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2010年11月25日木曜日

石井徹也編著『十代目金原亭馬生―酒と噺と江戸の粋』 

いい本だ。まず表紙がいい。
薄手のグラスで日本酒を飲む馬生。突き出しに蕎麦味噌らしきものが見えるところから、蕎麦屋であろうか。箸は割られていない。所作の美しさにほうっとなる。
内容は馬生を知る人たちの証言が中心。弟子たちによる対談。娘、池波志乃とその夫中尾彬との対談。談話も、新宿末広亭の席亭、金沢のお医者さん、立川談志、柳家喬太郎といった多彩な面々。写真は豊富。馬生自身の川柳、エッセイも収録されている。
十代目金原亭馬生を知るには、まさに決定版ともいえる一冊である。
それにしても、馬生死して30年、今になってこういう本が出るというのも感慨深い。
私が大学に入学した頃、馬生は既にその早い晩年を迎えつつあった。高校時代から彼の噺は好きだったが、当時は志ん朝・談志の激しい鍔迫り合いが繰り広げられており、私はそちらの方に心を鷲掴みにされていた。華麗な志ん朝、才気溢れる談志、それが同じ寄席の高座でしのぎを削っていたのだ。どうしたって目を奪われる。そこへいくと馬生はあまりにマイペースだった。ぎらぎらした所などこれっぽっちもなく、ふわふわと高座に現れ、「しわい屋」ばかり演っていた。
私は若かったのだ。馬生のいぶし銀の輝きが見えなかった。いや、見えていたのかもしれないが、私の若さがそれに感応しなかったのだ。
この本を読むと、馬生の優しさ、落ち着き、外見からは想像できない肝の太さが、しみじみと伝わってくる。(いささか神格化しすぎるきらいはあるものの)馬生を失ったことが、いかに大きな損失であったかが分かる。十代目金原亭馬生享年54歳、やはり、その死は早過ぎた。
今、私はこの本をいつも手元に置き、繰り返し愛おしむように読んでいるのである。

2010年11月23日火曜日

里の秋


朝、昨夜のカレーに納豆をかけて食べる。旨し。
先週から次男がおたふく風邪で幼稚園を休んでいる。
痛みはなくなって、すっかり元気。ずっと家にいるので多少ストレスが溜まっているのか、お兄ちゃんとの喧嘩が絶えない。
雨は降っているが、気晴らしに車で出かける。
先月、笠間で作った器が出来たというので、取りに行く。なかなかの出来映え。
それから、柿岡に回り昼食にパンを買う。柿岡の名店「ブレッド」。
田圃の畦道に車を止め、筑波山を見ながら昼食。大葉と鶏肉を挟んだ味噌味の和風サンドが秀逸。晩秋の旧八郷町の里の秋を堪能しながら帰る。
北海道の友人から、鮭、ほっけ、烏賊、秋刀魚等、どさっと届く。毎年すまないねえ。ありがとう。
夕食はおでんと焼き鳥、それと従兄が打ってくれた蕎麦で一人娘。旨し。
写真は筑波山。麓は紅葉真っ盛り、写真では、はっきり写っていないけどね。

2010年11月17日水曜日

桂文楽の穴

文楽の芸を「完璧主義」と評する人は多い。
曰く、「一点一画をゆるがせにしない」、「磨き上げられた緻密な芸」等々、いずれもきちんとした破綻のない楷書の芸という評価である。
確かに文楽の噺は、台詞も時間もきちっと決まっていた。ただ、神格化されるほど全てにおいて完璧だったわけではない。
例えば『富久』。この噺で文楽はカンニングペーパーを持って高座に上がっている。久蔵が旦那の家に駆けつけ、火事見舞いの客の応対をしている場面、文楽は見舞い客の屋号や名前を手ぬぐいの上に置いたカンペを見ながら言っているのである。もしかしたら、彼が『富久』をなかなか高座にかけなかったのは、それが覚えられなかったからではないか、と勘ぐりたくなる。
また、色々な噺の映像を観ていて気づいたのだが、噺の途中で上下(かみしも)が入れ替わってしまうことがよくあるのだ。(多分、三遊亭圓生はこのようなことはしない。圓生のプライドはこんな初歩的なミスを許すまい。)
文楽の上下に関しては、松本尚久著『芸と噺と―落語を考えるヒント』(扶桑社刊)の中に出てくる。少し引用してみよう。
「小満んさんによれば、文楽は噺のトーンの維持に最も神経を使っていて、会話、地の文一体になったテンションを保つために、息継ぎの箇所がほかの人よりも少なく、また、普通は切らない所で息を継ぐように配分していた。さらに会話のつながり方を最優先にしているので、ときに人物の上下が逆になっても、そのまま停滞せずにとにかく噺を進めたという。」
文楽は上下より噺のテンションを優先した。つまり、最終的には型よりも内容を優先していたのだ。
文楽は「完璧主義」と賞賛されたが、一方で「いつ聴いても同じ」とか「作品至上主義で人間の業を描いていない」などと批判された。
しかし、文楽は、決して頑なな形式主義者ではなかった。噺が生きたものとなるために、形式を犠牲にするのも厭わなかったことが、それを証明している。

