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2011年1月29日土曜日

リンクできました


リンクできました。
やってみるもんですね。
大福さん、これからもよろしくお願いします。
これだけでも何なので、画像をひとつ。
渋谷道玄坂途中の古い建物。どうやら元は店舗らしい。こういうものがあったりするから、町歩きは面白い。

2011年1月26日水曜日

檀一雄 『火宅の人』

お伽噺である。大人の男の、お伽噺である。とても私にはできない。 妻子ある作家桂が、新劇女優恵子と天然の旅情で結ばれ、妻子のいる家を省みずに諸方を流転する物語(水上勉の解説より)。その妻子のいる家は、先妻との間に出来た長男が不良になるし、次男は日本脳炎のために全身麻痺で寝たきりのまま。虚実ない交ぜになってはいるが、この大筋は事実を元にしている。 さすが、最後の無頼派だ。世間の常識などものともしない。安定など糞食らえだ。見事に転がり続ける。まさにライク・ア・ローリング・ストーン的な人生。地獄の業火に焼かれても、自分のやりたいようにやる。いや、自分のやりたいようにしかやれないのだ。 ただ、そこには悲壮感も自己への陶酔もない。あるのは明るい諦念だ。どこかあっけらかんとしているところがいい。 私としては、矢島恵子と同棲を始めての最初の頃、浅草千束町に部屋を借りた辺りがよかったねえ。まるで檀版『浅草紅団』だな。下町の人々やいかがわしい芸人たちとの交流が生き生きと描かれる。私も浅草辺りに部屋を借りて、隠れ家にしてみたい。ふとそんな妄想を抱きたくなった。 それから、恵子との最初の別れ話の後の道行き。二人は上野から土浦まで常磐線でやって来て、土浦から船に乗って潮来に向かうのよ。牛堀の旅館での侘びしい交情。いいねえ。 もちろん、桂の流転はとどまることを知らない。放浪はやがてアメリカ、ヨーロッパへと拡大する。そこで桂は恵子の過去に対する嫉妬に狂い、菅野もと子という女と愛人関係になる。帰国後は新たに葉子という酒場の女と九州全土を放浪する。行き当たりばったりに女と関係し、盛大に煮炊きし飲みかつ食らい、湯水の如く浪費する。次第に桂の狂躁は凄惨さを帯びてくる。 やがて、女たちは桂の下を去り、彼は神楽坂の連れ込みホテルに流れ着く。彼の身を焦がした業火も、彼の衰弱と共に勢いを失っていく。ぶすぶすとくすぶるその残り火をもてあます寂寥の中、話は終わる。 檀一雄が死の直前まで書き続けた最後の長編。完成までに20年を要した大作だ。深作欣二の監督で映画にもなった。この間CSでやってたのをちらっと見たけど、映像だと主人公の勝手さだけが目に付くなあ。本の方が、はちゃめちゃの奥に立ち上る哀しさが感じられていい。いずれにせよ、女の人には、到底受け入れられない話だよねえ。 さて、リンクの件ですが、確かに、大福さんの言うとおり、読者の画像の中のリンクを使うのがいちばん簡単ですね。ご指摘ありがとうございます。(実はリンクを試みてはみましたが、結局、できませんでした。お騒がせしてすみません。)

2011年1月23日日曜日

麻生温泉白帆の湯


年の冬も、妻のしもやけがひどくなってきたので、麻生温泉白帆の湯に行く。
いい天気。二人の息子と一緒に、内湯、露天風呂とゆっくり入る。
いつもながら眼下の霞ヶ浦の景色が素晴らしい。
風呂上がりに三ツ矢サイダー。この頃これがお気に入り。
休憩室で昼食。南向き、日当たりがいい。海鮮かき揚げそばを食べる。
暫しうつらうつらしてから、2度目の入浴。
風呂上がりに牛乳の一気飲み。旨し。妻子はアイスを食べる。
ほかほかで帰る。
夕方、皆で餃子を作り、夕食で食べる。
家で作った餃子はしつこさがなく、いくらでも食べられる。例の「すだちぽん酢しょうゆ」が、ここでも活躍した。ビール、黒糖焼酎のお湯割りを飲む。

大福さんのブログにはどうやって行くの?という質問がありました。
紹介したわりには親切ではなかった。改めて反省。
そういやタイトルも書いてなかった。ブログ名は「夢三亭大福それなりに一所懸命」です。
私の詳細プロフィールを開けると、読者になっているブログのリストがあって(といっても1コだけだけど)、そこから行けます。
また、グーグルでもって「夢三亭大福」を検索かけると、いちばん最初に出てきますよ。大福さん、出てこないと謙遜してましたが、今は大丈夫です。
そうか、リンクを貼ればいいのか。でも、どうやってやるんだろ。大福さーん、もし、できたらリンク貼ってみていいですか?

2011年1月21日金曜日

芸名考 落研編

今回も芸名の話。
落研にも芸名はある。明治の「紫紺亭志い朝」というのは、三宅祐司、立川志の輔、渡辺正行という錚々たる人たちが名乗った名前として有名だ。東海では、亭号は全員「頭下位亭」。春風亭昇太の落研時代の芸名は「頭下位亭切奴」だった。
うちの落研は、松風亭・楽家の一門、松竹亭・小酒家の一門、夢三亭・月見家の一門に別れていた。
いちばん大きな名前が、夢三亭艶生(ゆめみてい・えんしょう)。何しろ創設者が名乗られた名前だ。私の頃には、畏れ多くて継げる者はいなかった。
松風亭は、「扇」とか「柳」を使った「風」にちなんだ名前が多い。風来坊、風柳、扇柳、小柳といった具合。二つ目名だが、風扇とか扇松とか、いい名前だと思う。入船亭あたりにありそうだ。真打ち名で、私の現役時代で人気があったのは、紫雀(しじゃく)。在学4年間で3人の紫雀がいた。歌ん朝というのも愛嬌があっていい。小柳は、1年の時の4年の先輩が作った。川柳川柳のファンで、字面が似てるでしょ。先輩は、小柳流家元と称された。だから、私にとって家元と言えば、談志ではなく小柳師匠なのだ。
松竹亭は「梅」がつくのが基本。松竹梅ですな。草創時代の名跡が梅太郎。もちろん、私の頃には畏れ多くて継げる者はいなかった。梅之助、梅王(ばいきんぐ)、洒落たところで小右女(こうめ)というのがありました。中でも大きかったのが、金瓶梅。二代目さんは3年の4月に真打ちに昇進したという記録をもつ伝説の名人。今でも鶯春亭梅朝の名前で高座に上がっておられる。以後襲名したのは全てトップ真打ち(その学年でいちばん最初に真打ちになった人です)。三代目さんは鶯春亭梅八の名前で、本県の南部を中心にセミプロとして活躍中。四代目さんは私が1年生の時の4年生。威厳の塊みたいな方で、私は尊敬しておりました。
夢三亭では、桂小文治さんの艶雀(えんじゃく)、これは同輩の弥っ太君が継いだ。艶生の流れからかな、他に艶奴(いろやっこ)という名前もありました。一生楽なんかスケールが大きくて好きな名前。圓漫、小たつもプロっぽくていい。ついでに言うと、この夢三亭という亭号は、シモがかった名前も多かった。寝鶴(ねてかく)とか海太郎(かいたろう)、前座名だが、弥っ太(やった)もそうだね。
楽家、小酒家、月見家は分家の扱いなので、真打ち名は少ない。楽家艶好という名前があった。そのころは援交という言葉はなかったけど、「たのしや・えんこう」というのは、今では相当問題があるぞ。それから、同輩が初代小酒家酔梅(こざかや・よばい)で真打ちになった。真打ち名というと、知っているのはそれくらいか。
ただ、二つ目名でも、いい名前がけっこうある。楽家では、雀志(じゃんし)、雀窓(じゃんそう)。それぞれ、談志、圓窓のもじりだろうが、雀士、雀荘に通じて洒落ている。ちなみに雀志は、二代目金瓶梅さんが二つ目になる時作った名前。小柳さんの二つ目名でもある。小酒家では、酔歌が好きだなあ。
私は、真打ちになった時、松風亭風柳の三代目を継がせて頂いた。初代は今も、いなせ家半九郎という名前で高座に上がっておられる。この方も伝説の名人。私が聴いた中では、初代風柳さんと二代目金瓶梅さんが二大名人だと思う。二代目さんも地元で高座に上がられている。二代目さんの噺はテープでしか知らないが、憧れてよく聴いたものだ(「締め込み」だったな)。
名前を継ぐときは、初代と先代に許可を得る。真打ち昇進が決まった初秋の夜、川崎の公衆電話で、初代さんと二代目さんとお話ししたのを思い出した。初代さんはよく存じ上げていたが、二代目さんは全くの初めてで、突然の電話にたいそう驚いておられた。
私の後、風柳は出ていない。私の不徳の至りで、先輩方には申し訳なく思う。だけど、風柳という名前は誰にも譲ってないわけだから、まだ私が使ってていいんですよね。

2011年1月18日火曜日

早坂隆『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争』

拡大する日中戦線の中、朝日新聞が吉本興業に依頼して大陸に派遣した、演芸慰問団「わらわし隊」の記録である。
著者は私より一回り年下。若いのにしっかりしているなあ。彼は、当時の記録を漁り、芸人たちの足取りを丹念に辿ってゆく。元兵士の老人と会い、現地を歩く。イデオロギーに惑わされず、自分の目で見たこと自分の感じたことからこの戦争を考えようという、真摯な態度がそこにある。小林よしのりの『戦争論』辺りに影響を受けた世代なのかもしれないが、日本の兵士だけでなく、中国の人々の心情に思いを致すことができるところに私は好感を持った。
それにしても、お国のために戦う兵隊さんも、その兵隊さんのために熱演する芸人さんも(大スターの金語楼も三亀松もエンタツもアチャコも)、みんなみんな健気だ。みんなみんな健気に命をかけて頑張っている。ただ、その戦争自体は、大局的な戦略もなく始められ、ずるずると泥沼にはまっていく。それが、この上なく哀しいのだ。
とりわけ筆者が多く割いているのは、第1回、第2回の派遣に参加し、いちばんの人気者となったミスワカナのエピソードだ。彼女の奔放さ無邪気さは、兵士たちへの思いをまっすぐに表現する。中国人の孤児に対する同情も隠すこともない。それは時に反戦的な匂いを持つほどに踏み込んだものになる。観客は(大陸の兵士も内地の庶民も)そんなワカナの漫才に大いに泣かされた。
「わらわし隊」は大評判を博すが、戦局の悪化とともに規模が縮小されていく。「わらわし隊」という名称も不謹慎だというので使われなくなっていった。世の中に余裕というものがなくなった。
慰問団は送られていたが、その芸人の中に犠牲者も出た。夫の桂金吾とコンビを組んでいた花園愛子という漫才師が、戦闘に巻き込まれ、大腿部に被弾、出血多量で死亡したのだ。彼女の死は大きな衝撃を与える。愛子の遺児トシ子には同情の目が集まり、告別式には東条英機夫人から直々に言葉をかけられた。このトシ子は長じて八代目古今亭志ん馬夫人となった。この人は、前回紹介した『内儀さんだけはしくじるな』にも登場する。彼女は父の反対を押し切って、志ん馬と駆け落ち同然に一緒になった。そうか、その反対した父は、この本に出てくる桂金吾だったか。(その時はもう芸人をやめていたらしいが。)
日米開戦前夜でこのルポルタージュは終わる。そして、最終章では「わらわし隊」に参加した主な芸人たちのその後が語られる。筆者はここでもあのミスワカナの死について懇ろに綴っている。
労作である。筆者の積み上げたひとつひとつの証言は、どれも胸に迫ってくるし、あの戦争に正面から取り組み、誠実に向き合う姿勢には敬意を覚える。見解を異にする箇所もなくはないが、教えられることは多かった。いい本に出会えたと思う。
ただ、ひとつだけ。桂右女助(後の六代目三升家小勝)を神田伯龍の弟子という記述には首を傾げる。右女助の師匠は八代目桂文楽だ。同じ東京の芸人だから、楽屋などで教えを受けたこともあるだろうし、可愛がられてもいたのだろうが、右女助は伯龍と師弟関係にあったわけではない。(些細なことかもしれないが、文楽に関することだったので見逃せなかったのよ。)
蛇足ですが、解説は最近何かと話題の麻木久仁子さんが書いています。それがどうしたと言われても、別に何も、としか答えられないけれど。

2011年1月16日日曜日

雪の日


この冬初の積雪。子どもたちは大喜び、雪まみれになって遊ぶ。
昼はマクドナルドのハンバーガーを買ってくる。私はテキサスバーガー、フィレオフィッシュとコーンスープ。テキサスバーガーは100パーセントビーフのハンバーグにマスタードソース、チリビーンズが挟んである。結構辛いけど、なかなかいける。チリビーンズといえば、刑事コロンボの大好物。当時、テレビでよく見たが、旨そうだったなあ。
夕方は本屋に行って『酒のほそ道 第28巻』を買う。新刊が出れば、必ず買っている。小学3年生の長男と幼稚園年長組の次男も愛読者だ。(いいんだろうか。)
夕食は、とんかつ、もずく豆腐でビール、燗酒。とんかつは、ビールではソースに辛子をつけて、燗酒ではすだちぽん酢しょうゆで。それぞれに旨し。とんかつで燗酒を飲むのは、池波正太郎の好みだった。やってみると意外に合う。ただ、この頃は揚げ物を食べ過ぎると胃にもたれるので、ソースが続くのは少々きつい。さっぱり系の味がいい。すだちぽん酢しょうゆ(川中醤油製造)は、広島の義妹の家で送ってくれたもの。これが旨い。とがったところがない、上品な味なのだ。
子どもたちを寝かしつけて、タラモアデュー。録画していた遠藤賢司の番組を途中まで見る。「不滅の男」、「カレーライス」、いいなあ。穏やかな日曜日でした。

