三遊亭金翁師匠が亡くなった。93歳。就寝中に呼吸が止まっていることに家族が気づき、死亡が確認されたという。まさに、眠るが如き大往生だった。
私としては四代目三遊亭金馬としてしか彼を認識していない。2020年、息子に金馬を譲り、自らは隠居名の金翁を名乗った。
師匠三代目金馬が文楽・志ん生に並ぶ名人で強烈な個性の持ち主であったものだから、ずっと「先代は上手かった」と言われ続けていた。
とはいえ、四代目も売れっ子だった。小金馬の時分にNHKの「お笑い三人組」で、一龍齋貞鳳、江戸家猫八とともに人気者になった。ドラマなんかにもよく出ていて、でも、そのことは落語の方にはマイナスに作用していたように思う。私は若い頃、この人の軽演劇的な匂いが、あまり好きではなかった。
所属していた落語協会では、あまり優遇はされていなかったようだ。三遊亭圓丈著の『落語家の通信簿』から引用してみる。
しかし、どういうわけか、金馬師匠は落語仲間のウケが悪い。「やっぱり、金馬は先代に限るね」「ホント先代はうまかった」などと言われる。
金馬師匠は落語協会に途中入会したために、ヨソ者扱いされる。途中入会と言っても、もう四〇年になるが・・・。落語家の世界は、極度にヨソ者を嫌う傾向があるんだ。
気の強い談志師は、楽屋で金馬師が隣に座っているのに、マジで「おう、オレが金出すから、帰ってもらえ」と露骨に嫌味を言っていた。
出口一雄が持っていた、昭和46年度(1971年)の『芸人重宝帳』には、落語協会の香盤順とは別に欄外に載っている。ここからも、金馬が「ヨソ者」だったということが分かる。
四代目金馬は、師匠が東宝名人会専属であったために、他の寄席で修業はしていない。小金馬としてテレビで売れ、真打に昇進してから昭和39年(1964年)、三代目金馬が死んだ年に落語協会に加入、四代目金馬を襲名した昭和42年(1967年)落語協会常任理事に就任した。(ウィキペディアによる)
こういう経歴を見ると、落語協会の同年代の落語家が「ヨソ者のくせに」と思うのも無理はないと思ってしまう。
それでも、四代目は黙々と落語に取り組み、寄席の高座に上がり続けた。私が学生時代、寄席でよく見た落語家の一人が、この四代目金馬であった。
大西信行の『落語無頼語録』には「じり足の、金馬」という文章が収められており、四代目を評価している。
私は年を取ってからこの人が好きになった。初席で『七草』を聴くと、本当に正月が来た気分になった。夏休みに鈴本で聴いた『唐茄子屋政談』はよかったなあ。
金馬をけなす気持ちは分かるが、でも金馬のよさが分からないのはまだまだ青いなあ、と私は思う。四代目金馬もまた、私にとっては大切な落語家だったのだ。
三遊亭金翁師匠の冥福をお祈り申し上げます。
9 件のコメント:
四代目金馬師匠、安心して聴ける噺家でした。個人的には、学生時代、トリの志ん朝師目当てで末廣亭に行ったら休演、代バネが金馬師匠、睨み返しが楽しかったことを覚えています。高座に出てきてすぐ深くお辞儀をするのは、先代春団治師と同じ、とても丁寧で品がありました。
ところで、金馬師が落語協会に入会したのは、三代目没後なんですかね。兄弟子の小南師は二つ目時代に三代目の計らいで小文治の預かり弟子になって芸協に加入しているわけですが、小金馬は手元に置いていたのでしょうか。このあたり、ご本人の著書を読んだほうがいいのかもしれません。
金馬さん好きだったですけどね~。ほっこりして。
佃祭や紺屋高尾も面白くて良かったです。
お玉ヶ池の先生がとても良く似合うなぁと思いました。
あと、長短は助六師匠から習った?のか、長八っつぁんが大阪弁でしたね。
談志があんな言い方を方々でするもんだから弟子以下、信者までそういう見方するようになったんだと思ってます。
現にあるお弟子の独演会でも「二つ目よか下手だ」とか色々言ってました。
『金馬のいななき』を以前読みましたが、やはり小さい頃から可愛がられてテレビで売れに売れて、そのヤッカミのような気がします。
最近はYoutubeの金翁チャンネルも始まって楽しみにしてたのですが、、、。
とても好きな師匠でした!
p.s.みほ落語会のYoutube拝見しました。
累を演じられるとは! とても素晴らしい口演聴かせていただきました!
