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2016年6月28日火曜日
2016年6月25日土曜日
昭和46年度 芸能人重宝帳
ロサンゼルスのSuziさんが『昭和46年度 芸能人重宝帳』という小冊子を送ってくださった。 Suziさんは落語史にその名を残す出口一雄の姪御さんに当たる。
出口一雄といえば、TBSのプロデューサーとして落語家専属制度の先鞭を切った人とである。TBS退社後は、デグチプロを設立。八代目桂文楽を始め、様々な芸人のマネジメントをした。その仕事は、芸人たちからは「仏のデグチ」と呼ばれるほど、芸人に寄り添ったものだったという。(手前味噌だが、詳しくはこのブログの「桂文楽と出口一雄」のシリーズをご覧いただきたい。)
で、この『芸能人重宝帳』。芸能関係の住所・電話番号が記載されているのだが、芸術協会、落語協会、講談協会に所属する全ての芸人から、寄席、ホール、放送局、芸能プロダクション、お囃子さんから幇間の師匠方に至るまで、東京で演芸に関わる者のほとんどが網羅されている。芸人の手配、劇場の手配、取材等、これ1冊あれば事足りるのではないかと思われるスグレモノだ。
実際に出口も使用したらしく、古今亭志ん馬の電話番号には手書きの訂正が施されている。
何せ45年前のものだ。様々な発見があって面白い。
まず、落語の団体が、「芸術協会‐落語協会」の順になっている。私が持っている出版物では、どれも「落語協会‐芸術協会」の順だ。いくら順不同だとはいえ、そこには必ず意味がある。戦後しばらくは人気において芸術協会が落語協会を凌駕していたと聞く。この順列は、いささかそれを偲ばせるものではないだろうか。
ページをめくると、昭和の名人上手がずらりと並ぶ。(残念ながら、三代目金馬、三代目柳好、八代目可楽、三代目三木助等の名前は既にない)
さすがに芸人全ての家に電話が引かれている。その中で自宅に2本引いているのが、春風亭柳橋、三遊亭圓生、林家三平。柳橋・圓生は大御所、三平は売れっ子、いずれにせよ電話を複数本引くのは、仕事の依頼が多いが故だろう。複数電話を引くのにも、それなりに金もかかるだろう。ある意味それはステイタスにもなり得る。そして、黒門町桂文楽は何と3本引いているのだ。まさに別格といっていい。
また、今のベテランが前座に名を連ねているのも興味深い。
芸術協会では、三笑亭夢九(夢之助)、三遊亭右詩夫(古今亭寿輔)、三遊亭遊吉(小遊三)等、落語協会では、三遊亭楽松(鳳楽)、林家九蔵(三遊亭好楽)、古今亭高助(故古今亭志ん五)、柳家そう助(さん八)、柳家マコト(小袁治)、柳家小稲(さん喬)、金原亭駒七(五街道雲助)、立川談十(朝寝坊のらく)、春風亭朝太郎(一朝)等の名前が見える。
前座には、ほとんど電話番号が記載されていない。記載されているのは、多分実家からの通いなのだと思う。住所で師匠方になっているのは内弟子である。芸術協会では現小遊三の遊吉(遊三方)と、二つ目になっているが桂米助(米丸方)がそうだった。落語協会では現月の家圓鏡の杵助(圓鏡方)、現柳家さん枝の桂文吉(文楽方)、現春風亭一朝の朝太郎(柳朝方)。ちなみに現柳家小満んの桂小勇も二つ目だが、師匠文楽方になっていた。
寄席文字の方には橘右朝の名前も見える。(彼は後に古今亭志ん朝門下で落語家になる。将来を嘱望されていたが、2001年、惜しまれつつ52歳で没した。)
芸能プロダクションでは「鬼の暁」(二代目円歌の子息が経営していた)に並んで、出口一雄の事務所が載っている。社名は『デグチ』。出口さんらしく、あっさりしてますな。住所は夫人の実家の新富町。電話を2本引いているところを見ると、繁盛していたのがうかがえる。今を時めくマセキ芸能社も名を連ねていた。
