大分前、立川談志と五代目柳家小さんの『大工調べ』に関する解釈の違いについて触れたことがある。
ここでは、原文を比較してみたい。
まずは立川談志。『現代落語論其の二 あなたも落語家になれる』(1985年・三一書房)より引用する。
* * *
私の『大工調べ』を聞いた小さんは(私は現在破門中とかで、師匠の小さんと書けないのである)、
「お前の大工の棟梁の啖呵を聞いていると、まるでチンピラのようで威勢がよすぎる。あれでは棟梁の貫録がなくなっちゃって、ダメだ」
だが、どうも合点がいかなかった。
あの話はどう考えても棟梁がよくない。相手の家主は、口の利き方は横柄だが、理屈は合っている。
「あと八百の銭を払ってくれれば、与太郎の道具箱は渡す・・・」
といっているのだ。八百は八厘である。八百の銭を家からもってくれば、あの話はお終いである。それを、やれ職人の貫録がどうの、と棟梁はわめく。
後半は大岡裁きとなって、職人という庶民、弱者に味方をする大岡越前守の力により、大工側が勝つ。貧乏人の勝利と喜んだ客にこの噺が受けた時代もあったのだろう。
(中略)
昔は喜んだようなものの、時代に合わなくなってしまった。だから後半を演じるものがいなくなったのは、
「大工は棟梁、調べを御覧(ごろう)じろ」
という駄洒落の落げがつまらないのではなく、話に無理を感じたから演者が演らなくなったので、あの話のテーマは、棟梁のハネッ返りなのだ。粋がった棟梁のバカさ加減でとうとう裁判所までわずらわせてしまったオッチョコチョイが主題なのだ。
あの棟梁は、きっとどこでもこういった騒動をおこしているに違いない。湯屋(ゆうや)にいけば、番台の釣り銭の出し方が気に喰わないと啖呵を切り、天ぷら屋でも寿司屋でも、同じ愚かをやっているはずだ。だから、軽々しいチャチな啖呵が本当なのではないか・・・。
志ん生はひと言でいった。
「そうだよ、あの棟梁は啖呵が切りてぇんだヨ」
患っている志ん生である。舌の回らない志ん生である。その志ん生が、『大工調べ』の本質を見事にいってくれた。天晴であった。私の惚れた志ん生は間違っていなかったのだ。
* * *
では五代目小さんの方。『五代目小さん芸語録』(2012年・中央公論社)からの引用。語り手は小さんの門人、柳家小里ん、聞き手は石井徹也である。
* * *
― (前略)「うだうだ言っていないで、与太郎をそこに置いといて、八百持って来れば何とか納まっちゃう話」なのに、棟梁の側の面子もあって騒ぎになるのかと思っていました。
小里ん そのあたりはウチの師匠の演出はキッチリ作ってあって、「お屋敷に門止めの時間がある」ってのが大事になります。棟梁としては、「門止めの時間に間に合わねェ。与太郎に貫録をつけさせてやりたいから、大家のとこへ自分が来ている」という了見なんです。師匠の場合、それくらい与太郎を立てて、「こいつは馬鹿だけれども、親孝行だし、仕事をさせれば人並み以上だから、職人の貫録をつけさせたい。それを今、八百文、取りに行ったら間に合わない」と棟梁は焦れている、だから「たかが八百くらい」ってつい言っちゃうんです。
決して大家の変化が分からないわけじゃなくて、「最初から与太郎を一人でやっちゃってマズかったな」という腹で棟梁は来てる。「八百文、持ってくりゃあ簡単な話だ」とも分かってるんです。だけど、「門止めがあって、できねぇから、オレが謝りに来てんだ」という腹ですね。だから、「何もそんなに因業なこと、おっしゃらなくてもいいじゃないですか」というセリフになるんです。
