昭和46年10月31日、八代目桂文楽は、五代目古今亭志ん生宅を訪れる。これが、文楽・志ん生、最後の会談となる。
この会談は出口一雄がセッティングしたものだ。
この経緯について、出口と親交の深い、東京新聞記者、富田宏が次のように書いている。
もとTBSの演芸部長で、いま出口プロダクション社長の出口一雄さんから「そのうち黒門町(文楽さんの通称)と志ん生をあわせようよ。ここんとこ黒門町が元気ないんだ。半身不随の病気でも明るくやっている古今亭(志ん生)と話をさせたら、気が晴れるんじゃないかと思ってね」といって来た。十月半ばのことで、天気のいい日を見はからって、機会を待った。そして十月三十一日日曜日の午後、黒門町、いまは台東区上野一丁目とかわった文楽さんの家で落ち合って、日暮里の志ん生さん宅へ行った。
この記事は、昭和46年12月13日、つまり、文楽死去の翌朝の朝刊に載った。
この後、弟子に自分が飲むウィスキーのボトルと、志ん生に飲ますつもりの日本酒の一升瓶を持たせて出かける場面が描かれる。
文楽は、お膳の上にあったクリせんべいを見つけ、「これを孝ちゃん(志ん生の本名は美濃部孝蔵という)に食べさせよう」と言って、その箱をポケットに入れた。
出口の言う「黒門町の元気がない」という件について、富田はさらに以下のように続ける。
出口さんがいう「黒門町の元気がなくて―」というのは、実は私も気にしていたところだった。出口さんはTBS時代、専属落語家制をいち早く打って、ラジオ・テレビの落語ブームのきっかけを作った人だ。若いころから寄席演芸界を見ていて、芸人の気持ちをだれよりも理解してくれると、文楽さんはこの人を全面的に信頼し、実の親子のように気持ちが通い合っている。その出口さんが、文楽さんの高血圧や、手のリューマチや、糖尿など以上に気にしていたのはこの夏以来の気うつ症だ。
原因はTBS主催で毎月末、国立小劇場で開いている落語研究会で七、八月と二回続けて高座でミスをしたことだろうという。「鰻の幇間」と「大仏餅」で、間違えたり、ことばがでなくなったりした。「大仏餅」では、客にわびて途中で高座をおりてしまった。
それからあとは「高座ではしゃべらないよ」と宣言して、寄席も休み、公園めぐりをしたり、なつかしい人や場所をたずねたりした。そして親しい人には、三代目柳家小さんが、老衰してもなお高座を勤め、時に失敗したみじめな様子を語って、言外に「あたしは、ああはなりたくない」とにおわしていた。
座持ちがうまくて、日常は明るい笑い声を絶やさない人だが、一面小心。ことに自分の芸には神経質なくらいで、書でいえば楷書の芸。一字一句をゆるがせにせず、みがきにみがきあげた芸が特徴だった。「やります」「勉強中」といっていながら、とうとう高座にかけなかっただしものも多い。だから、落語研究会のミスがひどいショックで、三代目・小さんのイメージと重なって、ノイローゼになったふうにもみえる、と出口さんはいうのだ。
この会談の様子は、最初11月15日付の東京新聞夕刊に掲載された。残念ながら、私はそのすべてを読んではいない。矢野誠一の『志ん生のいる風景』にその一部が紹介されているが、それによると、文楽はウィスキーのお茶割り、志ん生は日本酒の水割りを飲みながら話をしたという。
録音されたものを、山本益弘が聴いてまとめているので、その文章を紹介しよう。出典は『文藝別冊 八代目桂文楽』に収められた「あばらかべっそんの哀しさ」からである。
久しぶりに向かいあったふたりは、あいさつを済ますと、これといって話すことがない様子で、
「文治さん(九代目)はどうです」
と、志ん生が口を開くと、
「達者ですよ」
と、文楽が答え、しばらく沈黙が続き、こんどは文楽のほうから、
「きょうは頭がきれいだね、何で刈ってるの。電気カミソリ?」
と、尋ねれば、
「何で刈ってんのかね、知らねんだ」
と、志ん生が言葉を返すような会話が続く。それでも、そこに居あわせた人たちを退屈させてはいけないという、持ち前の芸人根性が頭をもたげたらしく、文楽が懸命に話題をつくろうとする。
文楽が庭先にそのキッカケを見つけたらしく、
「あのね、ほら、蔦がね、むこうの家にからんでんだろ、蔦がからむことについては大へんだよ」
と、高座の口調そのままに言うと、
「蔦(下)にいろうなんて…いばるんだよ」
と、志ん生がすかさずシャレで返した。
(中略)
二人に共通な話題ということで、文楽が食べものの話をしはじめた。
「あたしは、神田川(神田明神下にある鰻屋)がひいきなんだけどね、こないだ、さる方に連れられてね、築地の竹葉亭に連れてかれましてね、そいでね、久かたぶりで白焼を食べました。うまいんだよ、また」
「うまいんだよ、また」と、高ッ調子で早口に言うところなど、元気なときの高座の口調と少しも変わらない。この文楽のしかけに志ん生が乗って、自分の好物を唐突に言った。
「刺身ね」
「刺身いいね」
「刺身はかたくって食えねえってことはないから…」
「刺身がかたくっちゃしょうがない」
他愛もない内容だが、そこはかとなく可笑しい。
文楽がしかけ、志ん生がすかし、さらに文楽がツッコむ。「これはもう漫才のボケとツッコミの会話のセンスだ」と山本も言う。
この会談の記事はこのような言葉で結ばれている。では『志ん生のいる風景』から。
〈婦人のおうわさとなる。お互い、いろいろあった勇者たちだ。志「したいことをして来たから、死ねばセコ(悪い)なとこへ行くだろう。イヌにケツッペタをくわれたりしてね」文「うん、この節、もう静かに、おむかえを待つ心境もわかってきたね」こんな話をしていても、人生を達観したふたりは陽気で、はなし家ならでは。帰りしなに、かたい握手をして、文「また来ます。このウィ(スキー)のビンはここへあずけとこう」志「ああ待ってるよ。今度は二人会の相談でもしようよ」〉
出口一雄はこの会談に同席していたのだろうか。多分、していたんだろうな。していたとすれば、この二人をどんなふうに見ていたのだろう。
文楽は、久し振りに志ん生に会って、元気を取り戻したようにも見える。「次は二人会の相談でもしよう」という志ん生の誘いに、文楽が乗ってくれれば、と出口は思わなかっただろうか。
この時の握手の場面の写真が残っている。ダークスーツにネクタイを締めた文楽は、志ん生の右側に座り、右手で握手をしながら、左手で志ん生の肩を抱いている。紋付の羽織姿の志ん生は、体を右側にいる文楽の方に傾け(身を預けるようにして)握手をしている。そして、どこかぼんやりと、微かに口元に笑みを浮かべたような表情で、カメラの方を向いている。それに対し文楽は、唇をきゅっと引締めてレンズを見つめる。その眼はうるんでいるようにも見える。
もしかしたら、この時文楽は、この盟友と話すのはこれが最後だと、覚悟していたのかもしれない。
会談の2日後、文楽は少量の吐血をし、日大附属病院に入院する。しかし、生きて彼が病院を出ることはなかった。
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