ところで、裏表紙を見て驚いた。発行が昭和46年8月31日。ということは黒門町桂文楽の、伝説の最後の高座、まさにその日ではないか。この小冊子を受け取った時の出口さんの心境はどのようなものだったのだろう。色々思いを巡らせてしまったよ。
いやあほんと、1日眺めてても飽きないな。Suziさん、いいものを送ってくださり、ありがとうございます。以後宝物にさせていただきます。
2016年6月21日火曜日
赤い月
今日は夏至。
そのせいでもあるまいが、赤い月が出る。
もう1枚。これは昨年の末、愛宕山に泊まった時の月。
佐野元春の新しいアルバムに『紅い月』という曲が入っている。
哀しい歌だけど、すごくいい。
佐野元春はカッコいいよ。とてもいい齢の取り方をしていると思う。
実は「今が聴き時」なんじゃないかな。
『THE SUN』、『COYOTE』、『ZOOEY』、『BLOOD MOON』、この辺りのアルバムが好きで、ずっと聴いている。『ZOOEY』に入っている『虹をつかむ人』なんか、いつ聴いても泣いてしまう。
よかったら、ぜひ聴いてみてください。
2016年6月18日土曜日
2016年6月14日火曜日
2016年6月13日月曜日
佐原の街並み①
香取神宮に参拝した日、せっかくだからと佐原の街を歩くことにした。
今は香取市と市の名前は変わったが、やはり佐原の方がしっくりくる。
潮来とは、利根川を挟んであっちとこっちで、両方とも水郷と呼ばれている。
街の真ん中を小野川が流れ、川沿いには江戸時代以来の古い町屋が並ぶ。この辺りは「街並み保全区域」に指定されているのだ。
独身の頃、妻と来て以来。20年振りになろうか。
有料駐車場に車を止め、小野川沿いから歩き出す。
まずは小野川と十字に交差する、佐原の街の中心を横断する通りを歩く。
小野川にかかる橋の所まで戻る。続きは次回で。
今は香取市と市の名前は変わったが、やはり佐原の方がしっくりくる。
潮来とは、利根川を挟んであっちとこっちで、両方とも水郷と呼ばれている。
街の真ん中を小野川が流れ、川沿いには江戸時代以来の古い町屋が並ぶ。この辺りは「街並み保全区域」に指定されているのだ。
独身の頃、妻と来て以来。20年振りになろうか。
有料駐車場に車を止め、小野川沿いから歩き出す。
伊能忠敬記念館の前が、水郷巡りの観光船乗り場になっている。
まずは小野川と十字に交差する、佐原の街の中心を横断する通りを歩く。
三菱館。重厚だねえ。
看板建築もそこここに見られる。
小野川にかかる橋の所まで戻る。続きは次回で。
2016年6月9日木曜日
伸治の話
さて、お次は「伸治の話」である。
桂伸治は後の十代目桂文治。父親は三代目柳家小さん門下の柳家蝠丸。新作落語「女給の文」の作者である。初代小文治に入門して、前座名を小よし、二つ目になって伸治と改名した。伸治のまま昭和33年に真打昇進。芸術協会ではこの年、春風亭柳昇、三遊亭小圓馬、桂小南、春風亭柳好、三笑亭夢楽が真打に同時昇進し、皆、売れっ子となった。以後彼らは後の芸術協会の屋台骨を支えていくことになる。伸治は、昭和54年には桂派の止め名である文治を襲名。江戸前の滑稽噺の名手として、「親子酒」「あわてもの」「湯屋番」「豆屋」「牛ほめ」などで寄席の客席をぐわんぐわん沸かせた。晩年は桂米丸の後を承け、四代目の芸術協会会長を務めた。
ではSuziさんに語っていただこう。
「伸治の面白いところ・・・というか、エエーー!!考えられないーー!って事なんですが、伯父から聞いた話ですのでホントかどうか・・・?