志ん生師匠の言ったというみたいに「棟梁は啖呵を切りたい奴なんだ」じゃなくて、喧嘩なんかしたくないけれど、大家が張った悪意の網に引っかかっちゃうわけなんですよ。
― むしろ大家の方に煽りがあるんですね。
小里ん そうそうそう、師匠の演出だと、そうじゃなきゃダメなんだよね。
― 大家の方が喧嘩腰を秘めてる。
小里ん 「こいつの上げ足とって怒らしちゃえ」と、棟梁が怒りだすのを待ってるんです。端っから、道具箱を渡す気はサラサラねぇんだもん。棟梁が来て、「おい、棟梁が来たよ」って奥の婆さんに言う件から、「ああ、この野郎か、差し金をしたのか」とヘソを曲げてるわけです。ただ、大家もあんなに棟梁が怒りだすとは思ってなかった。それは「想定外」(笑)。
そこの腹積りが大事なのと、あとは与太郎への気持ちですね。与太郎を立てるという。結局はそこで始まる喧嘩だから。
― 大家の側にそういう悪意があると、志ん生師匠から家元が教わったという「棟梁が悪い」という考えは成り立ちませんね。
小里ん 「こいつは喧嘩したいだけだ」というのは、志ん生師匠の中に「お屋敷の門止め」という意識が入ってないんでしょうね。大工の棟梁だから、「啖呵を切りたい奴だよ」と言われりゃ、商人か何かよりはそういう要素が強いだろうけど、いくら職人の世界でも、そんなに単純な奴では棟梁になれませんからね。
― それこそ『三軒長屋』の目白の師匠の頭を聞いていれば、「なるほど、人の上に立つのとはこういう思慮深い人か」が分かりますから。
小里ん 「“志ん生師匠にそういう風に言われ”たって、あいつが言うけどもな。そういうことァねぇんだ。棟梁ってのは、ちゃんとしてなきゃダメなんだ。そらまァ、江戸っ子で気が短いのは持った性分でしかたねェけれども」ってね。実際、仕手方を何人も使って納めていく人にただ喧嘩っ早いなんてことァないわけでね。
逆に言えば、そういう棟梁をしまいには怒らせるんだから、いかに大家が性質(たち)が悪い大家かって(笑)。そういう風に人物を描かなきゃいけないわけです。そうして成り立つのが五代目小さんの『大工調べ』の世界なんですよ。
* * *
談志も論理的だが、小さんや小里んも論理的だ。こういう応酬はぞくぞくするな。落語の深みを感じさせる。
談志の批判を受けての反論だから、小さん側に説得力があるのは仕方がない。ただ、談志の指摘を受けたからこそ、このような考えが披瀝されたのだろう。小さんの『大工調べ』論を知ることができたのは、談志のおかげである。談志が、「教えてもらったままを演じるだけの落語家」なら、このような展開にはならなかった。談志の飽くなき探求心が、小さんの深さを引き出したともいえる。
惜しむらくは『五代目小さん芸語録』が、談志の死後に発表されたことだ。小さんの反論に、談志はどう答えただろうか、興味がある。
生前、談志に対して正面切って批判する者がいなくなってしまった。談志自身は、こういうやり取りを望んでいたような気もするのだが。
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2017年1月8日日曜日
2017年1月7日土曜日
連玉庵 鳥南蛮蕎麦 御酒付き
次男を連れて寄席へ行く。
お昼は連玉庵。
次男は古式せいろ、三段重ね。1000円。
私は鳥南蛮。1100円。
せっかくなので、御酒付き。
お正月らしく田作りが付いてきた。
美しいよねえ。
鳥の火の通り方がまた絶妙なのだ。
次男はこういう老舗の蕎麦は初めて。えらく感動しておりました。
店構えも素晴らしい。
看板の字は、久保田万太郎の筆によると聞く。
