夏目漱石と落語というと、必ず引用されるのが、『三四郎』に出てくる「小さん名人論」だろう。
これは登場人物、佐々木与次郎によって語られる。
与次郎は「小さんは天才である」とした上で、小さんと円遊を比較して、このように言っている。
「円遊も旨い。然し小さんとは趣が違っている。円遊の扮している太鼓持は、太鼓持になった円遊だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。」
ここでの小さんは三代目柳家小さん。明治28年3月に師匠の二代目小さんが柳家禽語楼に改名したのに伴って、三代目を襲名した。円遊は「ステテコ」で知られた初代三遊亭圓遊のことだ。明治40年11月26日没。『三四郎』が朝日新聞に連載されたのが、明治41年だから、すでに円遊は死んでいる。
与次郎の説では、演者の個性が際立つのが円遊、演者が消え登場人物が浮かび出るのが小さん。昭和の名人でいえば、前者は五代目古今亭志ん生、後者が八代目桂文楽ということになろうか。
第1次落語研究会が始まったのは明治38年3月。三代目小さんはこの研究会の発起人として柳派からただひとり名を連ねた。この研究会で、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんは名人の名を確立させていく。
昭和の名人、文楽・志ん生・圓生が口をそろえて「本当の名人」と言う圓喬に対して、漱石は言及していない。圓喬のような大向こうをうならせるタイプは、漱石の好みではなかったのかもしれない。
この『三四郎』では、もうひとつ落語の影響を感じさせる箇所がある。
冒頭、主人公の小川三四郎が熊本から汽車に乗って東京に出てくる場面。車中で三四郎は一人の女と知り合う。その汽車の終点、名古屋で女は三四郎に「一人では気味が悪いので、宿屋に案内してほしい」と頼む。横町の目立たない所にある宿屋に入ると、あれよあれよという間に同室に案内される。布団もひとつしか敷いてくれず、二人は同衾することになる。
となれば、落語『宮戸川』を連想せずにはいられない。
ある晩、将棋に熱中して遅くなり締め出しを食った半七。お向かいのお花も歌がるたがもとで締め出しを食っている。半七が叔父さんの家に泊めてもらいに行くと言うと、お花は泊めてもらえる当てがないので、一緒に連れて行ってほしいと頼む。半七は嫌がるが、お花は無理について行く。また叔父さんがさばけた人で、ひとりで飲みこんで二人を二階に上げてしまう。布団も一つしかなく、やむなく二人は一緒に寝ることにする。
ね、似てるでしょ。
寝る段になると、半七はこう言う。
「それじゃあ、ま半分の所に線を引きますから、あなたはあっちに寝てください。私はこっちに寝ます。どんなことがあってもこっちに入っちゃいけませんよ!」
三四郎が布団に入る場面はこうだ。
「『失礼ですが、私は疳性で他人の蒲団に寝るのが嫌だから…少し蚤除の工夫を遣るから御免なさい』
三四郎はこんなことを云って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻き出した。そうして蒲団の真中に白い長い仕切りを拵えた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。」
私はここを「お前は半七か」と突っ込みを入れながら読んだよ。
『宮戸川』では、やがて雷雨となり、近くに落雷が起こる。思わず半七にしがみつくお花。女の匂いが半七の鼻に届く。ふと見るとお花の裾が乱れ、緋縮緬の長襦袢から真っ白な肌がのぞいている。息を飲む半七…、「この後は本が破れて読めません」と、多くの落語家はここで下げる。まあ二人は結局結ばれるのだけれど。
一方、『三四郎』では落雷なんぞは起こらない。何事もなく翌朝を迎える。二人は名古屋駅のホームで別れるのだが、女は三四郎にこう言って、にやりと笑う。
「あなたは余っ程度胸のない方ですね」
…こっちのサゲはすごいなあ。『三四郎』のこの場面は、詳細に見ていくと謎が多くて面白い。機会があったら、改めて書いてみたいと思います。
