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2016年7月31日日曜日
牛久かっぱ祭
「牛久かっぱ祭」に合わせて、妻の実家に泊まりに行く。
広島に嫁に行った義妹も久々の里帰り。賑やかな週末となった。
祭りといっても、神事に関係するものではない。新興住宅地の親睦で始まったお祭りだ。
とはいっても、40年近い歴史を持ち、牛久市民の根っこのところを繋いでくれている。
各団体が趣向を凝らし、かっぱ囃子を踊りながら練り歩くパレードは、壮観でもある。
子どもたちを夜店で遊ばせ、晩飯のおかずを屋台で買って帰る。
たこ焼き、モツ煮、ハラミ焼、焼鳥、ピザなんてところをつまみながら、ビール、酒。
久しぶりに会ったいとこ同士、皆仲よく遊んでいる。こういう光景を眺めながら飲む酒は、一段と旨いもんだねえ。
以下、かっぱ祭の様子です。今年は牛久市制35周年だそうです。
2016年7月27日水曜日
三叉路特集
三叉路、というのになぜか心惹かれる。
一つの道が二つに分かれ、そしてその間には何らかの隔てるものがあり、二つの道は無交渉になりながらも、まるでパラレルワールドのように奥へと延びていく。日常の中に潜むちょっと不思議な風景。荒木経惟が好んで撮る題材で、横尾忠則などは「三叉路」だけで1冊の写真集を作ってしまった。
私も影響を受けていたんでしょうなあ、撮りためた写真を見返してみると、けっこう三叉路を撮っている。
では少しだけ、「三叉路特集」です。
一つの道が二つに分かれ、そしてその間には何らかの隔てるものがあり、二つの道は無交渉になりながらも、まるでパラレルワールドのように奥へと延びていく。日常の中に潜むちょっと不思議な風景。荒木経惟が好んで撮る題材で、横尾忠則などは「三叉路」だけで1冊の写真集を作ってしまった。
私も影響を受けていたんでしょうなあ、撮りためた写真を見返してみると、けっこう三叉路を撮っている。
では少しだけ、「三叉路特集」です。
土浦。
雨に濡れた路面がいい。
上の写真と同じ場所。
カラー、晴天で大分雰囲気が違う。
愛知県瀬戸。
真ん中のうどん屋さんがいい味出してるなあ。
上の写真から、ちょっと引いた所。
周りの家並みもいいよねえ。
川崎。
これも川崎。歩道橋の上から。
行方市玉造。
浅草。
大洗。
狛江。
これは沖縄。
2016年7月24日日曜日
この週末
ここんとこ、陽射しはあっても涼しい日が続いている。
夏もこんなもんでいいな。ここ数年のような猛暑は勘弁してほしい。
昨日は1日家でごろごろ.前の晩、地元の先輩に呼び出され、ちょいと遅くまで飲んでいたもので。
昼前に次男が下の畑へブルーベリーを摘みに行くというので付き合う。
彼は体を動かすのがあまり好きではないが、こういう作業は好きなのだ。
前の山を見ると、山百合が見頃を迎えていた。
今日は、長男の部活のコンクールを観に行く。
これで部活も引退。よく頑張ったな。
夕食は、長男のリクエストで手巻き寿司。それに長男が好きな焼き鳥も買い足す。
皆でわいわい美味しくいただきました。
夏もこんなもんでいいな。ここ数年のような猛暑は勘弁してほしい。
昨日は1日家でごろごろ.前の晩、地元の先輩に呼び出され、ちょいと遅くまで飲んでいたもので。
昼前に次男が下の畑へブルーベリーを摘みに行くというので付き合う。
彼は体を動かすのがあまり好きではないが、こういう作業は好きなのだ。
これも夏の味だねえ。
前の山を見ると、山百合が見頃を迎えていた。
今日は、長男の部活のコンクールを観に行く。
これで部活も引退。よく頑張ったな。
夕食は、長男のリクエストで手巻き寿司。それに長男が好きな焼き鳥も買い足す。
皆でわいわい美味しくいただきました。
2016年7月20日水曜日
火の見櫓
この辺りは田舎なもので、火の見櫓がそこここにある。
大体は消防団の分団詰所の近くだ。
しゅっとした細長い鉄塔に三角状の屋根があり、半鐘がぶら下がっている。
