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2019年8月28日水曜日

【悲報】こどもや閉店

何気なく茨城新聞を読んでいたら、茨城町の駄菓子屋、「こどもや」が閉店するという記事を見つけた。

https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15668213199230

私はこの店の佇まいが大好きで、ブログでも何度か取り上げた。
先月、小鶴商店街を散歩した時も、こどもやは、しっかりカメラに収めた。

この外観に惚れたのよ。
看板もキッチュでいいでしょ?
ただ、店頭にあまり商品を置いていないので、ちょっと嫌な予感はしていたんだよね。
2015年7月のこどもや。
震災にも耐えたんだよなあ。



仕方のないことだけど、やはり寂しい。
私は地元の人間ではないし、子どもの頃からの思い出があるわけじゃないけど、でも、この店がなくなるのは寂しいなあ。

2019年8月24日土曜日

江戸崎をちょっとだけ歩く

この間、稲敷に行った。
時間があったので、江戸崎の商店街をちょっとだけ歩く。

つげ義春の『貧困旅行記』の中の、「旅年譜」という文章に、こういう記述がある。

一九七五(昭和50)年
三月〈栃木・茨城〉
 ぶらぶらあてもなくTとドライブ。足利の町、佐野の町、葛生などを見て回る。栃木で泊まり、小山を経て、水戸線の結城、下館、笠間などの田舎町を巡る。
 土浦から霞ケ浦西岸の江戸崎へ行く。江戸崎は江戸時代栄えた港町だが、今は忘れられ、寂しい田舎町で、住んでみたいほど気に入った。

つげが心惹かれた江戸崎の街並み、現在の様子です。なかなかシブいよ。















川沿いに公園があったので行ってみた。



この日は天気が不安定で落ち着かなかったな。今度時間を作って、ゆっくり歩きたい。

2019年8月23日金曜日

ちょっとだけ鉾田散歩

鉾神社をお参りした日、昼飯を食いがてら鉾田の町中を散歩する。
暑かったなあ。真夏の散歩はきつくなってきたよ。



お昼はここで食べた。

かつ丼ともりそばのセット。

真っ当なかつ丼。

そばも食べたいんだよね。

お店の外観。





元は映画館だった建物。



鉾田は、かつて水運で栄えた町。最後の将軍、徳川慶喜が謹慎をしていた水戸から駿府に向かって船出したのはこの辺りからです。

2019年8月21日水曜日

鉾神社


鉾田市鉾田にある鉾神社。
天正4年(1576年)、鉾田城主田山東市正によって城の守護神として創建された。後に佐竹氏のために鉾田城は滅ぼされ、長い間荒廃していたが、江戸時代初期に再興された。明治時代には鉾田村の鎮守神となり、現在に至っている。
祭神は大己貴命、武甕槌命、日本武尊の三柱。出雲の国譲り神話で対峙した、大己貴命と武甕槌命が祀られているのも興味深い。





江戸時代初期の再建ということからか、日光の東照宮的な派手目の彩色が施されている。


至る所に「ここでポケモンGOをやってはいけないよ」という趣旨の注意書きがあった。
8月の最終金土日には例大祭があり、1基の神輿、8台の山車が町内を練り歩きます。

この看板が目印。

2019年8月18日日曜日

盆休み

土日を含めた盆休みも今日で終わり。
休みの間、せっかくだからと物置から何冊か本を持って来て読んでいた。
村上春樹、『ノルウェイの森(上・下)』、『国境の南、太陽の西』、『スプートニクの恋人』を読了。今は短編集『レキシントンの幽霊』を読んでいる。
『レキシントンの幽霊』は買った当時、新婚旅行に持って行って、オーストラリアのケアンズのホテルで読んでいた。ついつい初日で読んでしまったことを憶えている。
長男から「お父さん、もしかしてハルキスト?」と訊かれたが、「そうでもないよ」と答えておいた。この齢でハルキストもこっぱずかしい。村上本人は著書で「村上主義者」はどうかと言っていたっけ。「村上派」とか「村上党」なども考えたけど、しっくりこない。読書はあくまで個人的な営みだから、徒党を組むイメージの言葉はそぐわないんだよなあ。

妻は次男と実家でお泊り。中村雅俊の歌ではないが、「盆帰り」(誰も知らないか)。
長男は模試やら勉強やらで家に残る。
朝はパン、アイスコーヒー、ウィンナー炒め。
昼は昨日の残りの焼きそば、それに加えてレタス炒飯を作って食べる。
3時頃、妻と次男が帰って来る。お土産のシュークリームを食べる。
夕方、近所の神社のお祭りに行く。