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2018年1月18日木曜日
2018年1月16日火曜日
鹿島神社「由緒」について
前回の記事で、小美玉市小川地区馬場山の鹿島神社の「由緒」を、鹿島神宮のものと混同していたので訂正した。明らかに誤読であり、全くもって恥ずかしい限りであります。
その直前、『古代日本正史』(原田常治著・昭和57年・同志社刊)を読んでいたら、このような記述があったのだ。以下、引用する。
* * *
鹿島神宮 茨城県鹿島郡鹿島町
(祭神)武甕槌大神
(記録)往古鹿島の大神が東海より霞ケ浦を遡り、小川の園部川に止まり給うた。即ちこれを久殿森に鎮め奉り、後、羽木上、成山等に遷し、さらに大同二年、今の鹿島の地に遷し奉った。
これでみると、香取神宮が神武天皇の時代に現在の地に祀られたのに対し、鹿島神宮が現在地に鎮座したのは、ずっと後の大同二年(西暦八〇七年)のようである。
* * *
内容は馬場山の鹿島神社の「由緒」とほぼ同じ。以下に画像を掲載する。
これはあくまで「鹿島神社」の「由緒」なのだから、「現在地」とは、小美玉市馬場山でと見るのが自然である。原田氏は、この「由緒」を鹿島神宮のものとして、「現在地」を鹿島に読み替えたのだと思う。
また、「東海」を、「東海道」や「東海地方」のイメージで見ると、いかにも鹿島の大神が大和辺りからやって来たように思われるが、これを馬場山の地から考えれば、「東海」とは文字通り「東の海」、つまり霞ケ浦東方の北浦湖畔、鹿島の方ではないか。鹿島の大神は鹿島からやって来たと見てよいのではないか。
鹿島神宮が小川から鹿島の地に落ち着いたというのは、やはり無理があると思う。
念のため『常陸風土記』を見てみたら、鹿島神宮の縁起を次のように綴っている。口語訳で記す。
「孝徳天皇の己酉の年(西暦649年)中臣氏が総領であった高向の大夫に請い願って、下総国の海上の国造の所領から南にある一つの里、那賀の国造の所領から寒田より北にある五つの里を割いて、別に神郡を設置した。その地に鎮座まします天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社を合わせ称して、香島(かしま)の天の大神と申し上げる。(中略)天智天皇の時代(662年~672年)に初めて使いの人を派遣して神の宮をお造らせになった。それ以来今に至るまで、修改築が絶えたことがない。」
鹿島神宮では創建を神武天皇元年としている。
いずれにしても鹿島の大神が、広く常陸国で信仰されていたことは間違いない。
その直前、『古代日本正史』(原田常治著・昭和57年・同志社刊)を読んでいたら、このような記述があったのだ。以下、引用する。
* * *
鹿島神宮 茨城県鹿島郡鹿島町
(祭神)武甕槌大神
(記録)往古鹿島の大神が東海より霞ケ浦を遡り、小川の園部川に止まり給うた。即ちこれを久殿森に鎮め奉り、後、羽木上、成山等に遷し、さらに大同二年、今の鹿島の地に遷し奉った。
これでみると、香取神宮が神武天皇の時代に現在の地に祀られたのに対し、鹿島神宮が現在地に鎮座したのは、ずっと後の大同二年(西暦八〇七年)のようである。
* * *
内容は馬場山の鹿島神社の「由緒」とほぼ同じ。以下に画像を掲載する。
これはあくまで「鹿島神社」の「由緒」なのだから、「現在地」とは、小美玉市馬場山でと見るのが自然である。原田氏は、この「由緒」を鹿島神宮のものとして、「現在地」を鹿島に読み替えたのだと思う。
また、「東海」を、「東海道」や「東海地方」のイメージで見ると、いかにも鹿島の大神が大和辺りからやって来たように思われるが、これを馬場山の地から考えれば、「東海」とは文字通り「東の海」、つまり霞ケ浦東方の北浦湖畔、鹿島の方ではないか。鹿島の大神は鹿島からやって来たと見てよいのではないか。
鹿島神宮が小川から鹿島の地に落ち着いたというのは、やはり無理があると思う。
念のため『常陸風土記』を見てみたら、鹿島神宮の縁起を次のように綴っている。口語訳で記す。