『伸治の家ってのはナ、不思議な家だよ、全く。あのナ一、敷地内にナ、家のほうに本妻がいてナ、離れの方には妾のほうが居てね、この二人が又仲がいいんだよ。おかしな構成なんだよなあ。それでな、伸治が悪さするとナ、妾と本妻が組んで伸治をやっつける』
中学生の私だってそのくらいは解るんで、
『伯父さんウッソー』
『馬鹿、ホントの事だ』
そんな話を覚えています。」
出口一雄がそう言っているということは、出口が亡くなった昭和51年より前のことだな。文治は大正13年生まれだから、彼が50歳前後の頃だろうか。
妻妾同居(正確に言えば別棟だが)というのは、いわば男の理想なのかもしれない。でも、私は御免こうむる。
「さ、もう一つホントの話をしましょう。今はどうなったか知りませんが、昔は赤坂辺りにはクラブが多かったんですよ。そのクラブには外国から来た凄い芸人や踊り子も出る。その合間の幕間に落語家の下ッ端や、漫才師、ボードビリアンなどが余興に出ます。殊に新年は稼ぎ時。私は伯父のところにお正月で遊びに行っていました。そこへ伸治から電話がかかって来たんです。
『社長、今日の場所の名前忘れちゃって・・・、なんだか横文字ってのは、難しいですねえ』
『お!伸治か。あのナ、あれナ、キャンセルになったんだ。ありがとうよ』
『そうすか、ありがとうゴザイマス』ってんで電話を切って・・・、新年の楽しい時間が過ぎていきました。
確か、お正月も3日は過ぎていたと思います。」
なぜ3日以降ということを覚えているのか。Suziさんはこう続ける。
「元旦は9時10時頃から、ひっきりなしに来客。毎年50人以上は来ましたね。さっと引き上げてくれる人(嬉しい!ありがたい!)。長ッ尻の人。酔っ払うとクセの悪い人(父が追ン出す)。酔いつぶれて寝てしまう人。大きくもない我が家の、確か8畳と6畳を通した部屋はもうゴチャゴチャ、戦場さながらでした。
午前中は父が来客相手に飲んでいますから、私は配膳とか片付け、ま、お燗係です。 午後、『俺はもう駄目だ!』と言って、親父さんは酔っ払って寝てしまいます。妹や弟はスキーに行ったりしていないことが多い。そもそも未成年(弟はまだまだ子供)ですし、妹はお客相手が大嫌いなので。こういうとき、父と私は、のん兵衛同士の戦友仲間意識が出る。母はお手伝いさんと台所で料理作りと、洗いもので奮戦中。それを知っているのでクリスマスや正月休暇でスキーに行く、ってのは気の毒で出来ませんでしたね。長女の損な立場です。
サア、午後は私がお客と飲む相手をします。チョビチョビ酔わないように飲みます。時には着物を着ていますので、乱れてもまずい。ま、途中からはラフな服に着替えましたが・・・。嫌な役回りでした。嫌なお客も居ますし、21、22の娘にはつらい付き合いです。でも、こういうことがあって、人との会話や様々なことを覚えられました。ちょっと話がそれますが、それに我が家はいつも来客のある家で、家族だけだと『あれ!?今日は誰も来ないの?』そんな会話が出る家でした。
母は料理の上手な人で、誰の話もおとなしく、そうですねエ、と優しく受け答える。父が若者を怒っていればトイレに行った隙に『気にしないでいいんですよ』なんて言って。診療所のレントゲン技師の人、看護婦さんも時々来ていましたし、兎に角近所の若者がよく来ていて夕飯食べて帰っていました。母は「我が家の出費は食費がNo.1!エンゲル係数高い家!」なんて冗談言っていたのを思い出します(当時エンゲル係数なるものが問題視された時代でもありましたから)。近所でも有名な、夕餉時はいつも笑い声のある家でした。
父の冗談、母の受け、私も妹も、そして弟も皆冗談や駄洒落好きの家でした。母も時々チョロット冗談を言っていましたね。
2日は父が2、3軒新年参りに出かける。我が家に親戚の来る日となります。
だから3日以降しか私は動けなかったんです。」
出口家の賑やかな様子を目の当たりに見るようだ。飾らないSuziさんの人柄は、こんな雰囲気で育まれたのだろう。出口一雄も、Suziさんの母君の手料理が好きで、よくこの家に立ち寄っていたという。
伸治の話を続けよう。Suziさんが出口一雄のマンションに遊びに行っている時のことである。
「さて・・・話も弾んでしばらく経った頃伸治から又電話が入ったんです。
『お、伸治か、どうした?』