2017年1月4日水曜日
洋食亭ときわ 豚肉ナポリ(辛口)
鉾田にある「洋食亭ときわ」の「豚肉ナポリ(辛口)」。885円。
昨年デビューしたばかりだが、瞬く間に看板メニューに躍り出た。
鉾田産豚肉を160g、パスタは何と250gを使用。満足度120%の逸品である。
私は辛口が好き。相当辛いが、ただの激辛じゃない。数種のスパイスをブレンドし、辛さに深みがあるのだ。
見よ、このそそり立つ壁を。
がつんと辛みがやって来るが、やがて野菜の甘みやトマトソースの酸味が複雑に絡み合う。そして、豚肉のしっかりとした歯ごたえ。パスタの絶妙な茹で加減。付け合せのサラダが、ひとときの清涼感を与えてくれる。旨いねえ。幸せだなあ。
鉾田では、長年の間、「もんく」の「ナポリミート」がスパゲティーの王者として君臨してきた。そちらの方も是非お試しください。
2017年1月1日日曜日
2016年12月30日金曜日
2016年12月26日月曜日
笠間稲荷の千社札・奉納額
以前、笠間稲荷神社の東門にある奉納額について紹介した。
他にも境内に絵馬殿という建物があり、多くの奉納額が掲げられている。
ここで落語関係のものはないか眺めていたら、まず千社札で見つけた。
それが、これ。
橘右近のが、2枚も貼ってあった。
橘右近。明治36年生まれ。初め浪曲師として芸界に入るが、大正11年、柳家さくら(後の三代目つばめ。漫談の宮尾たか志の実父である)に入門し、落語家に転向する。柳家龍馬からさん三、昭和14年には橘右近と改名した。同21年、師匠の名前さくらを継ぐも、2年後には橘右近に戻す。
昭和24年に落語家を廃業。寄席文字を専業とする。専門職としての寄席文字書きは、とうの昔に途絶えており、残された資料を基に、彼は独学で自らの書体を確立した。
昭和40年には八代目桂文楽の勧めで「橘流家元」を名乗った。現在の寄席文字の源流を辿れば、すべてこの人に行き着く。
大学時代、落研で寄席文字書きをしていた私は、しばしその筆跡に見惚れていました。
そして、この奉納額。
上段右端、「大根がし・三周」と書いてある。とくればこれはもう、三遊亭圓朝の名跡を預かる、落語三遊派宗家の始祖藤浦三周(本名、周吉)その人である。
いやここでこの名前を発見しようとは思わなかったなあ。
やっぱり笠間稲荷は宝の山だねえ。
他にも境内に絵馬殿という建物があり、多くの奉納額が掲げられている。
改めて見ると、瓦の重い屋根を柱だけで支えている。
よく震災で崩れなかったものだ。
ここで落語関係のものはないか眺めていたら、まず千社札で見つけた。
それが、これ。
橘右近のが、2枚も貼ってあった。
橘右近。明治36年生まれ。初め浪曲師として芸界に入るが、大正11年、柳家さくら(後の三代目つばめ。漫談の宮尾たか志の実父である)に入門し、落語家に転向する。柳家龍馬からさん三、昭和14年には橘右近と改名した。同21年、師匠の名前さくらを継ぐも、2年後には橘右近に戻す。
昭和24年に落語家を廃業。寄席文字を専業とする。専門職としての寄席文字書きは、とうの昔に途絶えており、残された資料を基に、彼は独学で自らの書体を確立した。
昭和40年には八代目桂文楽の勧めで「橘流家元」を名乗った。現在の寄席文字の源流を辿れば、すべてこの人に行き着く。
大学時代、落研で寄席文字書きをしていた私は、しばしその筆跡に見惚れていました。
そして、この奉納額。
上段右端、「大根がし・三周」と書いてある。とくればこれはもう、三遊亭圓朝の名跡を預かる、落語三遊派宗家の始祖藤浦三周(本名、周吉)その人である。
