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2013年2月27日水曜日

那珂湊を歩く



先日、那珂湊を歩いた時の写真。
海運で栄えた古い街だ。
水戸藩の御殿や、徳川斉昭公が建てた反射炉もある。
御殿は天狗党の乱の時の戦場にもなった。
時間がなかったので、そのような史跡に寄ることもなく、ひたすら街をぶらついた。

こういう建物が好きなのよ。

























那珂湊駅。
湊線は震災で一時不通となったが、見事に復旧した。
駅は随分きれいになったね。


2013年2月25日月曜日

阿字ヶ浦の宴


今年も、以前の職場の同僚との飲み会をやった。
10人ほどのメンバーがいるのだが、ここのところ、参加者はずっと4人。昨年は参加者が3人となり、遂にお流れとなった。(そのおかげで岐阜へ行けたわけだが…。)
今年は、Kさん、OHさん、OTさんが参加を表明。私も入れて4人となったので、2年ぶりの開催となった。
場所は阿字ヶ浦。チェックイン前に付近を散歩するのが、私のお楽しみ。今回は那珂湊の街を歩く。
3年前、平磯でやった時、やはり那珂湊を歩いた。震災を経てはいたが、古い建物が結構残っていて嬉しかった。
前回寄った本屋も元気に営業中。あの時は泉鏡花『婦系図』と安倍公房の短編集を買ったっけ。数は少ないが、近代文学が充実したラインナップ。大江健三郎を買う。
1時間ほど歩いて、阿字ヶ浦へ。湊線の阿字ヶ浦駅の写真を撮って、宿に入る。
私はシブい宿が好みなので、これまで同宿の客が少ない傾向にあったのだが、ここは満室。特に少年サッカーだか野球のチームの合宿があり、10人ほどの団体があり、賑やかだったね。
明るいうちからビールを飲みながら、メンバーが揃うのをのんびり待つ。いいねえ。
OHさん、Kさんの順に到着。だらだらと飲む。OTさんが来る頃には、Kさんが持ってきた焼酎を飲み始めていた。
そして、いよいよ宴会。刺身、天ぷら、煮魚、赤魚の南蛮漬け、釜飯といった料理が並ぶ。変わった所では鮫の卵とじというのがあった。
ご主人が「これ(鮫)食べたら、今夜元気になっちゃいますよ。」と言う。この齢で無駄に元気になってもなあ。でも、旨いよ、これ。
いつものように宴会は大盛り上がり。10年以上、このノリは変わらない。
場所を部屋に移しても話は尽きず、日付が変わる頃まで、宴は続くのでありました。

2013年2月21日木曜日

真打昇進

3年の夏合宿、最後の夜、コンパの後か、すぐには眠れなかった。
真打になれるとすれば、このタイミングで呼ばれるはずだった。
果たして、同輩の幹部が私を起こしに来た。
緊張して、三代目紫雀さんの部屋に行く。そこには、OBの二代目紫雀さんもいた。幹部の酒合丈君、八海君、悟空君もその場に控えていた。
三代目紫雀さんの口から、私の真打昇進が決定したということを告げられた。嬉しかったというより、ほっとしたといった方が正直な気持ちだったかもしれない。
「名前はどうする?」と訊かれた。
二代目紫雀さんの勧めもあり、「松風亭風柳」を襲名することにした。「松竹亭金瓶梅」にも憧れはあったが、私としては一門の「松風亭」で真打になりたかったのである。
合宿明けに初代と先代に連絡して、承認してもらうように指示された。
合宿の最終日、私の真打昇進と三代目松風亭風柳襲名が発表された。
伊豆河津の駅前で部員から胴上げされた。真打になったのだな、という実感が、初めてわいてきた。
川崎のアパートに帰った夜、初代さんと先代さんに電話した。もちろん自前の電話はアパートにない。国道沿いの公衆電話からだった。
初代さんは「(真打に)なると思ってましたよ。」と言ってくださった。「合宿の高座を聴いてそう思ってました。」初代さんは、我々のような者でも丁寧語で話してくださる。
次は先代さんだ。テープではよく聴いていたが、お話しするのは初めてだ。突然の電話に驚かれたようだったが、名前を継ぐことを快諾してくださった。
夏休み明け、楽家伝助改め三代目松風亭風柳襲名並びに真打昇進披露寄席が開かれた。口上は、幹部から悟空君、真打からは紫雀さんが就職活動のため、9月の二つ目勉強会で真打昇進を決めていた、弥っ太改め艶雀君が務めてくれた。私はトリで『たがや』を演じた。
終演後、部室で恒例の宴会。昼酒は旨いものだが、とりわけ旨い酒だったと思う。