2010年11月16日火曜日

やったぜ、稀勢の里


昨日、稀勢の里が白鵬の連勝記録を止めた。
いやあ、やってくれた。やっぱり稀勢の里は何か持ってるねえ。
双葉山を破った安芸乃島は、その後、横綱になった。
ここのところ停滞気味だった稀勢の里も、これを機会に是非一皮むけて欲しい。
私が知っている郷土力士は、若浪、多賀竜、水戸泉、武双山、雅山といずれも優勝はしたが、横綱にまでは届かなかった。
武双山は大学の後輩にあたるだけに、とりわけ期待していたんだがなあ。
稀勢の里は妻の実家がある牛久の出身。頑張れよお。
写真は5、6年前、牛久かっぱ祭りに来ていた稀勢の里。妻がケータイで撮って送ってくれた。まさに小山のような体躯だ。

2010年11月10日水曜日

浜川崎線


大学の頃住んでいたアパートから歩いて20分位の所に親戚の家がある。
当時、私は月に1、2回そこに行って、夕食を食べさせてもらったり、風呂に入れてもらったりしていた。
東芝の工場の間を抜け、南武線、東海道線、京浜急行の踏切を渡って、八丁畷の駅前を通っていく。人通りはほとんどない。私はそんな時、歩きながらよく落語の稽古をしていた。時間的にもちょうどいいし、歩きながらぶつぶつ口ずさむ稽古が、なかなか身に付いてよかったのだ。
親戚の家からの帰りは、八丁畷から浜川崎線の電車に乗った。
八丁畷は、京浜急行と浜川崎線が交差している所にあり、京浜急行のホームをまたぐ跨線橋がそのまま浜川崎線のホームになっているという、いささか変わった造りの駅である。その昔、小津安二郎監督の『お早う』という映画のロケで使われた。ビデオで見る限り、駅自体はほとんどそのままといった感じ。戦後の匂いがぷんぷんする。
思い返すと、なぜか冬の印象が強い。ホームにはいつも私一人。寒さに背を丸めて電車を待っている。工場地帯の方角から、ヘッドライトが見え、やがて茶色の電車がやってくる。
電車は2両編成。戦後間もなく国電で使っていた旧式の車両だ。床は板張り。よく揺れた。
椅子に座ると、暗い窓ガラスにしけた私の顔が映り、その向こうに川崎の夜景が見えた。アパート最寄りの尻手まで、たった一駅だったが、いかにも侘びしげで、私はこの電車に乗るのが好きだった。
あれからもう30年か。思えば遠くへ来たもんだ。
写真は現在の浜川崎線の電車。すっかり小ぎれいになったねえ。創設80周年のヘッドマークが誇らしげだぞ。

