2005年の1月に手帳に書いた文章である。以下に記す。
* * * * *
上野駅から九段まで
ではないが、
神田駅で電車を降り、靖国通りをまっすぐに、九段に向けて歩いたのだ。
靖国神社には、母方の祖父と、私の家の当主になるはずだった、私の伯父にあたる人とが、眠っている、という。
私の父や母は、遺族会の旅行で、度々お参りしているが、
私は靖国神社に行ったことがない。
私は、靖国神社のありように、懐疑的である。
が、四十も半ばになって、見もせずに何か言うのは、いささか大人げないのではないかと思ってみたりもして、
では、1月のこの日、ともかくも、ひと目見ておこうかと、靖国通りをまっすぐに、九段に向かったのである。
九段の坂を上り、大鳥居をくぐり抜け、広い参道を行く。
迎えるのは大村益次郎像。
日露戦争の時代には、この辺りに勧工場が立ち並び、さながら、テーマパークの如きであった。
参道は長い。
まっすぐ先には拝殿が見える。
拝殿が近づくにつれて、厳粛な気分が醸成される。
靖国は、すぐれた装置である。
こんな立派なお社に、神と祀られもったいなさに
と、九段の母が泣き崩れた拝殿は、確かに荘厳ではあったが、
それは、個人の死に対して、国家が施す慈悲のようなものであったかもしれない。
いや、むしろ、それと引き換えに、国家に忠誠を尽くすことを課したもののようにも見えた。
資料館では、勇壮な日本の兵士が讃えられていた。
死をも恐れぬ一人一人の兵士が、この国を守ったのだ、という。
母方の祖父はニューギニアで死んだ。
我が家の当主はビルマで死んだ。
この国を守るためだというのなら、小さな村で生まれた農民が、なぜあんな遠い異国で死ななければならなかったのか。
兵卒はよく戦った。だが、作戦は、兵站は、どうだったのか。
この戦いにおいて戦略は存在したのか。
緒戦で大勝ちし、その勢いで有利な講和に持ち込もうという、大雑把な見通ししかなかったのではないか。
そしてそれは、日露戦争での幸運な勝ち戦を模したものに過ぎなかったのではないか。
しかも、同盟国が次々に降伏しても、戦力が破綻しても、軍部は戦いをやめなかった。その中で、兵卒は死に続け、銃後の民は辛酸をなめ続けたのだ。
そのようなことに、この資料館は触れてはいない。
兵卒の死を犬死にしたくないという思いは読み取れるが、
靖国のありようが、それを拒んだという見方もできる。
靖国は、国のために死ぬということがいかに美しいか、知らしめる装置でもあるからだ。
1月の平日の午後、若者の姿がちらつく。
あの戦争で、日本人はよくやった、というムードが形成されつつある。
あの時代、日本人は美しかった、という雰囲気が、今形成されつつある。
確かに、日本人は必死に戦ったし、その姿は美しくもあったろう。
しかし、その戦いは、日本にとっても、戦場になった国々にとっても、不幸なものだった。そのようなものは、なければない方がよかった。
夕暮れの九段の坂を私は下りる。
母方の祖父を思いながら。
我が家の当主になるはずだった伯父を思いながら。
熱い天ぷら蕎麦と燗酒を、私の身体は欲していた。