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2016年1月14日木曜日

三代目桂春団治逝去 ― 「四天王の時代」の終焉

三代目桂春団治の訃報を知る。
私は上方落語はあまり得意ではないが、それでも彼は好きな落語家だった。
戦後絶滅の危機に瀕していた上方落語を、現在の隆盛に導いた「上方四天王」の一人、というか最後の生き残りだった。六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝は既に亡く、三代目桂米朝も昨年3月鬼籍に入っている。
東京では昨年10月、八代目橘家圓蔵が亡くなり、昭和の「若手四天王」と呼ばれた5人全てが冥界の人となった。奇しくも、同時期に東西の「四天王の時代」が終わったことになる。
私は高校の頃、ラジオから春団治の『皿屋敷』を録音し、このテープを、それこそ擦り切れるまで聴いたものだ。
お菊の幽霊が皿を数える、その「9枚」の声を聞いたら祟りで死ぬ。7枚くらいで逃げたら命に別状はあるまい。そう教えられた若い者が、もしかして幽霊のことだから根性の悪い数え方をするかもしれないと言って、「いちまーい、にまーいと順にきたらええで。ごまーい、ろくまーい、(そこから早口で)ひちまい・はちまい・くまいッ!」と言うところ。
アイドル並みの人気になったお菊さんが見物客に言う「おこしやす」。
ひっくり返って笑った。
笑えただけではない。その端正なたたずまい、品のある色気が、私の心を掴んだのだ。春団治を越える『皿屋敷』を、私はまだ聴いていない。
熱心に追いかけたわけではない。生の高座に触れたこともない。たまにテレビで観たり、ラジオで聴いたりしただけだ。春団治を語れる資格が、私にあるとは思わない。しかし、これは「好きな人について語りたい」と思って始めたブログである。私なりに春団治を語っています。熱心なファンの方、ご容赦ください。
きれいな高座だった。華やかな「野崎」の上りで高座に現れ、型通りの口上を述べる。枕で凝ることはなく、すっと噺に入っていく。(黒門町八代目桂文楽みたい)
羽織の紐をほどき、左右の手で袖をつまみ、そのまましゅっと引いて、すとんと羽織を背後に落とす。その形のいいこと。東京では十代目金原亭馬生がそんな感じだった。
松鶴の破天荒さは志ん生を思わせ、芸の幅が広く学究肌の米朝は圓生を思わせる。それに対し、華があり品があり色気がある春団治は文楽だ。ネタの数を絞り、磨きに磨くという姿勢も、文楽に通じる。まさに私の好みにどんぴしゃだったんだなあ。
「春団治」というと、どうしても世間のイメージは、演歌『浪速恋しぐれ』の「芸もためなら女房も泣かす」になるだろう。しかし、あの”どあほう”春団治は初代である。三代目は色男だったし、艶っぽい話も多かったかもしれないが、芸の上ではああいう八方破れとは対極にあった人だ。
私にとっては、近しいわけではないが、それでも気になっていた落語家だった。距離がありながら、それでも「好き」と確かに言える、そんな落語家だった。東京生まれの谷崎潤一郎は、後年上方文化に憧れた。私もまた、東京の「粋」より、純度の高いものを、春団治に感じていたのかもしれない。そうか、私にとって春団治は、どこか手の届かない「憧れの存在」だったのか。彼を失った、今にしてそう思う。
三代目桂春団治師匠のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

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