いやここでこの名前を発見しようとは思わなかったなあ。
やっぱり笠間稲荷は宝の山だねえ。
2016年12月23日金曜日
四代目三遊亭小圓遊
長男がせっせと「笑点」を録画しては、早起きして観るのを楽しみにしている。彼は、この間地元の文化センターで聴いて以来、林家たい平のファンになったようだ。かくいう私も、長男と同じぐらいの頃には、「笑点」が大好きだった。
私の頃は、司会が三波伸介。大喜利のメンバーは、三遊亭圓楽、三遊亭圓窓、桂歌丸、三遊亭小圓遊、林家木久蔵、林家こん平といった面々。中でも歌丸、小圓遊のバトルが人気を呼んでいた。
四代目三遊亭小圓遊。昭和12年、群馬県前橋市に生まれ、中学の時に東京に転校して来る。高校を中退して、昭和30年、四代目三遊亭圓遊に入門、金遊の名を貰った。
ちなみに圓遊一門は、笑遊、金遊、千遊、万遊といて、師匠の圓遊を加えると、その頭文字が「しょう・きん・せん・まん・えん(賞金千万円)」となる。
昭和43年、四代目小圓遊を襲名して真打に昇進した。
「笑点」ではキザを売り物にしていた。 立川談志は著書の中でこう言っている。
「小円遊の金遊に、テレビの『笑点』であのキャラクターをつけたのは、私だ。なに小円遊ばかりではない。全員につけた。円楽は物識りでいけ、こん平はバカでいけ、歌丸は常識的に、というふうに彼らの地を生かしてキャラクターを鮮明にさせたのが当たった。(中略)小円遊はキザの小円遊でいけ、と。『別れた時に一言』なんて司会の私が聞くと、『別れなければまた逢えないじゃないか』と言わせた。」(『談志楽屋噺』・文春文庫)
小圓遊の渾名は、談志曰く「韓国のヤクザ」。その容貌で小指を立てて「ボクちゃん」なんて言うのだから、これはウケた。
当時、「笑点」の演芸コーナーで小圓遊の落語を聴いたことがある。ネタは『権助魚』だった。ドスの利いた声、男っぽい口調。骨格の太い本格派で、上手いと思った。この人の落語は、大喜利のキャラクターとはずいぶん違うなあと、子ども心に思ったものだ。
人気が出るにつれて、客の方が高座の落語の方にまでキザのキャラクターを要求してくるようになった。
若くして売れた人にはこの手のエピソードが多い。八代目桂文楽は、若手真打の頃『明烏』しか演らせてもらえなかった。その弟子で、後に三升家小勝になった桂右女助は、自作の新作『水道のゴム屋』で売れた人だが、寄席で古典落語を演ろうとして、客に「お前はゴム屋やってりゃいいんだ!ゴム屋やれ!」と強要されたという。
小圓遊の場合、枕でキザをやると、爆笑を生んだ。しかし、本題に入ると落ち着いてしまう。小圓遊はそのギャップに苦しんだ。そして彼はその苦悩を酒で紛らせた。酒量は増し、それが命取りになった。
昭和55年10月4日、公演先の山形で急死。動脈瘤だか静脈瘤だかが破裂したのだと記憶している。43歳の若さだった。
因縁めくが、初代小圓遊は旅先の尾道で32歳で死亡。三代目は北海道巡業中に腸チフスで夭折(年齢は正確には分からないが、30そこそこだったという)した。何と小圓遊代々の4人のうち3人までもが、旅先で早死にしているのである。
私の手元に小圓遊のCDが1枚だけある。「落語名人全集」シリーズの18で、「現代艶笑話(1)・現代艶笑話(2)」という企画もの。バレに近い小噺をいくつも並べている。女優の声が合いの手に入り、イヤホンをしても、ちょっと家族の前で聴くのは憚れる内容だ。