2013年2月18日月曜日

スキーに行ったぞ


先週末は妻子を連れてスキーに行った。
先月の3連休の初日に行ったおかげで、駐車場無料とスキーレンタル1000円引きのクーポンが使えた。
まずは子どもたちのスキーセットを借りて、午後のレッスンの予約を取り、午前中はゲレンデで自主練。前回は快晴だったのだが、今回、時折薄日は差すもののずっと雪がちらつき、強風が吹きすさぶ、ちょっとハードなコンディション。すぐにへこたれて、休憩所に逃げ込む。
30分ぐらいうだうだして、そのまま昼食。私はカレーライスを食べる。典型的なゲレ食。懐かしい味でした。
そして、午後のレッスン。あまりの寒さに泣いてる子もいた。
うちの子、二人とも頑張ってた。前よりさらに上達したよ。やっぱり専門家のコーチはすごいなあ。
帰りは、前回も寄った日帰り温泉に入る。感動の源泉かけ流し。露天で雪見風呂と洒落込んだ。
塩原の温泉街を通って帰る。この街並みが結構好き。
次男は、「今度は泊まりに来ようよ」としきりに言う。そうだな、この頃、温泉宿に泊まってないな。好きなんだよな、温泉に泊まるの。今度みんなで泊まろうな。
家には7時過ぎに着く。スーパーで買った押し寿司と焼き鳥をつまみに、黒ビールと神亀の発砲にごりを飲む。旨し。

写真は次男の雄姿。

2013年2月15日金曜日

T君来訪②


翌朝は快晴。T君は「筑波山に登りたい」と言う。
東筑波パープルラインを通って行く。つつじヶ丘駐車場には9時前に着いた。
ロープウエイの始発は9時20分。ちょっと土産物を見てから女体山頂へ。
上は前の週に降った雪がぱきんぱきんに凍っていた。つるつる滑って危ないこと、この上ない。
風が冷たい。 海抜877m。日本百名山中、いちばん低い山だが、関東平野の真ん中にぽつんと立つ弧峰である。眺望は素晴らしい。晴れている割に遠くが霞んでいたのが、ちと惜しかった。
御幸ヶ原に下りて男体山へとも思ったが、道が凍結していたのでやめる。無理はしない。
山を下りて、それから常磐道に乗り東海村へ向かう。
日立南インターで下り、久慈川の河口を渡って、東海第2原発の前を通る。震災の時、あと津波が40センチ高かったら、大変なことになっていたという。この30km圏内には100万人が住んでいる。深刻な事態になったら、果たして住民避難なんてできたんだろうか。
原子力科学館を見学。入場無料。原子力がいかに我々の生活に貢献しており、安全に管理されているかという内容。まあ予想通りだ。建物はきれいだし、駐車場はバスを何台か止められるようになっている。金がかかってるねえ。安全だということを、金をかけて殊更に宣伝しなければならないということに、どうしても胡散臭さを感じてしまうよなあ。
別館は1999年に起きた、JCO臨界事故の展示がある。事故の経過をまとめた映像を見たが、ひでえ話だな。効率は安全に、簡単に優先するんだな。福島がああいうことになった今でも、原発を早く動かせ、という声は少なくない。
昼は茨城のご当地ラーメン、スタミナラーメンを食べることにする。 この辺でスタミナといえば、ひたちなかの「寅さんラーメン」だ。国道6号線沿いにあるので、道も分かりやすい。
私も行くのは2回目。家からだと、ちょっと遠いからね。
行ってみると、もはや満席。10人ほどが空席待ちをしていた。まあこういう店は回転が速い。人数の割には30分くらいで座ることができた。
スタミナラーメンと餃子を注文。ここはスタミナが売り物で、スタミナラーメンを筆頭に、スタミナ冷やし、スタミナ焼きそば、スタミナ丼というラインナップ。どれもレバー・かぼちゃ・キャベツを炒めた甘辛い餡をかけたもの。こいつが癖になる。
厨房は完全な分業制、餡を作る人、麺を茹でる人、仕上げをする人、餃子を焼く人がせっせと働く。客は引っ切り無しにやって来るので、餡は作り置きだが、結局出来立てが載せられる。
ネットの口コミでは賛否両論あるが、これはこれで旨いよ。確かに麺は柔らかいが、餡かけは往々にしてそんなもんだ。T君も「昔からの普通の中華屋の麺は柔らかいものだよ」と言っていた。
満足満足で店を出る。T君は「途中でそぼろ納豆を買いたいなあ」と言うので、スーパーに寄って帰ることにする。
また、隙を見てどこかへ行こう。それまでお互い、日常をしっかりやっておこうな。
T君が無事に着いたとメールをくれたのは、夜の10時になった頃だった。