生で聞きたかったなぁ~。いつか観光兼ねて泊りがけで落語会伺いたいと思います。(第4土曜ですよね?)
最近TV演芸図鑑に出演してた元気そうな金翁師匠を観てましたが、立派な大往生ですね。合掌。私は三代目金馬をリアルタイムで知らないので比べることはありませんし、四代目の落語が上手いか下手かは分かりませんが、明るくてとても好きでした。それにしても談志の言い草はひでえな。声が悪いから針(レコードの)を取り換えろって本人に言ったそうですよ。談志のそんなところが大嫌いなんだけど好きなんだよな…
コメントありがとうございます。
quinquinさん
『古今東西 落語家事典』を見てみましたが、歌笑だと「二代目円歌に預けられた」とか、小南だと「小文治に預けられた」という記載はありましたが、四代目に関してはありませんでした。三代目も小金馬は手元に置いておきたかったのではないでしょうか。『金馬のいななき』、何となく買いそびれてしまっていました。ちょっと探してみようと思います。
四代目金馬師、本当に誠実な人柄が伝わってくるような高座でしたね。
ゆうさん
小谷野敦なんかが「お茶の間落語家」と言って、小さん、圓歌などとともに酷評していました。それを読んで憤慨したものです。「二つ目よか下手だ」はあまりに傲慢ですね。立川派や談志信者の、そういうところが苦手なんだよなあ。
YouTube、見てくださっていたんですか。ありがとうございます。冒頭で「19年後」と言うべきところを「9年後」と言ってしまい、後でずいぶん落ち込みました。精進いたします。お出でになった時は、茨城をご案内いたします。
unknownさん
金馬師の噺、明るくてよかったですね。高齢になっても衰えなかった。まさに「長生きするも芸のうち」でした。
談志はああいう人だからしょうがないところもありますが、その尻馬に乗る人たちが、私はどうも好きになれません。
四代目金馬は不当に評価されている、と私は思っていましたが、皆さんのコメントを読んでいると、金馬師が多くの人にきちんと評価されていたということが分かりました。嬉しい持ちになりました。ありがとうございます。
名前書き忘れてunknownは耕作でした
金馬師明るい芸風で良かったと思います。
テレビやラジオの民間放送の開設の草創期に便利に使われた形なので
(歌奴(後の圓歌)三平も同様)、後の若手四天王より評価は低かったのでしょうか?
この時代の歴史はよく解らないのですが、
落語協会 落語芸術協会の他に東宝名人会所属と云うものがあり、
現正蔵の祖三代七代目正蔵や三代目金馬とはここの所属で、定席に出られない人達だったのでしょうか?
歌笑 小南と云う人は落語協会 落語芸術協会の圓歌 小文治の預かりにさせ、定席で前座の修行をさせたが、そうしないと所謂寄席での修業は出来ず、後に立ち上げた、円楽一門会 立川流の先駆けとも云える存在で、四代目金馬師はその様な中で育った人とも云えるのでしょうか?