この、「落語名人全集」と銘打たれたCDに、落語が1本も入っていないことが口惜しい。テーマに沿えというのなら、『紙入れ』とか『短命』とか、艶っぽい落語だっていくらでもあるじゃないか。せめて半分は落語にして欲しかった。小圓遊はそれを望んでいたと思うのだ。
私の頃は、司会が三波伸介。大喜利のメンバーは、三遊亭圓楽、三遊亭圓窓、桂歌丸、三遊亭小圓遊、林家木久蔵、林家こん平といった面々。中でも歌丸、小圓遊のバトルが人気を呼んでいた。
四代目三遊亭小圓遊。昭和12年、群馬県前橋市に生まれ、中学の時に東京に転校して来る。高校を中退して、昭和30年、四代目三遊亭圓遊に入門、金遊の名を貰った。
ちなみに圓遊一門は、笑遊、金遊、千遊、万遊といて、師匠の圓遊を加えると、その頭文字が「しょう・きん・せん・まん・えん(賞金千万円)」となる。
昭和43年、四代目小圓遊を襲名して真打に昇進した。
「笑点」ではキザを売り物にしていた。 立川談志は著書の中でこう言っている。
「小円遊の金遊に、テレビの『笑点』であのキャラクターをつけたのは、私だ。なに小円遊ばかりではない。全員につけた。円楽は物識りでいけ、こん平はバカでいけ、歌丸は常識的に、というふうに彼らの地を生かしてキャラクターを鮮明にさせたのが当たった。(中略)小円遊はキザの小円遊でいけ、と。『別れた時に一言』なんて司会の私が聞くと、『別れなければまた逢えないじゃないか』と言わせた。」(『談志楽屋噺』・文春文庫)
小圓遊の渾名は、談志曰く「韓国のヤクザ」。その容貌で小指を立てて「ボクちゃん」なんて言うのだから、これはウケた。
当時、「笑点」の演芸コーナーで小圓遊の落語を聴いたことがある。ネタは『権助魚』だった。ドスの利いた声、男っぽい口調。骨格の太い本格派で、上手いと思った。この人の落語は、大喜利のキャラクターとはずいぶん違うなあと、子ども心に思ったものだ。
人気が出るにつれて、客の方が高座の落語の方にまでキザのキャラクターを要求してくるようになった。
若くして売れた人にはこの手のエピソードが多い。八代目桂文楽は、若手真打の頃『明烏』しか演らせてもらえなかった。その弟子で、後に三升家小勝になった桂右女助は、自作の新作『水道のゴム屋』で売れた人だが、寄席で古典落語を演ろうとして、客に「お前はゴム屋やってりゃいいんだ!ゴム屋やれ!」と強要されたという。
小圓遊の場合、枕でキザをやると、爆笑を生んだ。しかし、本題に入ると落ち着いてしまう。小圓遊はそのギャップに苦しんだ。そして彼はその苦悩を酒で紛らせた。酒量は増し、それが命取りになった。
昭和55年10月4日、公演先の山形で急死。動脈瘤だか静脈瘤だかが破裂したのだと記憶している。43歳の若さだった。
因縁めくが、初代小圓遊は旅先の尾道で32歳で死亡。三代目は北海道巡業中に腸チフスで夭折(年齢は正確には分からないが、30そこそこだったという)した。何と小圓遊代々の4人のうち3人までもが、旅先で早死にしているのである。
私の手元に小圓遊のCDが1枚だけある。「落語名人全集」シリーズの18で、「現代艶笑話(1)・現代艶笑話(2)」という企画もの。バレに近い小噺をいくつも並べている。女優の声が合いの手に入り、イヤホンをしても、ちょっと家族の前で聴くのは憚れる内容だ。
この、「落語名人全集」と銘打たれたCDに、落語が1本も入っていないことが口惜しい。テーマに沿えというのなら、『紙入れ』とか『短命』とか、艶っぽい落語だっていくらでもあるじゃないか。せめて半分は落語にして欲しかった。小圓遊はそれを望んでいたと思うのだ。
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