『社長、3時間くらい【キャンセル】ってクラブ探してんですがね。ドーーーッコもそんな名前のナイトクラブありませんぜ。何処なんですかーー?』
『バッカヤロウ、おめえ、キャンセル・・・ってのはなあ、無くなった、中止、って事だよ!』
『ハア、そうすか・・・』
『今日はもう何にもねえんだろう、此処に来い!いっぱい飲め!』・・・って言うことのおかしなウソのような本当の話です。
電話を置いて伯父が言いました。『アンちくしょう、全く!怒るに怒れねえ!』
私は伸治の来る前に家に帰ったのでその後の事は・・知りません。」
彼の得意ネタ『あわてもの』を彷彿させるエピソードである。愛嬌があって罪がない。いいねえ。
文治は80歳まで生きた。 十代目桂文治の大名跡を継ぎ、芸術協会の会長を務めた。白髪で黒紋付きの高座姿は、昭和の名人の風格を漂わせた。特に五代目柳家小さん亡き後は、数少ない江戸前の滑稽噺の名手として存在感を示した。また、頑固だが邪気のない人柄は、多くの人に愛された。彼が寄席に通勤するために利用した西武新宿線では、女子高生たちから「ラッキーおじいさん」と呼ばれ、彼の姿を見るとその日1日幸せに過ごせると噂されたという。
七代目春風亭小柳枝とはまさに対照的、「長生きするも芸の内」を、身を以て示したと言っていい。
桂伸治は後の十代目桂文治。父親は三代目柳家小さん門下の柳家蝠丸。新作落語「女給の文」の作者である。初代小文治に入門して、前座名を小よし、二つ目になって伸治と改名した。伸治のまま昭和33年に真打昇進。芸術協会ではこの年、春風亭柳昇、三遊亭小圓馬、桂小南、春風亭柳好、三笑亭夢楽が真打に同時昇進し、皆、売れっ子となった。以後彼らは後の芸術協会の屋台骨を支えていくことになる。伸治は、昭和54年には桂派の止め名である文治を襲名。江戸前の滑稽噺の名手として、「親子酒」「あわてもの」「湯屋番」「豆屋」「牛ほめ」などで寄席の客席をぐわんぐわん沸かせた。晩年は桂米丸の後を承け、四代目の芸術協会会長を務めた。
ではSuziさんに語っていただこう。
「伸治の面白いところ・・・というか、エエーー!!考えられないーー!って事なんですが、伯父から聞いた話ですのでホントかどうか・・・?
『伸治の家ってのはナ、不思議な家だよ、全く。あのナ一、敷地内にナ、家のほうに本妻がいてナ、離れの方には妾のほうが居てね、この二人が又仲がいいんだよ。おかしな構成なんだよなあ。それでな、伸治が悪さするとナ、妾と本妻が組んで伸治をやっつける』
中学生の私だってそのくらいは解るんで、
『伯父さんウッソー』
『馬鹿、ホントの事だ』
そんな話を覚えています。」
出口一雄がそう言っているということは、出口が亡くなった昭和51年より前のことだな。文治は大正13年生まれだから、彼が50歳前後の頃だろうか。
妻妾同居(正確に言えば別棟だが)というのは、いわば男の理想なのかもしれない。でも、私は御免こうむる。
「さ、もう一つホントの話をしましょう。今はどうなったか知りませんが、昔は赤坂辺りにはクラブが多かったんですよ。そのクラブには外国から来た凄い芸人や踊り子も出る。その合間の幕間に落語家の下ッ端や、漫才師、ボードビリアンなどが余興に出ます。殊に新年は稼ぎ時。私は伯父のところにお正月で遊びに行っていました。そこへ伸治から電話がかかって来たんです。
『社長、今日の場所の名前忘れちゃって・・・、なんだか横文字ってのは、難しいですねえ』
『お!伸治か。あのナ、あれナ、キャンセルになったんだ。ありがとうよ』
『そうすか、ありがとうゴザイマス』ってんで電話を切って・・・、新年の楽しい時間が過ぎていきました。
確か、お正月も3日は過ぎていたと思います。」
なぜ3日以降ということを覚えているのか。Suziさんはこう続ける。
「元旦は9時10時頃から、ひっきりなしに来客。毎年50人以上は来ましたね。さっと引き上げてくれる人(嬉しい!ありがたい!)。長ッ尻の人。酔っ払うとクセの悪い人(父が追ン出す)。酔いつぶれて寝てしまう人。大きくもない我が家の、確か8畳と6畳を通した部屋はもうゴチャゴチャ、戦場さながらでした。