半鐘といえば、古今亭志ん生・志ん朝親子の十八番『火焔太鼓』のサゲ、「半鐘はいけないよお、おじゃんになるから」でもお馴染み。半鐘の打ち方は、火元が遠い順に「一つ番」「二つ番」「三つ番」とあって、1度に叩く数で緊急の度合いが分かるという。いちばん近いのが「擦り番」。半鐘の中に撞木を突っ込んでがらがらがらとかき回すのである。これもやはり落語『火事息子』や『鼠穴』などのマクラから教わった。
ところが、ちょっと前、半鐘をねらった窃盗団が出たことがあったからか、火の見櫓からは次々と半鐘が撤去されてしまった。
それだけではなく、火の見櫓自体も、老朽化の波を受け、ひっそりと姿を消しつつある。
無理もない。今や防災無線がある。誰かが火の見櫓に上って半鐘叩く必要もないだろう。
でもね、火の見櫓のある風景、実は私、好きなんだよね。
この前、休日出勤をしたついでに幾つか写真に撮って来た。
以下に掲載します。
ふと、ボブ・ディランの『見張り塔からずっと』という曲を思い出した。関係ないけど。
大体は消防団の分団詰所の近くだ。
しゅっとした細長い鉄塔に三角状の屋根があり、半鐘がぶら下がっている。
半鐘といえば、古今亭志ん生・志ん朝親子の十八番『火焔太鼓』のサゲ、「半鐘はいけないよお、おじゃんになるから」でもお馴染み。半鐘の打ち方は、火元が遠い順に「一つ番」「二つ番」「三つ番」とあって、1度に叩く数で緊急の度合いが分かるという。いちばん近いのが「擦り番」。半鐘の中に撞木を突っ込んでがらがらがらとかき回すのである。これもやはり落語『火事息子』や『鼠穴』などのマクラから教わった。
ところが、ちょっと前、半鐘をねらった窃盗団が出たことがあったからか、火の見櫓からは次々と半鐘が撤去されてしまった。
それだけではなく、火の見櫓自体も、老朽化の波を受け、ひっそりと姿を消しつつある。
無理もない。今や防災無線がある。誰かが火の見櫓に上って半鐘叩く必要もないだろう。
でもね、火の見櫓のある風景、実は私、好きなんだよね。
この前、休日出勤をしたついでに幾つか写真に撮って来た。
以下に掲載します。
小美玉市田木谷。
海軍百里ヶ原飛行場(現航空自衛隊百里基地)の見張り塔を転用したものだという。
米軍の機銃掃射の弾痕が残っているらしい。
鉾田市借宿。
消防団の車庫の上に建てられている。ちょっと珍しい。
小美玉市小塙。
形としてはいちばん好きかな。
近くで見るとけっこうぼろぼろだった。
2016年7月18日月曜日
行方市玉造を歩く
行方市玉造地区の中心部を歩いてきた。
平成の大合併で、たくさんの市が生まれたが、その市の中心というものが分散して希薄になった。それぞれの地区の中心部が、これまたまんべんなく寂れちゃってるんだよなあ。
かつての旧玉造町の中心部は、鹿島鉄道鉾田線の玉造町駅があった辺りから旧国道355号線沿いに続く玉造中央商店街にかけて。
しかし旧市街を大きく迂回したバイパスができ、鉄道は廃線となった。バイパス沿いにはベイシアができた。もはや街の中心部としての役割は終わってしまったと言っていい。
旧玉造町駅の空き地に車を止め、1時間ほど歩く。
ほとんどの店が閉まっている。ただ、往時の残滓がわずかにだが残るけど、それもいずれなくなって、ただの住宅地になっていくのだろう。
こうして、どこも同じのっぺりとした風景で塗りつぶされてしまうんだろうな。
では旧玉造町駅付近から。
公衆トイレ。
鹿島鉄道のどこかの駅舎を転用したんじゃなかったかなあ。
鹿島鉄道の公認キャラ「かしてつくん」が描かれております。
駅前通り。
突き当りが旧玉造町駅。
2016年7月16日土曜日
今日の日記
朝、ごはん、味噌汁、鮭、納豆。
めったにやらないのだが、午前中職場に行ってたまっている仕事をする。
帰りにスーパーでレトルトのカレーを買って来て、昨夜の夕食の残りのカツでカツカレーにして食べる。
次男が種を蒔いた朝顔が咲き、前の山の山百合が咲く。
もうそろそろ梅雨も明けそうだ。
暑い夏がやって来るんだねえ。
夕方、皆で夏野菜のピザを作る。
夕食は、ピザ、ベーコンとナスの炒め物、餃子でビール、赤ワイン。デザートは桃。桃は甘口の白ワインに合わせると旨い。
めったにやらないのだが、午前中職場に行ってたまっている仕事をする。
