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2011年1月4日火曜日

芸名考①

落語家の名前について少し語りたい。
それぞれの亭号での最高位の名前を止め名というが、それらは江戸時代の後半に次々と誕生した。
文化文政の頃(1800年代初頭)、三笑亭可楽が登場。彼が職業落語家の祖とされている。三題噺を得意とした。名前は「山椒はからい」のもじり。(ちなみに明治の文豪二葉亭四迷は「くたばってしまえ」のもじりです。)
初代三遊亭圓生も同時代の人だ。こちらは鳴り物入り芝居噺で売り出した。最初、山遊亭猿松という字を当てていた。どこか文人画を思わせるが、「三遊亭圓生」の方がやはり噺家らしい。「三道楽で円く生き」に通じる。(この圓生の兄が桃月庵白酒。この名前も随分古い名前だったんだ。)
可楽門下からは怪談噺の祖、林屋正蔵(林家となるのは五代目から)、音曲噺の祖、船遊亭扇橋(八代目からは入船亭となる)が出る。
圓生門下では初代橘屋圓蔵(橘家となるのは三代目から)と三遊亭圓太との二代目争いが起きた。結果的に圓蔵が二代目圓生を継ぐが、その後圓蔵は圓生の前名的な位置づけとなっていく。一方圓太は失意の旅に出るが、そこでの修業を経て、初代古今亭志ん生となって江戸に戻ってくる。志ん生は当初「新生」、「真生」という字を当てた。「真の圓生は俺だ」という自負がにじむ。彼は「八丁荒らしの志ん生」の異名を取り、売れに売れた。三遊亭圓朝はこの志ん生に憧れたという。
同じ圓生門下から初代金原亭馬生が出る。彼は道具入り芝居噺の祖とされる。名前は小金ヶ原の放牧場にちなんだ。馬生門下は馬派と呼ばれた。ここから鈴々舎馬風が生まれ蝶花楼馬楽が生まれた。
船遊亭扇橋の門下から人情噺の祖、麗々亭柳橋が出、さらに柳橋門下から春風亭柳枝が出た。ここから柳派が生まれていく。ただ現在の柳派の止め名、柳家小さんの名前は、柳枝門下から柳亭燕枝、そのまた燕枝門下、明治期の二代目柳家小さん(初代は春風亭柳枝門下の音曲師春風亭小さん)の登場を待たなければならない。(ちなみに小さんという名は当時の芸者に多い名前だった。それをあばた面で「鬼」と呼ばれた容貌の持ち主である初代が、逆効果をねらって名乗ったという。)
桂文治というのは、もともとは上方の名跡だった。それを二代目三笑亭可楽の弟子だった人が上方に上り、初代文治の娘と結婚し、文政年間に三代目文治を継いで江戸に戻った。その後、七代目で一度上方に戻るが、八代目が再び東京に持ち帰り、以後は東京落語の名跡となった。また、この三代目文治は養子に四代目を継がせる際に、文治の「文」と師匠可楽の「楽」の字を合わせ、隠居名として初代文楽を名乗った。
立川談志の「立川」の止め名は焉馬だ。初代は江戸落語草創期の大立て者で、烏亭を名乗っていたが、二代目が立川を名乗り、文政年間に「立川家元」を称し落語界に君臨、立川流を率いた。(歴史は繰り返すのですなあ。)談志の名前は、焉馬の門人、談笑の弟子が名乗ったのが初代。現在と師弟が逆転しているところが面白い。「金馬」というのも、もともとは立川の名前だった。
基本的に落語家の名前は、亭号に名前が付く。亭号は三遊亭の「亭」も柳家の「家」も蝶花楼の「楼」も鈴々舎の「舎」も、いずれも建造物という意味だ。つまり「何々という家の誰それさん」といったところか。とすれば、森鴎外は「観潮楼鴎外」だし、永井荷風は「断腸亭荷風」だね。小説家の大看板といった感じで、こちらもなかなか格好いい。

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