2013年2月12日火曜日

T君来訪

この連休、岐阜のT君がやって来た。
去年は私が岐阜へ行ったが、今回はT君の方がこっちへ来ることになった。
岐阜から7時間かけて、2時頃T君到着。一息入れて、土浦へ行く。
中城通りの駐車場に車を止め、ぶらぶら歩く。折しも雛巡りが始まったばかり。リュックを背負った中高年の姿がちらほら。
まずは「まちかど蔵・野村」を見学。2階には、土門拳撮影の予科練の写真が展示してある。
亀城公園、ほたて食堂、吾妻庵総本店など、私のお気に入りの場所を案内する。
それから、阿見に移動。陸上自衛隊武器学校内にある、雄翔館を見学する。
ここは海軍航空隊戦没者の遺品などを展示している所だ。 戦死された方々の遺影が掲げられ、ガラスケースには遺書や遺品が収められている。
当たり前だが、皆、若い。あどけなさすら感じるほどだ。やはり胸が痛む。これを「美しい物語」にしてはいけない、と私は思う。
夜は石岡で、同級生のI君を交えて3人で飲む。
養老乃瀧へ行きたかったのだが、残念ながら休み。やむなく駅前の福々食堂へ。いいね、こういう昔からやってる駅前食堂。
餃子、スタミナ炒め、カキフライで生ビール。スタミナ炒めは、豚肉、もやし、ニラなんてのを特製ごま風味タレで炒めたもの。旨いねえ。
1時間ほどして、金丸通りの焼き鳥屋へ移動。
ここでは石岡の地酒を攻める。皿の上に升を載せ、その中にコップが入れてあって、それにがばがば注いでくれるんだよね。コップから溢れ、升から溢れ、皿までいっぱいになる。ありがとう。
焼き鳥、煮込み、牛すじ、みんな旨かった。
I君が翌日仕事なもんで、8時解散。みんな大人になったなあ。若いうちだったら、明日のことなんかどうでもよくなってたところだ。何事も程が大事。ここは清く分かれよう、ということになる。旨い酒が飲めた。
T君は我が家に泊まり。さて明日はどこへ行こうかね。

2013年2月7日木曜日

顔見世

落研の対外発表会で出した機関紙「かぜ」。
その中で、「顔見世」と称し、部員全員の似顔絵を描いた。
これは4年の時。祖師ヶ谷大蔵の八海君のアパートだったな。弥っ太君もいて、わいわい言いながら描いたっけ。
この間のOB会では、このメンバーのうち、かなりな数が集まったねえ。また会いましょうね。

