ページビューの合計

2011年4月26日火曜日

桂文楽の死

志ん生との会談の2日後、11月2日、文楽は検査のため駿河台の日大付属病院に入院した。少量の吐血を見たのがきっかけだった。その後、病状も落ち着き、12月18日には退院することになっていた。
さらに12月10日、主治医の西野入は文楽から「ドックに入って健康診断を受けたいんですけど、どうでしょ?」と訊かれ、「それは結構なことですよ。」と言って勧めたという。
ところが、その翌々日、12月12日の日曜日の朝、文楽は突然大量の吐血をする。動脈瘤が破裂したのだ。(西野入は、ドックの際、胃カメラなどの検査機器が、食道の動脈瘤を刺激したのではないか、と想像している。)
日曜の朝で、道具が用意できない。健康管理課の女医ではどうにもならず、医局の旅行で熱海に行っていた西野入が急遽呼び出された。しかし、もう手の施しようがなかった。輸血を続けるものの吐血は止まらず、側で見ていた五代目小さんは「血を入れるから吐くんだ。輸血を止めれば、吐き終われば血が止まるのに。」と言った。苦しんで苦しんで文楽は逝った。
その日の昼、遺体は黒門町の自宅に戻った。文楽の死に顔は穏やかだったが、棺に収めるため遺体を動かすと、鼻や口から血があふれ出た。西野入が脱脂綿でそれを拭き取った。葬儀のお別れで棺を祭壇から下ろすと、またもや大量の血があふれ出た。そのために出棺には手間取った。文楽の死は、それ程までに壮絶だった。
志ん生はテレビのニュースで文楽の死を知った。12月9日に妻りんを失い、3日後に盟友の訃報に接した志ん生は蒲団を引っ被り、「あんにゃろ、俺の面倒を見るって言ってたのに、死んじまいやがった。」と言って号泣した。りんの死には呆然とするだけだった志ん生は、この時初めて感情を爆発させたのだ。
告別式は、退院する予定だった12月18日、浅草東本願寺において落語協会葬として執り行われた。葬儀委員長は落語協会会長の三遊亭圓生。圓生は弔辞の中で「戦後、人心の動揺、人情、生活と、以前とは移り変わりゆく世相で、勿論落語界も、世間のあおりを喰い、動揺をした中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我人共に時流に流されやすい時に、貴方は少しもゆるがなかった。」とした上で、「戦前の通りに少しもくずさず演った、それが立派な芸であれば客は喜んで聴いてくれるのだ、これで行けるのだと、人々に勇気を与えた。今日の落語界に対して貴方は大きな貢献をされたことを私は深く感謝しております。」と述べた。戦後の落語界で、文楽が果たした役割を、これ程的確に言い当てた言葉はあるまい。戦後の混乱期から昭和30年代の落語黄金期にかけて、文楽の背中を必死に追いかけた圓生だからこそ言える言葉であった。
八代目桂文楽。本名並河益義。享年79。死因は肝硬変と発表された。法名は「桂春院文楽益義居士」。墓は世田谷区大蔵5丁目妙法寺にある。墓石には辞世の句「今さらにあばらかべっそんの恥ずかしさ」が刻まれている。

0 件のコメント: