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2011年1月13日木曜日

桂文楽 その妻たち

文楽は女性にもてた。
落研の後輩の女の子も「文楽師匠ってかわいいですね」と言っていたし、私がたまに見るブログでも(これも書いているのは女性だ)愛を込めて文楽を「エロ爺さん」と書いている。女性から見ると文楽はよりセクシーに映るらしい。
文楽は晩年まで艶っぽさを失わなかった。それは彼が晩年まで色事に関わってきたことと無縁ではない。
文楽と女性との関わりは、ある時期まで、ひとつの特徴がある。それは(これは以前にも書いたが)必ず年上が相手だったということだ。
文楽は5回の結婚をしているが、3人目まではずっと年上だった。最初の妻は大阪で知り合い、共に上京してきた。下積み時代の文楽に随分尽くしたらしい。しかし、文楽襲名のため金が必要だった彼は、最初の妻を捨て、旅館の女将だった2番目の妻に婿入りする。さらに関東大震災でその旅館が倒壊すると、文楽は旅巡業へと逃げ、3人目の妻の下に走るのだ。当時のゴシップ紙に「馬之助(文楽の前名)の情婦になるとケツの毛まで抜かれる」と書かれたのも頷ける。文楽には女を踏み台にする冷酷さがあった。
文楽は少年期、無理矢理奉公に出されるといった形で母に捨てられた。年上の女性を求めたのは、母性への憧れであろう。そして、その年上の女性を次々と捨てた。もしかしたら、昔のTV番組「知ってるつもり」が指摘したように、それは母への復讐だったのかもしれない。
しかし、4人目の妻、寿江夫人と結婚し、終の棲家となる黒門町に腰を落ち着けると、文楽の結婚生活は安定する。
寿江夫人のことは『内儀さんだけはしくじるな』(文藝春秋刊)に詳しい。これは五代目小さん、六代目圓生、八代目文楽のそれぞれの弟子が師匠夫人について語り合ったのをまとめたものだ。読み物としても楽しいし、資料としても貴重なものである。
寿江夫人は「長屋の淀君」とあだ名された。よくいるでしょ、夫が偉いとお内儀さんまで偉くなっちゃう人。(中日の監督さんの所とか、元楽天の監督さんの所とか)ああいう人のイメージがある。協会への電話一本で弟子を二つ目にさせたとか、愛犬が可楽の股ぐらにかみついたら謝りもせず「可楽さん、大丈夫よ。この子注射してるから。」と言ったとか、その手のエピソードは多い。ただ、弟子たちの話を読むと、そんなに権力者然とした人ではなかったようだ。むしろ無邪気な人だったように思う。
寿江夫人と結婚した時、文楽は33歳。新進気鋭の売れっ子から壮年へと向かう時期である。また、寿江夫人は体が弱かった。この結婚では、文楽が初めて妻を庇護する立場になった。この結婚生活は40年以上続いたが、もしかしたら、そういったことがその一因になったかもしれない。
寿江夫人が亡くなったのは、文楽77歳の時。最期は大腸癌だったという。弟子の文平(現左楽)から妻の病気を知らされた文楽は、文平に酒の用意をさせ、二人で飲みながら「看病を頼む」と言った。そして夫人には「お前が死んだら俺も生きちゃいられない。俺も死ぬよ。」と言ったという。寿江夫人はその言葉に喜び、旅立って行った。
いい話だ。ただ、これで終わらないのが文楽である。趣味の義太夫が高じ、大阪の義太夫芸者と深い仲になる。翌年には周囲の説得もあり、その芸者と別れ、長年の愛人だった梅子という常磐津の師匠を5人目の妻に迎えた。梅子夫人との出会いは、彼女が東京音楽学校邦楽科に在籍していた19歳の時であったという。
78歳にして、これだ。桂文楽、天晴れ色男である。

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