帰りにスーパーでレトルトのカレーを買って来て、昨夜の夕食の残りのカツでカツカレーにして食べる。
次男が種を蒔いた朝顔が咲き、前の山の山百合が咲く。
もうそろそろ梅雨も明けそうだ。
暑い夏がやって来るんだねえ。
夕方、皆で夏野菜のピザを作る。
夕食は、ピザ、ベーコンとナスの炒め物、餃子でビール、赤ワイン。デザートは桃。桃は甘口の白ワインに合わせると旨い。
次男が種を蒔いた朝顔。
午後まで花が咲いておりました。
前山の山百合。
花がたくさんついているので、どうしても倒れてしまう。
清楚でありながら妖艶ですなあ。
こちらは庭の桔梗。
初物のトウモロコシ。
甘くて旨し。
2016年7月13日水曜日
2016年7月9日土曜日
新しい文楽論 『談志 名跡問答』より
立川談志の死後、談志に関する本が、それこそうじゃうじゃ出た。
その中で私がよく読んでいるのが『談志 名跡問答』である。最晩年の談志が、福田和也を相手に、文楽・志ん生・圓生といった昭和の名人たちについて語ったのをまとめたものだ。
対談相手の福田和也がいい。談志に気持ちよく語らせながらも、おっと思わせるような見解を放り込む。談志もすぐさまそれに反応し、上手い具合に話が転がってゆくのだ。
例えば「文楽を語る」の項。八代目桂文楽といえば、「楷書の芸」や「無器用」、最近では「フレーズ」なんてのが、お決まりのように繰り返される。何だか語り尽くされたような感じがして、今更文楽でもあるまいと思う人もいるだろう。
しかし、この本は違うぞ。ちょっとばかり引用してみよう。
福田「ただ、文楽師匠独特の、ひたすら心地好い世界ってありますよね。調子がよくて、いろんなフレーズが入っている。」
談志「でも『大仏餅』なんて、あまり心地好くないでしょう。」
福田「でも、調子がいいじゃないですか。それに『大仏餅』のようなかなり暗い話でも、深刻にしない。摩擦係数が全然ない世界にいることの心地好さと不気味さのようなものがあります。」
談志「それはあるでしょうね。それらを含めて、名人芸とか十八番とか言ったのかもしれませんね。」
福田「華やかできれいで楽しいところだけ見せるというのが芸人だということなんでしょうか。ドキュメントとして、あがいたりもがいたりするような無様さのところから、ちょっと輝きを引き出したりするようなことは・・・。」
談志「それはなかったんだよな。」
確かに「フレーズ」という言葉は出てくるが、「摩擦係数が全然ない世界にいることの心地好さと不気味さ」という見方は凄い。こんな切り口で文楽を語る人は今までいなかったように思う。
文楽のネタをどう思う?と訊かれた福田はこう答える。
福田「『つるつる』はいいですね。でも、描写というか造形はそんなに深くいかないですよね。どちらかというと、パッと印象が残って、それはもう雪みたいに消えてしまってかまわないという。」
談志「うん。だから、その落語っていうものを粋に気持ちよくやっているという感じが強いな。何なんだろう、歌謡曲と一緒なのかな。歌謡曲と言わないまでも、歌に近い。」
福田「ただ歌謡曲であれば、そこにある悲しみやら感情やらドラマを、聴く人が仮託するわけじゃないですか。でも『よかちょろ』には仮託できないですよね。」
談志「できない。しようがねえよ。」
福田「そこがすごいところです。共感や同情を期待しないで楽しませるという。」
談志「だから、分かりやすく言えば、あれが江戸の落語なんですと、『江戸っ子の鰹じゃないけども、そうなってくるのかなあ。」
いつも文楽に否定的な談志が、何だか福田のペースに巻き込まれているような気がする。
文楽をかつての落語通は「噺家魚見立て」において、「文楽=鰹、これを食わざるは江戸っ子に非ず」と言ったという。
「文楽=鰹」について談志は言う。
談志「世の中の文楽師匠に対する評価は分からない部分もあったけど、『鰹』って言われたぐらいだから、『文楽を食わなければどうにもなんない、江戸っ子としての恥だろう』というところにいたことが、論理的ではないけど、俺は生理的にやっぱり江戸っ子の落語なんだって受け止めたな。」
福田「臭みはないですよね。」