「孝徳天皇の己酉の年(西暦649年)中臣氏が総領であった高向の大夫に請い願って、下総国の海上の国造の所領から南にある一つの里、那賀の国造の所領から寒田より北にある五つの里を割いて、別に神郡を設置した。その地に鎮座まします天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社を合わせ称して、香島(かしま)の天の大神と申し上げる。(中略)天智天皇の時代(662年~672年)に初めて使いの人を派遣して神の宮をお造らせになった。それ以来今に至るまで、修改築が絶えたことがない。」
鹿島神宮では創建を神武天皇元年としている。
いずれにしても鹿島の大神が、広く常陸国で信仰されていたことは間違いない。
2018年1月14日日曜日
小美玉市小川の二社(訂正版)
昨日、小美玉市小川地区にある二つの神社をお参りしてきた。
まずは素鵞神社。
園部氏の小河城があった高台にある。
境内にある「御由緒」には、こう書いてある。
「享禄二年 橋本源左衛門尉重長 橋本孫左衛門尉重孝 薗部川で神像を御掬い申し上げ これを花蔵院に祀る薗部宮内少輔小川鎮守として城内へ陰神たる櫛稲田姫命を 城外へ建速素戔嗚命を祀る 天保年間天王宮を素鵞神社と改め 昭和二十二年神道令により陰神を現在の地に鎮祭し盛大なる祭事を行ふに至る」
享禄2年とは、西暦1529年、時は戦国時代、室町幕府12代将軍足利義春の時代であった。
拝殿の前に近隣の主だった神社の御朱印が並べてあって、300円ほどのお志を出していただくことができる。
7月には小川の街でこの神社の祭事として祇園祭が行われる。祇園というからには八坂神社系なのかな。
文中にある櫛稲田姫命を祀った神社はこれ。鳥居を入ってすぐの所にある。
お次は馬場山にある鹿島神社。
ここの「御由緒」は次の通り。
「鹿島の大神東海より霞ケ浦に入り園部川を遡って馬場村の金輪田に来臨された。里人らこれを久殿の森に奉紀したが、神慮にかなわず羽木上成山等を経て、大同2年現在地に鎮座されたという。」
大同2年というのは、西暦807年。東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされるらしい。
小河十二郷大鎮守として尊崇され、江戸時代初頭には元道神官11人の社人が常住し、慶安元年制定の祭礼日限帳に基づいて、大の祭り、小の祭りが連日斎行されたという。
今、その賑わいはないが、県道沿いにあるにもかかわらず、しんと神寂びた雰囲気が漂っている。
まずは素鵞神社。
園部氏の小河城があった高台にある。
境内にある「御由緒」には、こう書いてある。
「享禄二年 橋本源左衛門尉重長 橋本孫左衛門尉重孝 薗部川で神像を御掬い申し上げ これを花蔵院に祀る薗部宮内少輔小川鎮守として城内へ陰神たる櫛稲田姫命を 城外へ建速素戔嗚命を祀る 天保年間天王宮を素鵞神社と改め 昭和二十二年神道令により陰神を現在の地に鎮祭し盛大なる祭事を行ふに至る」
享禄2年とは、西暦1529年、時は戦国時代、室町幕府12代将軍足利義春の時代であった。
拝殿の前に近隣の主だった神社の御朱印が並べてあって、300円ほどのお志を出していただくことができる。
7月には小川の街でこの神社の祭事として祇園祭が行われる。祇園というからには八坂神社系なのかな。
文中にある櫛稲田姫命を祀った神社はこれ。鳥居を入ってすぐの所にある。
お次は馬場山にある鹿島神社。
ここの「御由緒」は次の通り。
「鹿島の大神東海より霞ケ浦に入り園部川を遡って馬場村の金輪田に来臨された。里人らこれを久殿の森に奉紀したが、神慮にかなわず羽木上成山等を経て、大同2年現在地に鎮座されたという。」
大同2年というのは、西暦807年。東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされるらしい。
小河十二郷大鎮守として尊崇され、江戸時代初頭には元道神官11人の社人が常住し、慶安元年制定の祭礼日限帳に基づいて、大の祭り、小の祭りが連日斎行されたという。