生ビールを飲む。旨し。無料で配っているポップコーンをお土産にする。
夕食は、ハンバーグ、厚揚げでビール、酒。
妻とテレビを見ながらアイリッシュウィスキーを飲む。

下は神社へ行く途中に撮った蓮の花とコスモスの花。



暑い日が続くけど、季節は秋に向かっているんだねえ。

2019年8月15日木曜日

2005年1月26日のこと

2005年の1月に手帳に書いた文章である。以下に記す。

*   *   *   *   *

上野駅から九段まで
ではないが、
神田駅で電車を降り、靖国通りをまっすぐに、九段に向けて歩いたのだ。

靖国神社には、母方の祖父と、私の家の当主になるはずだった、私の伯父にあたる人とが、眠っている、という。
私の父や母は、遺族会の旅行で、度々お参りしているが、
私は靖国神社に行ったことがない。
私は、靖国神社のありように、懐疑的である。
が、四十も半ばになって、見もせずに何か言うのは、いささか大人げないのではないかと思ってみたりもして、
では、1月のこの日、ともかくも、ひと目見ておこうかと、靖国通りをまっすぐに、九段に向かったのである。

九段の坂を上り、大鳥居をくぐり抜け、広い参道を行く。


迎えるのは大村益次郎像。
日露戦争の時代には、この辺りに勧工場が立ち並び、さながら、テーマパークの如きであった。
参道は長い。
まっすぐ先には拝殿が見える。
拝殿が近づくにつれて、厳粛な気分が醸成される。


靖国は、すぐれた装置である。

こんな立派なお社に、神と祀られもったいなさに
と、九段の母が泣き崩れた拝殿は、確かに荘厳ではあったが、
それは、個人の死に対して、国家が施す慈悲のようなものであったかもしれない。
いや、むしろ、それと引き換えに、国家に忠誠を尽くすことを課したもののようにも見えた。

資料館では、勇壮な日本の兵士が讃えられていた。
死をも恐れぬ一人一人の兵士が、この国を守ったのだ、という。
母方の祖父はニューギニアで死んだ。
我が家の当主はビルマで死んだ。
この国を守るためだというのなら、小さな村で生まれた農民が、なぜあんな遠い異国で死ななければならなかったのか。
兵卒はよく戦った。だが、作戦は、兵站は、どうだったのか。
この戦いにおいて戦略は存在したのか。
緒戦で大勝ちし、その勢いで有利な講和に持ち込もうという、大雑把な見通ししかなかったのではないか。
そしてそれは、日露戦争での幸運な勝ち戦を模したものに過ぎなかったのではないか。
しかも、同盟国が次々に降伏しても、戦力が破綻しても、軍部は戦いをやめなかった。その中で、兵卒は死に続け、銃後の民は辛酸をなめ続けたのだ。
そのようなことに、この資料館は触れてはいない。
兵卒の死を犬死にしたくないという思いは読み取れるが、
靖国のありようが、それを拒んだという見方もできる。
靖国は、国のために死ぬということがいかに美しいか、知らしめる装置でもあるからだ。

1月の平日の午後、若者の姿がちらつく。
あの戦争で、日本人はよくやった、というムードが形成されつつある。
あの時代、日本人は美しかった、という雰囲気が、今形成されつつある。
確かに、日本人は必死に戦ったし、その姿は美しくもあったろう。
しかし、その戦いは、日本にとっても、戦場になった国々にとっても、不幸なものだった。そのようなものは、なければない方がよかった。



夕暮れの九段の坂を私は下りる。
母方の祖父を思いながら。
我が家の当主になるはずだった伯父を思いながら。



熱い天ぷら蕎麦と燗酒を、私の身体は欲していた。



2019年8月12日月曜日

おれの、『締め込み』

ちょっと前、鶯春亭梅八さんが主宰する寄席で、『締め込み』をやってきた。

このネタは学生時代、八代目桂文楽に憧れてやったものだ。
何と言っても黒門町との出会いの噺である。思い入れは強かった。

2008年12月7日の記事

しかし、やればやるほど面白くならず、対外発表会で一回かけただけで封印してしまった。
八海君には『芝浜』をやる時に、「『締め込み』みたいに小っちゃくまとまって、つまらなくなるんじゃないか?」と危惧されたほどだ。
でも、この噺はずっと好きだった。最近、また落語を喋り始めて、いつか機会があれば挑戦してみようと思っていたのだった。
学生時代失敗したのは、桂文楽の型をそのままやっていたということだ。それでは私がやる意味はない。しかも、「でこでこに火を起こして」とか、「前尻」とか、自分の言葉になっていない言葉を使ったって、お客伝わるはずもない。