談志「だけど、あの大きな声を出すことだけはね。」
福田「ただ、その大きな声を出すことも、例えば圓生さんのように、努力を感じさせる臭みはないですよね。」
談志「あ、いいこと言ったな。それはないなあ。」
談志が福田の言葉に触発される。そして、対談の終盤にはこうなるのだ。
福田「言葉遣いが難しいですけど、志ん生さんはやはりヒューマニズムの範囲じゃないですか。でも、文楽師匠はヒューマニズムじゃないですよね。人間というものを投げてるところがあって、そこはやっぱり家元に近いんじゃないでしょうか。」
談志「人間性ってのは、常識で判断できる範囲のものに限られてしまうじゃないですか。そうでなきゃ『モチリンです』なんて言ってらんないよ。キザな言葉で言うと、文楽師匠は芸術というものを解釈してたのかもしれない。」
福田「人間とか人生なんかよりも、やっぱり芸の方が大事だと思っているんですよね。」
談志「フレーズという名のもとにおける、非社会性というか、非常識というのを、無意識のうちに出してたのかな。」
福田「フレーズというか、もう音楽に近いようなものになっていて、ルールとか倫理とか、価値観とか関係なくなっちゃうんですよね。」
談志「人間のぎりぎりのところから出てくるフレーズというなら、理解できる。うーん。あのなんとも言えないフレーズ。くどいけど常識の外のものを引き上げたんでしょうな。私のイリュージョンの世界に近いものじゃないんですか。」
新しい八代目桂文楽論がここにある。この本が出たのは2012年だが、それは少しも古びていない。
談志も喋っていて楽しかったと思う。それを引き出した福田和也に、私は大いなる賛辞を贈りたい。
その中で私がよく読んでいるのが『談志 名跡問答』である。最晩年の談志が、福田和也を相手に、文楽・志ん生・圓生といった昭和の名人たちについて語ったのをまとめたものだ。
対談相手の福田和也がいい。談志に気持ちよく語らせながらも、おっと思わせるような見解を放り込む。談志もすぐさまそれに反応し、上手い具合に話が転がってゆくのだ。
例えば「文楽を語る」の項。八代目桂文楽といえば、「楷書の芸」や「無器用」、最近では「フレーズ」なんてのが、お決まりのように繰り返される。何だか語り尽くされたような感じがして、今更文楽でもあるまいと思う人もいるだろう。
しかし、この本は違うぞ。ちょっとばかり引用してみよう。
福田「ただ、文楽師匠独特の、ひたすら心地好い世界ってありますよね。調子がよくて、いろんなフレーズが入っている。」
談志「でも『大仏餅』なんて、あまり心地好くないでしょう。」
福田「でも、調子がいいじゃないですか。それに『大仏餅』のようなかなり暗い話でも、深刻にしない。摩擦係数が全然ない世界にいることの心地好さと不気味さのようなものがあります。」
談志「それはあるでしょうね。それらを含めて、名人芸とか十八番とか言ったのかもしれませんね。」
福田「華やかできれいで楽しいところだけ見せるというのが芸人だということなんでしょうか。ドキュメントとして、あがいたりもがいたりするような無様さのところから、ちょっと輝きを引き出したりするようなことは・・・。」
談志「それはなかったんだよな。」
確かに「フレーズ」という言葉は出てくるが、「摩擦係数が全然ない世界にいることの心地好さと不気味さ」という見方は凄い。こんな切り口で文楽を語る人は今までいなかったように思う。
文楽のネタをどう思う?と訊かれた福田はこう答える。
福田「『つるつる』はいいですね。でも、描写というか造形はそんなに深くいかないですよね。どちらかというと、パッと印象が残って、それはもう雪みたいに消えてしまってかまわないという。」
談志「うん。だから、その落語っていうものを粋に気持ちよくやっているという感じが強いな。何なんだろう、歌謡曲と一緒なのかな。歌謡曲と言わないまでも、歌に近い。」
福田「ただ歌謡曲であれば、そこにある悲しみやら感情やらドラマを、聴く人が仮託するわけじゃないですか。でも『よかちょろ』には仮託できないですよね。」
談志「できない。しようがねえよ。」