今、その賑わいはないが、県道沿いにあるにもかかわらず、しんと神寂びた雰囲気が漂っている。
2018年1月12日金曜日
『SIGHT』最新号を待つ
雑誌『SIGHT』を読んでいたら、巻頭言に渋谷陽一がこんなことを書いていた。
ちょっと引用してみる。
* * *
(略)自民党は圧勝した。たくさんの議席を得た。そして選挙は結果がすべてである。しかし、だからといって安倍自民党が国民に圧倒的な支持を受けているかといえば、そんなことはない。投票率は約半分だし、そのうちの半分からしか自民党は票を得ていない。そして安倍政権の進める政策、(略)どれも賛成する人より反対する人の方が多い。自民党の一強支配、右傾化する世論、といった言葉がメディアには溢れているが、僕はまったくそうは思わない。安倍政権、自民党政権の支持基盤は脆弱だし、世論は右傾化などしていなくて、冷静である。
僕が危険だと感じるのは、事実とは違う自民党の圧倒的な強さ、右傾化する日本という言葉が氾濫することによって、まるでそれが事実のような気分として国民の常識を支配していくことだ。(略)
言うまでもなく、「自民党は圧倒的に強い、日本人は右傾化している」といった気分の蔓延を喜ぶのは、低い投票率で大きな勝利を手にした自民党だし、安倍政権である。彼らはその気分が大切なことをよく知っている。あの強引なタイミングで総選挙を断行したのは、もっと遅れると勝てなくなる、という冷静な判断があったからだ。自分たちの政権基盤がそれほど強くないことを知っているのである。
* * *
昨年秋の衆院選についての記事かと見まごうばかりだが、実はこれ、2015年の総選挙後のものなのである。
強引なタイミングでの解散、低い投票率、政権への批判票の分散・・・、同じことが同じように繰り返される。このままずっと「何も変わらない」というニヒリズムだけが蓄積されてしまうのだろうか。
とはいえ、この分析は的確だし、現政権の痛い所を突いていると思う。だからこそ彼らは、ヒステリックに、執拗に、批判する者を攻撃するのだ。
渋谷陽一は、この記事をこう締めくくる。
「自民党の巧妙さはそうしてどんどん鍛えあげられている。そのいちばんの成果が前回の総選挙だった。たいした支持もないのに彼らは多くの議席を手に入れてしまった。それに対抗するには、より優れた歌詞とメロディーを持つ、時代に合った歌を作らねばならない。」
新しい「歌」は生まれつつあるのだろうか。
衆院選以後も、雑誌『SIGHT』は沈黙したままだが、いずれ渋谷陽一は何かを語り出すだろう。私は最新号を心待ちにしている。
ちょっと引用してみる。
* * *
(略)自民党は圧勝した。たくさんの議席を得た。そして選挙は結果がすべてである。しかし、だからといって安倍自民党が国民に圧倒的な支持を受けているかといえば、そんなことはない。投票率は約半分だし、そのうちの半分からしか自民党は票を得ていない。そして安倍政権の進める政策、(略)どれも賛成する人より反対する人の方が多い。自民党の一強支配、右傾化する世論、といった言葉がメディアには溢れているが、僕はまったくそうは思わない。安倍政権、自民党政権の支持基盤は脆弱だし、世論は右傾化などしていなくて、冷静である。
僕が危険だと感じるのは、事実とは違う自民党の圧倒的な強さ、右傾化する日本という言葉が氾濫することによって、まるでそれが事実のような気分として国民の常識を支配していくことだ。(略)
言うまでもなく、「自民党は圧倒的に強い、日本人は右傾化している」といった気分の蔓延を喜ぶのは、低い投票率で大きな勝利を手にした自民党だし、安倍政権である。彼らはその気分が大切なことをよく知っている。あの強引なタイミングで総選挙を断行したのは、もっと遅れると勝てなくなる、という冷静な判断があったからだ。自分たちの政権基盤がそれほど強くないことを知っているのである。
* * *
昨年秋の衆院選についての記事かと見まごうばかりだが、実はこれ、2015年の総選挙後のものなのである。
