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2022年10月15日土曜日

三遊亭圓窓についての私論

 三遊亭圓窓のことが気になっている。

彼はアマチュア落語の指導に熱心に取り組んでいた。私の落語仲間にも彼の指導を受けた人は多い。圓窓の60代半ばから指導を受けていたという人もいる。

三遊亭圓窓は、特にその晩年、プロよりもアマチュア落語の方に居場所を求めていたような気がする。YouTubeでの発信はアマチュアの稽古用のように思えたし、YouTubeチャンネル「丈熱Bar」におけるロングインタビューも、相手は落語も演じる俳優であった。

なぜだろう。

 

私が最初に落語を覚えたのは中学生の頃だった。人前で初めて演じたのは中学3年の卒業式の前日、謝恩会でのことだった。圓窓のテープで覚えた「寿限無」を喋った。バカ受けだった。66名の同級生及び教職員は、腹を抱えて笑ってくれた。私は「寿限無」笑いをとれる噺だと思ったが、後に落研でこの噺を覚えて高座にかけた時はちっとも笑いが来なかった。

脇道にそれた。だから圓窓は私にとっては特別な人だった。上手いとずっと思っていた。いや、過去形ではなく今も上手いと思っている。でも、志ん朝や談志や小三治のように、熱くなれなかった。

なぜだろう。

 

圓窓は上手い。三遊亭圓生門下で先輩を飛び越して真打になったのは、圓楽、圓窓、圓弥、圓丈の4人である。あの芸に厳しい圓生の眼鏡にかなったのが、彼らだったと言ってよい。そして1978年の落語協会分裂騒動の時、圓生・圓楽が真意を明かし幹部として扱ったのが圓窓と圓弥であった。圓楽、圓窓、圓弥、圓丈と並べると、上手さだけで言えば、私は圓窓がいちばんだと思う。

 

圓窓に対する評価を、手持ちの落語雑誌を開いて調べてみた。

まずは1973年発行、『別冊落語界 現代落語家集大成』から。沢田一矢の「生きている落語と共に」という文章を引用しよう。

 

 稽古に埋没していた二ツ目の吉生が、多くの先輩を飛び超えて真打に昇進したとき、つづいてさん治が同じように小三治を襲ったとき、落語ファンはこの二人に瞠目し、古典のホープ誕生ともてはやし〈好敵手〉のイメージを冠した。その後も二人は、努力に裏打ちされた芸の〈過程〉を着実に歩んでいる。

 

当時の圓窓に対する高い評価が見て取れる。

そして圓窓は「ただ教えてもらった落語を上手く喋るだけの落語家」でもなかった。それは、次の記述から分かると思う。

 

「噺家に大切なことは、出演者であると同時に演出家であるという認識だ。なぜなら、つねにその時代に合った演出でなければ落語は古臭くなって滅びてしまうからだ」

 これが円窓の持論である。

 だからさげの改良という点でも、つまり落語を生きている状態に保たんがための考えから、現代人に解釈されにくいものや、より良くなるであろうと判断したものには意欲的に手直しの姿勢を見せている『唐茄子屋政談』『居残り』をはじめ、いわゆる忘れられかけていた“掘り出し物”と対するときなど、さげ一つで夜を徹するほどの腐心ぶりだという。そんな彼に、

「円窓はさげを改悪している」

 などという雑音もはいってきたことはあるらしいが、なに結果の良し悪しは聴く側の判断にまかせればよいのであって〈名作の悪さげ〉も少なくないこと、大いに前向きであってもらいたい。ただし、一人よがりは禁物。一人でも多くの意見を聴き、雑音にも耳を傾け、点数少なきときは勇気と謙譲心が必要であることはいうをまたない。

 

考えてみれば師匠の鋳型にはまった芸が売れるはずがない。圓生は認めなかったが、さん生(後の川柳川柳)も圓生の型からはみ出したからこそ売れた。似すぎて嫌われた好生(後の春風亭一柳)は悲劇だったな。圓窓は師圓生を敬愛しながらも、しっかりと自分を持った落語家だったと言える。

 