2011年1月13日木曜日

桂文楽 その妻たち

文楽は女性にもてた。
落研の後輩の女の子も「文楽師匠ってかわいいですね」と言っていたし、私がたまに見るブログでも(これも書いているのは女性だ)愛を込めて文楽を「エロ爺さん」と書いている。女性から見ると文楽はよりセクシーに映るらしい。
文楽は晩年まで艶っぽさを失わなかった。それは彼が晩年まで色事に関わってきたことと無縁ではない。
文楽と女性との関わりは、ある時期まで、ひとつの特徴がある。それは(これは以前にも書いたが)必ず年上が相手だったということだ。
文楽は5回の結婚をしているが、3人目まではずっと年上だった。最初の妻は大阪で知り合い、共に上京してきた。下積み時代の文楽に随分尽くしたらしい。しかし、文楽襲名のため金が必要だった彼は、最初の妻を捨て、旅館の女将だった2番目の妻に婿入りする。さらに関東大震災でその旅館が倒壊すると、文楽は旅巡業へと逃げ、3人目の妻の下に走るのだ。当時のゴシップ紙に「馬之助(文楽の前名)の情婦になるとケツの毛まで抜かれる」と書かれたのも頷ける。文楽には女を踏み台にする冷酷さがあった。
文楽は少年期、無理矢理奉公に出されるといった形で母に捨てられた。年上の女性を求めたのは、母性への憧れであろう。そして、その年上の女性を次々と捨てた。もしかしたら、昔のTV番組「知ってるつもり」が指摘したように、それは母への復讐だったのかもしれない。
しかし、4人目の妻、寿江夫人と結婚し、終の棲家となる黒門町に腰を落ち着けると、文楽の結婚生活は安定する。
寿江夫人のことは『内儀さんだけはしくじるな』(文藝春秋刊)に詳しい。これは五代目小さん、六代目圓生、八代目文楽のそれぞれの弟子が師匠夫人について語り合ったのをまとめたものだ。読み物としても楽しいし、資料としても貴重なものである。
寿江夫人は「長屋の淀君」とあだ名された。よくいるでしょ、夫が偉いとお内儀さんまで偉くなっちゃう人。(中日の監督さんの所とか、元楽天の監督さんの所とか)ああいう人のイメージがある。協会への電話一本で弟子を二つ目にさせたとか、愛犬が可楽の股ぐらにかみついたら謝りもせず「可楽さん、大丈夫よ。この子注射してるから。」と言ったとか、その手のエピソードは多い。ただ、弟子たちの話を読むと、そんなに権力者然とした人ではなかったようだ。むしろ無邪気な人だったように思う。
寿江夫人と結婚した時、文楽は33歳。新進気鋭の売れっ子から壮年へと向かう時期である。また、寿江夫人は体が弱かった。この結婚では、文楽が初めて妻を庇護する立場になった。この結婚生活は40年以上続いたが、もしかしたら、そういったことがその一因になったかもしれない。
寿江夫人が亡くなったのは、文楽77歳の時。最期は大腸癌だったという。弟子の文平(現左楽)から妻の病気を知らされた文楽は、文平に酒の用意をさせ、二人で飲みながら「看病を頼む」と言った。そして夫人には「お前が死んだら俺も生きちゃいられない。俺も死ぬよ。」と言ったという。寿江夫人はその言葉に喜び、旅立って行った。
いい話だ。ただ、これで終わらないのが文楽である。趣味の義太夫が高じ、大阪の義太夫芸者と深い仲になる。翌年には周囲の説得もあり、その芸者と別れ、長年の愛人だった梅子という常磐津の師匠を5人目の妻に迎えた。梅子夫人との出会いは、彼女が東京音楽学校邦楽科に在籍していた19歳の時であったという。
78歳にして、これだ。桂文楽、天晴れ色男である。