午前中は父が来客相手に飲んでいますから、私は配膳とか片付け、ま、お燗係です。 午後、『俺はもう駄目だ!』と言って、親父さんは酔っ払って寝てしまいます。妹や弟はスキーに行ったりしていないことが多い。そもそも未成年(弟はまだまだ子供)ですし、妹はお客相手が大嫌いなので。こういうとき、父と私は、のん兵衛同士の戦友仲間意識が出る。母はお手伝いさんと台所で料理作りと、洗いもので奮戦中。それを知っているのでクリスマスや正月休暇でスキーに行く、ってのは気の毒で出来ませんでしたね。長女の損な立場です。
サア、午後は私がお客と飲む相手をします。チョビチョビ酔わないように飲みます。時には着物を着ていますので、乱れてもまずい。ま、途中からはラフな服に着替えましたが・・・。嫌な役回りでした。嫌なお客も居ますし、21、22の娘にはつらい付き合いです。でも、こういうことがあって、人との会話や様々なことを覚えられました。ちょっと話がそれますが、それに我が家はいつも来客のある家で、家族だけだと『あれ!?今日は誰も来ないの?』そんな会話が出る家でした。
母は料理の上手な人で、誰の話もおとなしく、そうですねエ、と優しく受け答える。父が若者を怒っていればトイレに行った隙に『気にしないでいいんですよ』なんて言って。診療所のレントゲン技師の人、看護婦さんも時々来ていましたし、兎に角近所の若者がよく来ていて夕飯食べて帰っていました。母は「我が家の出費は食費がNo.1!エンゲル係数高い家!」なんて冗談言っていたのを思い出します(当時エンゲル係数なるものが問題視された時代でもありましたから)。近所でも有名な、夕餉時はいつも笑い声のある家でした。
父の冗談、母の受け、私も妹も、そして弟も皆冗談や駄洒落好きの家でした。母も時々チョロット冗談を言っていましたね。
2日は父が2、3軒新年参りに出かける。我が家に親戚の来る日となります。
だから3日以降しか私は動けなかったんです。」
出口家の賑やかな様子を目の当たりに見るようだ。飾らないSuziさんの人柄は、こんな雰囲気で育まれたのだろう。出口一雄も、Suziさんの母君の手料理が好きで、よくこの家に立ち寄っていたという。
伸治の話を続けよう。Suziさんが出口一雄のマンションに遊びに行っている時のことである。
「さて・・・話も弾んでしばらく経った頃伸治から又電話が入ったんです。
『お、伸治か、どうした?』
『社長、3時間くらい【キャンセル】ってクラブ探してんですがね。ドーーーッコもそんな名前のナイトクラブありませんぜ。何処なんですかーー?』
『バッカヤロウ、おめえ、キャンセル・・・ってのはなあ、無くなった、中止、って事だよ!』
『ハア、そうすか・・・』
『今日はもう何にもねえんだろう、此処に来い!いっぱい飲め!』・・・って言うことのおかしなウソのような本当の話です。
電話を置いて伯父が言いました。『アンちくしょう、全く!怒るに怒れねえ!』
私は伸治の来る前に家に帰ったのでその後の事は・・知りません。」
彼の得意ネタ『あわてもの』を彷彿させるエピソードである。愛嬌があって罪がない。いいねえ。
文治は80歳まで生きた。 十代目桂文治の大名跡を継ぎ、芸術協会の会長を務めた。白髪で黒紋付きの高座姿は、昭和の名人の風格を漂わせた。特に五代目柳家小さん亡き後は、数少ない江戸前の滑稽噺の名手として存在感を示した。また、頑固だが邪気のない人柄は、多くの人に愛された。彼が寄席に通勤するために利用した西武新宿線では、女子高生たちから「ラッキーおじいさん」と呼ばれ、彼の姿を見るとその日1日幸せに過ごせると噂されたという。
七代目春風亭小柳枝とはまさに対照的、「長生きするも芸の内」を、身を以て示したと言っていい。
2016年6月8日水曜日
香取神宮近く、川口園食堂のカツ丼
香取神宮でお参りを済ませ、佐原の街中で昼飯にしようと思って車に乗ったが、駐車場を出てすぐの所にあった、この店構えに一目ぼれ。ついふらふらと入店する。
店内は見事に昭和。いいねえ。奥の座敷には昭和天皇・皇后両陛下の写真が飾られている。
私は土間のテーブルに席を取った。
メニューは定食からラーメン、うどん、そばに至るまで幅広い。フツーのカツ丼が食べたかったので、迷わずカツ丼を頼む。
で、出てきましたよ。それがこちら。カツ丼700円であります。
何の衒いもないカツ丼。こういうのが食べたかったの。
カツも厚過ぎず薄過ぎず、程がいい。優しいお味。旨し、でした。
店構えをもう1枚。軽食堂という暖簾がいいねえ。
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