次は『落語1994年・32号』、平井知之という高校の先生の「円窓—おじさん面の少女」という文章から。

平井氏は、鈴本演芸場での圓窓のトリ席での演目を挙げてくれている。92年の二月中席では『叩き蟹』『匙加減』『竹の水仙』『甲府ぃ』『くしゃみ講釈』『戴き猫』『猫定』『鼓ヶ滝』、93年は『叩き蟹』『匙加減』『竹の水仙』『五月幟』『洒落小町』『蚊いくさ』『野田の宿帳』(新作)が演じられた。お馴染みの演目もあるが、なかなか耳にすることができない珍品も多い。「もう一度聴きたいな」と思っても、容易に巡り合えない、圓窓は移り気な少女のようだ、というので「おじさん面の少女」。

氏はこんなことも書いている。

 

例えば『子ほめ』では「半分(ただ)でございます」という通常のセコい下げは使わない。柳枝の型だそうだが、最後に当意即妙の下句付けをする主人公は、単なるお世辞猿真似間抜け男ではなく、言葉のずれを楽しむ洒脱な好人物に造形されている。

 

工夫の人、圓窓の面目躍如と言ったところか。

でも、私の本心を言えば、「子ほめ」が楽しいのは「お世辞の概念がない男」が本気で間違うところにあって、「言葉のずれを楽しむ洒脱な好人物」では面白くならない。

 

次は『落語1999年・35号』、「円窓に“かなしさ”をみる」(山本明子)より。

 

「伝統芸能保存革新一手引受所」の看板を出しているかのごとき八面六臂の活躍、高座での常にきちんと筋立った話しぶりは、「落語教育担当者」のような印象である。

(中略 「円窓五百席」「おもしろ落語図書館」『猫の定信』の宙乗り演出、野村万之丞との「落語狂言会」、パソコン通信による発信、「落語の日」設定準備など、圓窓の近年の業績が列挙される)

 が、それらはすべて「落語は伝統芸能である」「だから保存しなければならない、それには革新も必要である」という前提によってたった明瞭さがあって、どこかつらい。いつの時代も根っこで変わらない人間の普遍性でもって、落語はのらりくらりと生きていくような気がするからか。円窓は立派すぎる。

 

圓窓の活躍の数々が挙げられ、でも、しかし、筆者は「苦しい」「かなしい」と書く。どうしてだろう、私はそれにためらいながら共感してしまう。

 

最後は落語2003年・36号』、「花井伸夫版東京落語家名鑑」より。

 

噺家としては、こだわり派のマイペース型を“強いられた”苦労派の大家とも言えるだろう。78年春に故三遊亭円生が中心となって起こした落語協会分裂騒動によって、師・円生と行動を共にしたが、僅か数日にして円生一門だけの別派行動(落語三遊協会)へと卑小化。翌年に円生が急逝して、さらに一番弟子・円楽一門だけが現在の円楽一門会という形で動くこととなり、落語協会への復帰という経緯を辿った。

 当時は古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽、故春風亭柳朝、柳家小三治、月の家円鏡(現橘家円蔵)らと並んで、時に“「四天王”の一人に数えられたほど。テレビの人気番組「笑点」などへもレギュラー出演し、古典の本格派としても名を馳せていたが、自ら望んだのではない曲折以後は独自の地位、人気の中で“我が道”を広げてきたと言えようか。その意味では“落語一筋”にこだわって独自の境地を開拓してきた噺家である。

 

花井伸夫の筆は、これまでに挙げたものとは違い、どこか突き放したような感がある。あるいは客観的な記述というべきか。「こだわり派のマイペース型を“強いられた”苦労派の大家」「自ら望んだのではない曲折以後は独自の地位、人気の中で“我が道”を広げてきた」などの言葉が苦い。

 

そうだ。花井氏も触れているが、落語協会分裂騒動は圓窓にも深い傷を残した。圓丈が書いた『御乱心』の中で、圓窓は圓楽の下の鬼軍曹のような存在として描かれている。

圓生と圓楽は、一門が協会を離脱し、新協会を設立するということについて、弟子たちには黙って話を進めていた。知らされていたのは圓窓と圓弥。どちらも圓生の眼鏡にかなった芸の持ち主で、一門の幹部扱いだった。一門離脱、新協会設立を知らされ動揺する圓丈らに向かって、師と行動を共にするよう恫喝するのが圓楽と圓窓だった。(温厚な圓弥はそういうことはしなかった、いや、できなかったか。)

