだが、誰もが一流になれるわけではない。志の輔や談春になるのはほんの一握りだ。今、スターになっている落語家たちは、皆、若いうちから才能を認められていた人ばかりだ。この情報化社会の中で、埋もれた才能なんてそうそうあるものではない。
バイプレーヤーの存在もなかなか捨てがたいのだが、それは寄席のような環境でこそ生きる。
立川流には、桂文字助、立川ぜん馬、立川左談次といった人たちがいるが、彼らの持ち味を発揮できるような環境が立川流にあるのだろうか。
また、寄席というのは、修業の場でもある。ギャラは安いが、毎日、客前で噺ができる。その客もレベルは千差万別。しかも、必ずしも自分を目当てに入って来るわけでもない。その上、楽屋ではプロの眼が光っている。
立川流の落語家は談志教の信者といっていい。しかし、その談志にしろ、冷徹なプロの眼からすれば、「『なんだ、この仕草は? おい、こんな仕草ねえぞ』と思える部分がある。早い話が演技がひらめきすぎたりする!」(三遊亭圓丈『落語家の通信簿』より)と、批評されるのだ。談志しか見えず、他のプロたちの眼にさらされない者たちの落語が、落語本来のものから遠ざかっていくのは、やむを得ないことだろう。
志の輔や談春の落語は、技術的に進化しているかもしれない。が、「私が好きだった落語」ではないような気がする。大福さんが彼らの落語を聴いて、ブログの感想で書く、「巧いんだけど」の「けど」の部分は、つまりはそういうことなのではないかと思う。(勝手に解釈してすみません)
以前、立川談幸の『お神酒徳利』を聴いた。圓生の香りがする、うまい落語家だ。彼は最近、芸術協会に加入し、寄席の高座に上がることになった。彼の弟子は立川流の二つ目だったが、芸術協会では前座から再スタートを切っているという。
談幸は、弟子にそんなハンデを負わせても、寄席という環境を与える決断をしたのだ。談幸自身も1回勝負の立川流の興行形態より寄席の高座を選んだのだ。それは決して間違いではないと思う。
それにしても、立川流の、特に若手、これからきつくないか? と落語のオールドファンである私は勝手に心配してしまうのである。…ま、よけいなお世話なんだろうけどね。
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