コメント、ありがとうございます。
確かに落語家としての評価は、金馬よりも後の四天王の方が高かった。それは、使われ方というよりも、志ん朝、談志、圓楽、柳朝の方が本格派と評価されたのだろうし、私も正直、四天王の方が上手さでは上だったと思います。
東宝名人会とは、金馬や正蔵だけでなく、四代目小さんや八代目文楽なども契約していました。ところが、協会の方で東宝と契約した芸人は寄席の高座に上げないという方針を固めたので、多くの芸人が協会に戻って行きました。金馬は、そんな協会側のやり方に腹を立て、終生フリーの立場をとったといいます。(ただ、その後初席などには落語協会の興行にゲスト出演しています)
金馬一門、正蔵一門、ともに圓楽一門会や立川流ほど大所帯でもありません。組織立ったことはしていませんでした。
ご指摘の通り、金馬は、歌笑は二代目円歌に、小南は小文治に預けますが、四代目は小金馬で売れていたし、かわいがっていたということもあって手元に置いていたのだと思います。別に純粋培養をしようとしたわけではないでしょう。
七代目正蔵の息子の三平は、父の死後、月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)の弟子になりました。圓蔵が師匠文楽から破門になった後、小三治時代の正蔵の身内になったという縁もあったのだと思います。
御回答戴き有難う御座いました。
>金馬よりも後の四天王の方が高かった。それは、使われ方というよりも、志ん朝、談志、圓楽、柳朝の方が本格派と評価されたのだろうし、私も正直、四天王の方が上手さでは上だったと思います。
面白いより上手い、古典落語の本格派と云うのが落語協会では認められると云う事だったのでしょうか?
実際、爆笑派や新作派で観客動員があっても、
実際に先々代圓歌が香盤順志ん生の次に会長に成ると云うと「待った」が掛かったり、
先代小さんの長期政権の後に先代圓歌が会長に成ると、批判的な事を云われた方も居られたと思います。
>東宝名人会とは、金馬や正蔵だけでなく、四代目小さんや八代目文楽なども契約していました。ところが、協会の方で東宝と契約した芸人は寄席の高座に上げないという方針を固めたので、多くの芸人が協会に戻って行きました。金馬は、そんな協会側のやり方に腹を立て、終生フリーの立場をとったといいます。
金馬 正蔵が死去した後は、落語協会 落語芸術協会から選ばれたものが出る形式に成ったのでしょうか?
又、話は変わりますが、1978年に起きた「落語協会の分裂騒動」も圓生は弟子は協会に残し、一人でフリーとして活動するつもりだったが、圓生脱退の好機として「第三の協会を創ろう」と談志が担いだと云う事だったのでしょうか?(その背景には上野鈴本の存在も)
新宿末廣亭は従来の伝統を重んじるのに対し、上野鈴本は「協会関係なく客の呼べる者に出て貰い(色物も含めて)名人会形式の番組を行いたい」と云う構想があり、それが「分裂騒動」にも繋がっているのでしょうか?
又、協会脱退後も先代圓楽は鈴本で独演会を行っていたと思います。
>四代目は小金馬で売れていたし、かわいがっていたということもあって手元に置いていたのだと思います。別に純粋培養をしようとしたわけではないでしょう。
七代目正蔵の息子の三平は、父の死後、月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)の弟子になりました。圓蔵が師匠文楽から破門になった後、小三治時代の正蔵の身内になったという縁もあったのだと思います。
小金馬はマスコミで売れていたので今更寄席に預ける事は無いと判断したのでしょうか?
『金馬のいななき』を読み返してみました。
四代目も入門直後、歌笑と同じように二代目円歌に預けられて寄席修業をしていました。ところが東宝で前座の手が足りなくなり、1年ほどで呼び戻されたとのことでした。それ以来、三代目が亡くなるまで、ずっと東宝にいました。そこには、やはり小金馬で売れたというのも影響していたと思います。
東宝と落語協会は昭和11年に和解しています。金馬・正蔵が死去してから協会所属の落語家が出演するようになったわけではありません。それ以前から出演していました。
《面白いより上手い、古典落語の本格派と云うのが落語協会では認められると云う事だったのでしょうか?》
一概には言えないと思いますが、四代目小さん→八代目文治→八代目文楽→志ん生→圓生→五代目小さん という系譜を見ると、「落語協会の会長は古典の本格派」という不文律のようなものはあったと思います。
三代目圓歌が会長になった時も、副会長に志ん朝を据えて、「志ん朝までの繋ぎ」と言っていましたので、そういう意識はあったと思います。
落語協会分裂騒動での新協会設立については五代目圓楽も一枚かんでいたでしょうね。鈴本の名人会形式は三代の社長が構想していました。詳しくは「鈴本の方向」という記事をお読みください。新宿は大旦那が五代目左楽に心酔していましたので、自然に噺家寄りの感じになっていたのだと思います。
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