組織に例えれば、一般職から管理職へ登用されるとあって、圓窓も頑張ってしまったのだろう。この年になれば、そういう気持ちは分かる。しかし、それは他の弟子たちとの亀裂を生んだ。しかも圓生が死に、その後は圓楽一門のみが独自行動に走り、他の弟子たちは協会へ復帰することになる。圓窓も圓楽一門に入ることはせず、協会に復帰する。復帰にあたって出戻り組は香盤を下げられた。以前、小三治の上にいた圓窓は、馬風の下まで下げられた。圓丈らは圓弥を中心に一門としてまとまろうとしたが、それも協会によって禁じられた。この辺りの経緯を指して、花井は「自ら望んだのではない曲折」と呼ぶのだろう。

 

圓丈は『落語家の通信簿』の中で、圓窓について次のように書いている。

 

 圓窓師匠と言うと、若い落語ファンからは「知らない、誰その人?」って聞かれそうだが、円丈の兄弟子で、1960年代には小三治(当時、さん治)・圓窓(当時、吉生)と並び称され、師圓生に認められた抜擢真打だ。スゴイ師匠なのだ。

 (中略)

 圓窓師の今の評価は、小三治師と比べるとかなり低い。でも、普通の古典を演じると、けっこうスゴイ!

 

圓丈もまた、圓窓に対する評価が実力に見合わないことを認めている。

圓丈は、この文の最後でこう言う。


 それより、圓窓兄も七十代、最後に今一度、古典落語の王道ネタでパッとひと花咲かせて、圓窓ここにありと見せてほしい。そうなったら、いつでも「圓生」を継いでください。

 

私ももろ手を挙げて賛同する。しかし、もう圓丈も圓窓もこの世にはいない。

今になって悔いる。なぜ、私は圓窓が生きているうちに、もっと彼の落語を聴かなかったのだろう。なぜ、私はもっと彼を積極的に評価しなかったのだろう。圓窓については、「なぜ」ばかりが積み上がる。もちろん、そこには理由があるのだが、そこを越えての「なぜ」なのである。

 

20年以上前、池袋演芸場で圓窓がトリをとる芝居を見に行った。三升家小勝が代バネで、客を高座に上げて『桑名舟』を演っていた。私の圓窓について心に残っている思い出の中で、圓窓は落語を演っていない。なぜなんだろう。

3 件のコメント:

康太 さんのコメント...

これは自分の憶測と言うか暴論にもなっちゃうんですが、大多数が圓生一門の落語そのものを求めていないって言うのが理由なのではないかと思います。
柳家一門や古今亭一門は裏表のない純粋な気持ちで落語をやったり、お客様を楽しませることを目的としているのに対して、圓生一門は嫌な部分も嫌な部分でリアルに見せていた為、見てる人が不快な気持ちになってしまう事が多かったのではないでしょうか?
上手いけど、どこか気分が晴れない。
圓生さんや圓窓さんを認められない人は、多分ですけど「上手い落語を聞きたい」より「自分が聞いてスッキリしたい」と言うのがどこか前提条件に有ると感じるので、これはどうしようもないと思います。

densuke さんのコメント...

圓生も圓窓も芸熱心で、落語に真摯に取り組んでいました。尊敬すべき落語家だと思います。
まあ芸も人間がやるものですから、どうしても好き嫌いに左右される部分はあると思います。
また、心地よい芸もあれば、人間の醜さや底知れぬどろどろを描く芸もあっていい。それもやはり、好き嫌いによるのでしょう。(私は圓朝作品に見られるような「人間の醜さや底知れぬどろどろ」も鑑賞できます)
私は圓生よりも、文楽・志ん生をとる方ですが、それでも圓生はすごい、と思います。1970年代に落語を聴いていた者にとっては(色々ありますが)、やはり圓生はすごい落語家です。

densuke さんのコメント...

訂正
「私は圓朝作品に見られるような「人間の醜さや底知れぬどろどろ」も鑑賞できます」→「私は圓朝作品に見られるような「人間の醜さや底知れぬどろどろ」を鑑賞するのも好きです」