福田「そこがすごいところです。共感や同情を期待しないで楽しませるという。」
談志「だから、分かりやすく言えば、あれが江戸の落語なんですと、『江戸っ子の鰹じゃないけども、そうなってくるのかなあ。」
いつも文楽に否定的な談志が、何だか福田のペースに巻き込まれているような気がする。
文楽をかつての落語通は「噺家魚見立て」において、「文楽=鰹、これを食わざるは江戸っ子に非ず」と言ったという。
「文楽=鰹」について談志は言う。
談志「世の中の文楽師匠に対する評価は分からない部分もあったけど、『鰹』って言われたぐらいだから、『文楽を食わなければどうにもなんない、江戸っ子としての恥だろう』というところにいたことが、論理的ではないけど、俺は生理的にやっぱり江戸っ子の落語なんだって受け止めたな。」
福田「臭みはないですよね。」
談志「だけど、あの大きな声を出すことだけはね。」
福田「ただ、その大きな声を出すことも、例えば圓生さんのように、努力を感じさせる臭みはないですよね。」
談志「あ、いいこと言ったな。それはないなあ。」
談志が福田の言葉に触発される。そして、対談の終盤にはこうなるのだ。
福田「言葉遣いが難しいですけど、志ん生さんはやはりヒューマニズムの範囲じゃないですか。でも、文楽師匠はヒューマニズムじゃないですよね。人間というものを投げてるところがあって、そこはやっぱり家元に近いんじゃないでしょうか。」
談志「人間性ってのは、常識で判断できる範囲のものに限られてしまうじゃないですか。そうでなきゃ『モチリンです』なんて言ってらんないよ。キザな言葉で言うと、文楽師匠は芸術というものを解釈してたのかもしれない。」
福田「人間とか人生なんかよりも、やっぱり芸の方が大事だと思っているんですよね。」
談志「フレーズという名のもとにおける、非社会性というか、非常識というのを、無意識のうちに出してたのかな。」
福田「フレーズというか、もう音楽に近いようなものになっていて、ルールとか倫理とか、価値観とか関係なくなっちゃうんですよね。」
談志「人間のぎりぎりのところから出てくるフレーズというなら、理解できる。うーん。あのなんとも言えないフレーズ。くどいけど常識の外のものを引き上げたんでしょうな。私のイリュージョンの世界に近いものじゃないんですか。」
新しい八代目桂文楽論がここにある。この本が出たのは2012年だが、それは少しも古びていない。
談志も喋っていて楽しかったと思う。それを引き出した福田和也に、私は大いなる賛辞を贈りたい。
2016年7月4日月曜日
夕暮の石岡散歩
大福さんと飲む前、1時間ほど石岡の街を散歩した。
駅で車を降りる。
郵便局の前から、仲之内を通って香丸町へと向かう。
香丸町から中町通りを行く。
金毘羅様の所から、守横新道を駅の方へ。
この通りもまた渋い建物が多いのよ。
最後はプラザホテル奥の建物。元は左官屋さんだったらしい。見事な細工だねえ。
大福さんも、またの機会に石岡の街をぶらぶらしてみてくださいな。
駅で車を降りる。
郵便局の前から、仲之内を通って香丸町へと向かう。
つげ義春『ねじ式』を思わせる看板。
関鉄の労働組合事務所。
労組らしく民進党支持のようだ。
この辺り、古い建物がごそっとなくなっちゃったみたいだな。
ちょっと奥まった所にある看板建築の自転車屋さん。
中学入る時にここで自転車買ったんじゃなかったっけ、
香丸町から中町通りを行く。
重厚な土蔵造り。
本屋さんの方は役目を終えています。
モリコービル。かつては石岡三大デパートのひとつだった。
2階の出窓の所が確か食堂。ここでカレーを食べた覚えがある。
どうしても撮っちゃう東京庵。
金毘羅様の境内にある正岡子規の句碑。
『水戸紀行』で子規たちはこの道をまっすぐ行ったのだ。
入ってすぐの所にある「バー・クロンボ」。
どうしても撮ってしまう。
この通りもまた渋い建物が多いのよ。
ファミリー割烹ってのも渋いねえ。
最後はプラザホテル奥の建物。元は左官屋さんだったらしい。見事な細工だねえ。
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