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2012年12月3日月曜日

眼鏡落語家

48の誕生日に眼鏡デビューをして以来、4年になろうとしている。最近は面倒くさいので、遠近両用眼鏡をかけっぱなしにしている。そろそろ「眼鏡は顔の一部」になりつつあるかなあ。
落語家で眼鏡をかけたまま高座に上がる人がいる。
落語は一人で何人もの人物を描き分けるので、扮装や小道具を嫌う。本来は眼鏡などのように人物を限定させてしまうものは外すべきなのだが、私は子どもの頃からわりとすんなり「眼鏡をかけた落語家」を受け入れていたな。
それは、何と言っても、二人の売れっ子、三遊亭歌奴(現三代目三遊亭圓歌)と月の家圓鏡(現八代目橘家圓蔵)の存在が大きい。
歌奴の売り物『授業中』や『浪曲社長』なんてのに、眼鏡はよく似合っていた。圓鏡の眼鏡を外した顔はどこか貧相で、眼鏡をした方が愛嬌が出てよかった。圓鏡は眼鏡のおかげで、メガネクリンビューのCMというヒット作に恵まれたよね。
この二人に続く「眼鏡落語家」としては三遊亭圓丈か。この人も、ぬう生時代の眼鏡なしの写真を見たけど、眼鏡があった方が個性が際立つ。アメリカンコミックに出てくるような、日本人のステレオタイプの眼鏡出っ歯みたい。それがエキセントリックな部分を誇張させ、圓丈ワールドの形成に役立っている。
それから、川柳川柳もいい。知性と狂気が交錯する川柳の世界に、あの銀縁眼鏡はよく似合う。
当代の売れっ子、春風亭昇太のいつまでも若々しい雰囲気は、あの眼鏡が一役買ってはいないだろうか。
漫才などでは、キャラを立てるために眼鏡を利用する人が多い。Wけんじの東けんじはレンズのない眼鏡をかけていた。現在でもきゃいーんの天野ひろゆきもそうだよね。
そこへいくと落語家の場合は、普段も眼鏡をかけて生活をしていて、そのまま高座に上がるといった自然体な感じがある。そこがいいね。
ただ、本格派は眼鏡を外すという固定観念めいたものはある。
故三笑亭夢楽師匠は、大喜利に出演する時は眼鏡をかけたままだったが、落語を演る場合には外しておられた。現林家正蔵は、こぶ平時代は眼鏡をかけていたが、正蔵襲名を控え本格派を志向するようになってから、高座で眼鏡をかけるようなことはなくなった。
うちの落研は、もちろん眼鏡をかけて高座に上がるのはご法度だった。多分、初めて眼鏡をかけて落語を演じたのは、二代目松風亭歌ん朝さんだったと思う。歌ん朝さんは眼鏡をしたままの方が、本来のほんわかした人柄の良さが出るのだ。その人の芸にとってプラスになるなら、形式的なタブーはいらないよね。
立川談志が髭を生やしても本格派だったように、眼鏡をかけていても本格派という人が出てきていいと思うし、本格派ばかりが落語家じゃないとも、私は思いますよ。

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