2013年2月5日火曜日

文楽と出口③

「出口一雄―鬼の眼に涙」での出口には、常に落日の雰囲気が漂っている。
自分のやり方や価値観が、いつか通用しなくなる日を、出口はどこかで感じていたのではないか。
出口が聖域にしていた桂文楽の世界も、客体として相対化する視線に晒されることから免れない。レコード全集を監修した山本益博もまた、失敗作『品川心中』『鶴満寺』にも光を当て、桂文楽を総合的にとらえようとした。
出口の頑強な抵抗によって、その二席は全集には収録されなかったが、正確に言えば、完全に封印されたわけではなかった。『品川心中』は、これも珍品『小言幸兵衛』とともにカセットテープで売り出されたし、『鶴満寺』はテイチクの「日本の伝統芸能―落語」シリーズでCD化されている。
出口が昼日中から酒を飲むことについて、京須の質問に答えて三遊亭圓生は言う。
「何年か前になりますかねえ。たしか神田の須田町あたりだったと思いました。どういう事故か、あたくしは詳しくは知らないが、頭を打ったとかで、一時は危ぶまれてあたくしどもも随分心配をしました。まア、いい按配に治って仕事に戻ったんですが、その頃からでしょうかねえ、昼間も飲むという話を聞くようになったのは。やはり、どこか具合が悪くて酒で紛らそうとしているのかも知れませんねえ」
頭を打って脳に障害が残り、人が変わるということはある。出口もそうなのかもしれない。だが、桂文楽の死の影響も小さくはないと思う。文楽の死が昭和46年12月12日。京須が出口と初めて会ったのが昭和48年だ。酒で紛らそうとしたものは、体の不調だけではなかったのかもしれない。
昭和51年2月、出口は事務所で斃れて逝った。桂文楽に惚れ、落語に惚れ、最期まで落語とともに生きた。惚れた相手とそれほどまでに濃密な日々が持てたことを、ただただ羨ましいと思う。
出口を主人公に据えた話は、今の所、この「鬼の眼に涙」だけである。出口自身は本を書くこともなかったのだろう。聞き書きでいいから、出口の言葉を残して欲しかったなあ。昭和期の落語黄金時代を支えた一人である。きっと貴重な話がざくざく出て来たに違いない。
もし10年早く生まれていたら、デグチプロで働きたかったな。夕方になったら、出口さん行きつけの洋食屋へ行って、酒の相手をしながら、文楽師匠の思い出話を聞くんだ。テーブルの上には、コロッケとカキフライの皿。外は夕焼け。出口さんがぶっきら棒に、だが愛おしげに黒門町を語る。そんな想像をするのは楽しい。

CBSソニーから出た、桂文楽全集。題字は吉井勇である。

2013年2月2日土曜日

文楽と出口②

京須偕充の文章に出てくる出口一雄は、いつもコップ酒を傾けている。
京須が出口と交流を持つようになったのは、昭和48年。三遊亭圓生のレコード制作の交渉がきっかけだった。 出口は京須との初対面の時、いきなり京須の前に握り拳を突出し、「三遊亭はこれだ。」と、圓生が金にうるさいことを示した。
出口は、ぶっきらぼうでシャイでとっつきにくい。しかし、落語を愛し、芸人を愛する心は、その数少ない言葉の端々に滲み出た。
『みんな芸の虫』の「出口一雄―鬼の目にも涙」の中でも白眉といわれる、山本益博監修桂文楽全集レコード制作でのエピソード。山本が、文楽の失敗作、『品川心中』と『鶴満寺』を収録しようとしたことを知った出口が、涙ながらに訴える。
「待て。理屈を言うな。あの二席がセコなことは分かっているんだろうな。それが分からなくちゃア、芸が分かるとはいえない。セコだと分かっていて、セコだからこそ収録したい、って言うその理屈が俺にゃア堪らないんだ。そういうわけの分からないことを言うな。黒門町が嫌いなのか。好きなら、変な理屈は言うな。文楽のいいところだけでなぜ全集を作ってくれないんだ。いいものも悪いものも半々っていう噺家じゃアないんだ。黒門町は。数は少ないが、みんな飛び切りに良くって、あのふたつだけが間違いだったんだ。文楽のためにもあの二席には封印してやってくれ。なア、頼む。あの二席は諦めてくれ。可哀そうじゃないか、黒門町が。」
出口の文楽に対する深い愛が胸を打つ。
結局、この二席は全集に収録されなかった。さすがの山本も出口の言葉に折れざるを得なかった。
その数日後、いきつけの洋食屋で、京須相手に日本酒を飲みながら、文楽の思い出話をする場面もせつない。
「黒門町の最期は、かわいそうだった…病院のベッドで、血を吐いてな…」
出口はここでも大粒の涙を流す。
「あれだけの名人だったんだ。あれだけいい噺家で、あんな品のいい綺麗な芸だった…。だから、せめて死ぬ時は…、高座であんなことになっただけに…、せめて逝く時だけは…、綺麗事にな…、わかるだろ、綺麗に往くところに往かせてやりたかった。それが…。くやしいけれど、思うようにゃアいかねえ」
そして、こう言う。
「俺は落語が好きだ。他のことは何ひとつ分からない。落語しかないんだ。俺には。その中でも黒門町が好きだな。芸はよし、ひとはよし、あんないい噺家はいない」
いいだろ。京須偕充の文章の中でも最高の部類に入るな。古本でしか読めないのが勿体ないよ。