2010年11月5日金曜日

上野鈴本演芸場 11月上席昼の部


上野鈴本演芸場、11月上席昼の部。8分の入り。ほとんど中高年。
入ったのは1時半頃。古今亭志ん橋が「熊の皮」を演っていた。
お次はホームランの漫才。ネタはこの間と同じ。いいねえ。面白い。
柳家小里ん「碁泥」。これもこの間と同じ。柳家の味。
入船亭扇遊は「権助芝居」。得意ネタなんだな。上手い。
三遊亭小圓歌の三味線漫談。文楽、志ん生、小さん、三平、圓歌の出囃子を弾く。最後は「奴さん」を踊る。小股の切れ上がったいい女。
仲トリは古今亭菊志んの「悋気の独楽」。明るくて達者。ただ長髪のせいか素人臭い印象を与える。(私が歳を取ったからそう感じるのかもしれない。)
仲入りではトリのしん平がメガホンを取った映画、「落語物語」(私はつい「落窪物語」と読んでしまう)の宣伝を、柳家わさびと春風亭ぽっぽが務める。
クイツキはニューマリオネットの操り人形。以前は夫婦でやっていたのだが、現在は旦那のみ。寄席で観ることの出来る唯一の操り人形だ。「獅子舞」と「会津磐梯山」をバックに酔っぱらいを巧みに操る。ピンになったので、「闘牛士」を観ることが出来なくなったのがちょっと寂しい。
柳家喜多八、「替わり目」。本格派。この人が出ると高座が締まるな。
若手のエースの一人、古今亭菊之丞は「町内の若い衆」。ちょいとシモがかった噺だが、品がある。外見に似合わぬ骨格の太い芸。大きくなってほしい人だ。
膝代わりは和楽社中の大神楽。私が若い頃は大神楽といえば海老一染之助・染太郎とか柳家(だったかな)とし松・小志んだった。いつの間にか時代は移っているのだなあ。
トリは林家しん平。映画の宣伝を少しして、大人はもう少し怒らなきゃいけないという枕をふってから「かんしゃく」に入る。声がはっきりして聴きやすい。この噺は、ややもすると客席が怒られている雰囲気になって引いてしまうことがあるが、しん平の明るさでノリのいい高座となった。(その分、中盤の父親が娘を諭す場面は、しっとりとした感じにはならなかったが。)
私が20代の頃、三遊亭圓丈を筆頭に、夢月亭歌麿、柳家小ゑんといった人たちが新作落語で売り出した。その中にこのしん平がいた。リーゼントに革ジャンを羽織って暴走族落語などを演っていた。アイドルの桂木文と結婚もしたりしたな。(桂木文の幸薄い感じが私は好きでした。)あの頃のとんがった感じから、少し太って丸くなった。
最後は全身タイツになって「ガイコツかっぽれ」を踊った。馬鹿馬鹿しくっていいぞ。
いい気分で追い出しの太鼓を背中で聞いて駅に向かう。

お土産に船和の芋ようかんを買って帰った。ありがとう、奥さん、楽しかったよ。

2010年11月4日木曜日

川崎を歩く


休み。本当なら妻とデートなのだが、次男の幼稚園の遠足と重なり、一人でのお出掛けとなった。
久々に川崎に行く。
川崎駅西口から南武線尻手駅へと歩く。私が大学の4年間住んでいた所だ。
それにしても西口、劇的に変わったなあ。
私の大学時代はひっそりとした佇まいだったが、現在は、東芝の工場跡に大規模な商業施設ができ、マンションが立ち並んでいる。すっかりお洒落な街になってしまった。
私が住んでいた幸和荘という木造2階のアパートも既になく、その場所には小ぎれいなマンションが建っていた。
よく食べに行った角屋食堂や中華料理ちづるも、友川かずき御用達の三玉酒店もない。無理もない。あれから30年も経っているのだ。
いつものように写真を撮りながらぶらぶら歩いていたのだが、突然、愛機ライカC2の主電源スイッチが利かなくなった。仕方がなくケータイのカメラで、アパートがあった路地を撮影する。
30分ほど歩いて尻手駅に着いた。この辺はほとんど変わらない。
登戸までの切符を買い、ホームに出る。浜川崎線の電車が止まっていて、80周年記念のヘッドマークがついていた。
南武線に乗って登戸へ。これが私の通学路だった。登戸駅が新しくなっいて、ちょっと驚いたな。
そこから歩いて向ヶ丘遊園へ。
インドールというカレー屋で昼食をとる。この店は大学2年の頃にできた。インドールカレーとビール。パンチの効いた辛さと、煮込んで溶けた野菜の甘味が旨い。昔のままの味。
いい気持ちになって小田急線で新宿に出て、山手線で上野に戻る。
鈴本演芸場で昼の部を観て帰る。
家に着いたのは7時頃。上野で買った「味噌カツひつまぶし弁当」で夕食。味噌カツ部分でビール、ひつまぶし部分で酒を飲む。

2010年11月3日水曜日

ポークベーコン焼き


出張で沖縄に行って来た。
初日の晩飯は、牧志公設市場の二階で食べた。
エスカレーターを上って、裏側の店。7年前にも来たような気がする。
「ポークベーコン焼き」。ポークランチョンミートとベーコンを焼いたのとキャベツとポテトサラダ。ご飯と味噌汁が付いて感動の550円。旨し。テーブルにあった油味噌がまた旨い。飯に合う合う。
6時半過ぎには閉店。客はほとんど地元の人とのこと。
やはり地元の人が贔屓にしている店はいいねえ。