強引なタイミングでの解散、低い投票率、政権への批判票の分散・・・、同じことが同じように繰り返される。このままずっと「何も変わらない」というニヒリズムだけが蓄積されてしまうのだろうか。
とはいえ、この分析は的確だし、現政権の痛い所を突いていると思う。だからこそ彼らは、ヒステリックに、執拗に、批判する者を攻撃するのだ。
渋谷陽一は、この記事をこう締めくくる。
「自民党の巧妙さはそうしてどんどん鍛えあげられている。そのいちばんの成果が前回の総選挙だった。たいした支持もないのに彼らは多くの議席を手に入れてしまった。それに対抗するには、より優れた歌詞とメロディーを持つ、時代に合った歌を作らねばならない。」
新しい「歌」は生まれつつあるのだろうか。
衆院選以後も、雑誌『SIGHT』は沈黙したままだが、いずれ渋谷陽一は何かを語り出すだろう。私は最新号を心待ちにしている。
2018年1月4日木曜日
噺家さんの手拭い
片付けをしていたら、噺家さんの手拭いが出てきた。
写真に撮ったので、アップしてみます。
以上は、小文治さんが前座時分、落研部員に師匠方からいただいた手拭いを持って来てくださったものだ。私も何度か高座で使わせていただいたことがある。
シメは八代目桂文楽。雑誌「サライ」の付録に付いていた復刻版であります。
写真に撮ったので、アップしてみます。
上が三笑亭夢楽師匠、下は橘家圓蔵師匠。
圓蔵師匠は七代目か八代目か不明。
夢楽師匠の図柄は「若手落語会」のチケットにも使われた横山隆一筆のもの。
原画には「若手群像」というタイトルが付いている。
夢楽師匠にとって「若手落語会」は、それだけ思い入れが強いものだったんだな。
右は古今亭志ん駒師、左は春風亭扇枝師。
以上は、小文治さんが前座時分、落研部員に師匠方からいただいた手拭いを持って来てくださったものだ。私も何度か高座で使わせていただいたことがある。
右は小文治さんの二つ目時代、桂亭治を名乗っていらした頃のもの。
左は真打昇進、小文治襲名の際の配りものだったと思う。
右は立川談修さん。真打昇進時に送ってくださった。
左は小文治さんの現在の図柄。先代文治師の筆によるもの。
2018年1月2日火曜日
村松山虚空蔵堂
例年、正月2日は親子4人で村松山虚空蔵堂にお参りに行く。
平安初期の大同2年(807年)、弘法大師空海によって創建されたといわれ、三重県伊勢市の金剛鐙寺、福島県柳津町の圓蔵寺とともに日本三大虚空蔵堂の一つとされている。ちなみに虚空蔵菩薩は丑年と寅年の守り本尊、私も妻も丑年生まれである。
お参りを済ませ、参道をぶらぶらと駐車場へと戻る。
おやきの屋台があったので、1個ずつ買って歩きながら食べる。私は野沢菜、次男は味噌茄子、妻と長男はあんこと紫いもを半分こしていた。
いつもの酒屋さんで甘酒を買って飲む。
いい天気。日差しがあって暖かい。
昼食は阿字ヶ浦の海岸で食べることにする。コンビニでパンやおにぎり、肉まんなどを買い込む。
途中、干し芋を買う。
茨城の冬には欠かせない味。地元では「乾燥芋」と呼ぶ。
海を見ながら昼食。少し風が出てきて、波が荒い。
食後、子どもたちは海岸で遊ぶ。次男が波でズボンを濡らしたので、そこで終了。
着替えさせて、車に乗り込む。
磯崎漁港に大漁旗が翻っていた。ここは、日本テレビ「鉄腕DUSH」の「つれたか丸」の母港でもあった。
海岸線を海を見ながらドライブ。那珂湊、大洗を通って帰途に就く。
3時ごろ家に着く。ひと眠りして夕方ビール。
夕食はおせち、豚キムチ炒め、豚すき焼きの残りで燗酒。
2018年1月1日月曜日
新年明けましておめでとうございます
朝、雑煮、おせちで酒。
地区の新年会に出る。昼頃お開き。
帰って、カップのきつねうどん。
散歩がてら、近くの神社に初詣。
まだ酔いが残っているので、家でごろごろする。
夕食は豚すき焼きで燗酒。
天気もよく、穏やかな元日でした。
新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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