2013年1月22日の記事

今回、噺を再構築してみた。
基本的には学生の時覚えた文楽の型を踏襲。加えて、古今亭志ん朝の口演を参考にする。文楽はいきなり「こんにちはー」と声を掛けるが、志ん朝の方には導入部で間抜け泥のくだりが入る。私はこれから空き巣をするということを独白で説明しながら噺に入った。文楽だからいきなり家に入るところからでも説得力を持つのである。私の場合、やはり説明的な言葉が必要になる。(だからといって、ここで私が間抜け泥をやれば、冗長になってしまうだろう。)
文楽も志ん朝も、その噺はサゲまでやっていない。泥棒が「これからちょくちょくうかがいます」言うのに対し、亭主が「冗談言っちゃいけねえ」と返すところで下りている。文楽も志ん朝も、ここでわっと受けるから切ることができる。私の腕では最後までやった方がお客が納得できるのではないかと考え、サゲまでやることにした。
亭主と泥棒が酒を飲むプロセス、本来は亭主の方から「厄落としで一杯やろうじゃねえか」と誘うのだが、泥棒の方から「おかみさんがお酒の用意ができていると言ってましたが、どうです? お祝いに一杯やりませんか?」と持ち掛けることにした。
その後、泥棒が酔っ払うにつれて、亭主と女房の馴れ初めをいじり出す。やってて楽しかったな。きちんと泥棒を主役にできたと思う。
亭主の八五郎は「気持ちがまっすぐで思い込んだら突っ走ってしまう人」、女房のお福は「そんな八五郎に惚れているが、自分の言いたいことはきちんと言える人」、泥棒は「調子のいい善人」という解釈で、噺の中で自由に暴れてもらった。
志ん朝は女房のおみつが馴れ初めについて言い立てる場面で、八五郎がどじで、一人でしくじっては皆にいじめられているのがかわいそうだから優しくしたところ、自分に気があると思い込んだ、ということにしている。
私は八五郎を「腕のいい職人」にした。お福の父親が「あいつはあんな乱暴な奴だが、腕はいいし気性もまっすぐだ。お父っつあんはいいと思うが、大事なのはお前の気持ちだ。お前はどうなんだ?」と言ったということにする。そのことで、お福が八五郎に惚れることにリアリティーが増すと思ったのである。
目新しいギャグはいらないと思った。本で読んだ、柳家小さんの「人物が出りゃ、噺は面白くなるんだ」という言葉に勇気をもらった。また、啖呵はゆっくりでいい、と教えも参考になった。色んなことを知ったり経験したりして、それを噺の中に生かせるようになったか。年を取るのも悪くない。
客前で演じて、聴いてもらえているという感覚も得たし、ちゃんと笑いも取れた。。やっと、「おれの『締め込み』」ができたかな。噺を作るのが楽しくなってきた。



2019年8月11日日曜日

日光けっこう、日帰り旅行

この間、妻子を連れて日光に行って来た。
長男、次男がダブル受験、とても泊りがけの旅行に行ける状況ではない。でも、せっかくの夏休みだし一日ぐらい行楽をしよう、ということにした。
「『日光を見ずして結構と言うなかれ』というしな」と言ったら、「そんな言葉聞いたことがない」と息子たちに言われた。日本の慣用表現も今や絶滅寸前だな。

朝8時に出て、2時間ちょっとで日光に入る。高速道路網の発達のおかげだ。
子どもたちは日光は初めて。まずは東照宮を見よう。

日光二社一寺が世界遺産に指定されてからは初めての参詣。

まずは五重塔がお出迎え。東照宮は五重塔も派手である。

まずは「見ざる聞かざる言わざる」の三猿を見よう。


平成の大修理が終わった陽明門。

このきらびやかなところが、若いうちは苦手だった。
今は素直にすげえなあと思う。

彫刻のひとつひとつが見ていて飽きない。


こちらは唐門。
今度は拝殿が修理中。

伝左甚五郎作「眠り猫」。

私と長男は200段の石段を登って奥の院まで行く。

「鳴き龍」までしっかり見学した。外国人観光客が本当に多かった。
子どもたちは学業成就のお守りを買う。

せっかくだからと、いろは坂を上り中禅寺湖まで足を延ばす。
昼食は蕎麦にする。


私はとろろそば。1200円。

他の3人は冷やしゆばそば。1300円。
なかなかしっかりした蕎麦で旨かった。
店内もキッチュで面白い。

「テレホン」がいいね。
それから華厳の滝へ行く。
東照宮でも遠くから雷鳴が聞こえていたが、この辺りでは雲が厚くなってきた。
エレベーターを降り、観瀑台へ。やっぱり直瀑は迫力があるなあ。



しばらくすると雨が落ちてきた。
エレベーターで上がると、もう外はひどい雷雨。あわてて土産物屋に飛び込み、30分ほど雨宿りをした。


小降りになったところで車に戻り、中禅寺湖畔をドライブする。
雨はやんだかと思うと、また土砂降りになったりして油断ができない。
ちょっとだけ湖畔に車を止めて写真を撮る。



3時過ぎ、日光市街を通って帰途につく。
市街は古い街並みが続き、いい雰囲気。今度は街歩きもしてみたい。
JR日光駅を撮る。いいねえ。


行楽のシメに大谷PAでおやつを食べる。妻と次男はソフトクリーム、私は宇都宮名物ハムカツドッグを食べる。


長男は「濃厚抹茶アイス」を食べたのだが、製造元を見ると茨城県小美玉市。「旨い旨い」と喜んでいたけど、「何だよー」と言っておりました。
家に着いたのは6時半過ぎ。スーパーで買って来た、いわしの寿司をつまみに冷たいビールを飲む。
楽しかったね。たまにはこういう息抜きもしましょうや。