三代目三遊亭圓馬。八代目桂文楽が「芸の師」として終生敬愛した名人である。
明治15年(1882年)大阪生まれ。月亭都勇という落語家の父を持ち、7歳で初高座。笑福亭木鶴の弟子となって都木松を名乗る。12歳で立花家橘之助の弟子になり東京に出て、立花家橘松と改名する。立花家左近と改名後、初代三遊亭圓左の薫陶を受け、落語研究会の準幹部に抜擢される。明治42年(1909年)七代目朝寝坊むらくを襲名して真打昇進。しかし大正4年(1915年)、四代目橘家圓蔵とトラブルを起こし、橋本川柳と改名して東京を去り、旅回りを経て大阪に帰った。大阪で三代目圓馬を襲名。東京弁、大阪弁、京都弁を自在に操るスケールの大きな話芸で東西の観客を魅了し、多くの落語家に大きな影響を与えたが、晩年中風に倒れ、落語を喋れなくなった。
正岡容は一時、作家を辞めて圓馬の下で噺家修業をしたことがある。彼は「三遊亭圓馬研究」という文章の中でこう書いている。(以下、引用は旧字を新字に置き換えてある)
私が文学を放棄し、はなしかの真似事をしてゐたときの「噺」の恩師である。この人に私は親しく「寿限無」を教はった。さうして、一と言一と言を世にもきびしく叱正された。どんなに「小説」の勉強の上にも役立ってゐるであらうことよ—
ちなみに永井荷風は一時、五代目むらくの弟子になって夢之助を名乗った。荷風、容という異能の作家二人が、五代目、六代目の朝寝坊むらくの弟子になったというのは興味深い。
正岡の「三遊亭圓馬研究」は、『随筆寄席囃子』という本に収められている。この本は、初め昭和19年(1944年)、私家版として刊行された。私が持っているのは昭和42年(1967年)に復刻された限定800部のものである。私はこれを浅草の古本屋で見つけ、大枚5000円を払って買い求めた(今ではとても手が出ない)。後に河出文庫『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』の中に一部が収録されたが、「三遊亭圓馬研究」は、その中に入っていない。
「三遊亭圓馬研究」はこのようにして書き出される。
けふ昭和十七年三月十日、中風に倒れて久しい三遊亭圓馬を慰める『明治大正昭和三代名作落語集の夕』を、桂文楽と私主催にて今夕上野鈴本に催す。幸ひに文壇画壇趣味界の人々の絶対侠援を得て前売切符はのこらずもうはけてしまった。これから鈴本へでかけるまでの時間を利用して、かねての懸案だった『圓馬研究』を起草する(後略)
昭和17年(1942年)3月10日、上野鈴本において、正岡容、桂文楽共催の落語会が行われた。病床にある二人の師、三代目三遊亭圓馬を慰めるための会であることが、この文章から分かる。
そして、この会のことが『八代目正蔵戦中日記』にも書かれているのだ。以下に引用する。
三月十日(火)
上鈴に円馬を慰める会を正岡君主催でやる。『大正の思ひ出』を一席漫談で演る。楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ。
会、終ってのち、ぴん助夫婦と正岡君と、文楽師は欠席で酒宴を催す。
馬楽時代の正蔵も、この会で高座を務めた。落語ではなく『大正の思い出』という漫談を喋ったようだ。彼の「随談」とでも呼ぶべきこういう噺は、しみじみと味わい深い。どんなものか聴いてみたかったな。
「楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ」とある。随分手厳しい。正蔵と今輔は、かつて改革派を立ち上げて頓挫した経緯がある。両人とも頑固一徹で知られた人物。その時の確執が尾を引いていたものとみられる。
正蔵も打ち上げに参加しているところを見ると、この会の手伝いをしていたのだろう。この頃正蔵と正岡は仲良しだったからな。文楽は打ち上げに参加しなかったんだ。
会は盛況のうちに終ったようだ。「圓馬研究」の末尾で正岡は言う。
以上を十日の会の日から書き出して、十四日のけふまで、休んでは書き、休んでは書きして来た。十日の会は上野鈴本お正月以来の盛況で戸障子までみなはづしてしまった。四百二十円と云ふお金が圓馬あて、おくれた。
また、次のような文章からも、当日、今輔が楽屋にいたことが分かる。
それから春錦亭柳桜の「与三郎」や「ざんぎりお瀧」の圓馬に伝はったのは、大看板柳桜一ところ柳派全体と疎隔し、三遊派に加盟してゐたことがあると、このほど当代古今亭今輔から聞かされた。
この辺りのことを、今輔は楽屋で正岡相手に滔々と語っていたのだろうな。
また、この「圓馬研究」には、圓馬の芸について、八代目文楽・三代目金馬をからめて次のように書かれている。文楽・金馬、二人の芸についての優れた批評にもなっていて興味深い。
一と口に圓馬の「芸」とは—と訊かれるなら、共に圓馬の教へを仰いだ今日の文楽と金馬とを一しょにして、もっともっと豪放な線にしたものと答へたら、やや、適確にちかい表現であらうか。文楽は「馬のす」「しびん」も写してもらひ、最も圓馬写しの噺の多い今日では第一流の名人肌の落語家であるが、圓馬の豪放な点は少しもつたはってゐない。豪放の中に、一字一画をもゆるがせにしない圓馬。そのきびしく掘り下げてゐる「面」の方が文楽へやや神経質につたはってゐるとおもふ。此は団十郎の精神が、蒼白い近代調となって吉右衛門の上に跡を垂れてゐるがごときであらうか。豪放の点は、むしろ金馬にのこってゐる。しかし、金馬には、人として圓馬ほど俗気を離れたところがない。云ひ換へると、いいイミの「バカ」なところがない。もっとあの人の全人格が簡単に、文化的にしまってゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。
結局、圓馬は回復しないまま昭和20年(1945年)1月13日に亡くなった。正蔵の日記に、このことについての記載はない。