この間、三遊派の話をしたが、落語界でもう一方の雄といえば柳派である。
柳派の首領は、(春風亭も由緒正しい柳派の亭号だが)柳家小さんということに異論はあるまい。特に近年では、五代目小さんの存在感は大きかった。
三遊が華麗な型の芸であるのに対し、柳は幾分地味。(「三遊若旦那、柳隠居」という言葉が残っている。)
小さんの演出は一言でいえば、「そのものの料簡になる」ということだ。「型よりも心」とでもいえばいいだろうか。圓生のようにはっきりとした上下も切らず、殊更美しい動きもない。両手を膝の上に置き、淡々と喋る。だが、そこにそこはかとない可笑しみが滲み出る。色鮮やかな錦絵ではなく、枯淡な水墨画といった趣か。三代目も四代目も、そんな芸風だったと聞く。
五代目の師、四代目小さんは仕草もほとんどしなかったという。「仕草なんかどうでもいい」と四代目は若き日の五代目に言ったそうだが、四代目のおかみさんは、それを脇で聞いていてこう言った。「嘘嘘、お父ちゃんは毎朝神棚に向かって、『仕草が上手くなりますように』って拝んでるよ。」
そんなエピソードがあるが、そのような師を持ちながら、五代目は仕草がまたよかった。『時そば』『うどんや』『饅頭怖い』『長短』の仕草の楽しさ、『強情灸』『笠碁』の表情の面白さなど、今でも思い出す。
五代目小さんは、四代目の死後、八代目桂文楽門下となる。文楽の仕草は、三代目三遊亭圓馬仕込み。持ちネタには仕草で売ったものも多かった。文楽門に転じた時、小さんは既に真打に昇進しており、文楽のもとで修業をしたわけではない。小さん自身、器用な人だったから、仕草も苦にはしなかったのだろう。だが、小さんもまた、文楽のように仕草が売り物になり得たことは、師弟関係として興味深い。
ただ、小さんの仕草は、文楽のように様式美を感じさせるものではなかった。いかにも自然体だった。
落語の仕草はパントマイムではない。過度に技巧的になると、かえってあざとく、噺を壊す。あくまで日常的でさり気なく、ほどよい誇張が施される程度でいい。
その点でいえば、小さんの芸は形で見せる部分でも観客を魅了したが、それはあくまで柳派の伝統に則ったものだったと言えるだろう。
4 件のコメント:
五代目小さん師匠の魅力は派手な演出や誇張をするのでもなく、地味でいて仕草や感情移入と細かい処を
綿密に研究された芸という形なのでしょうか?
持ち根多の多くは最初の師匠である四代目小さん師匠 先々代の三笑亭可楽師匠 や兄弟子の八代目正蔵師匠
に多く稽古をつけて貰ったという事と
昭和の名人は「四代目小さん デブの圓生 八代目文治 三語楼」と云っていた事を川戸貞吉氏との対談
『現代落語家論』で読んだ事があります。
四代目小さん没後八代目文楽(黒門町)師の預かり弟子に成りますが、
芸の影響よりも人の生き方 接し方 会長としての政治力を学んだという感じなのでしょうか?
ここでも「文楽師匠には人としての生き方を学んだよ」と云っていたと思います。
五代目小さん襲名の為に奔走してくれた大恩人と云うものがあるのでしょうか?
八代目文楽師が柳亭左楽師に人生を学び、それが小さん師にも継承されたという事なのでしょうか?
それが前に申し上げた 大量真打問題 三遊協会分裂騒動にも「大人の対応」をされたという事に成るのでしょうか?
後に直弟子の立川談志師の脱退騒動は起こりますが、その時も「名前だけ残しておけ」と云ったり、
談志師の弟子が協会に戻る時にも、「私が引き取ると角が立つので、談志と親しいお前が預かれ」と
一門の馬風師預かりにさせる配慮もあったと聞いております。
芸風は違いますが無意識に内に仕草の継承や接点も人生を学ぶ内に文楽-小さんと継承されたのでしょうか?
小さんの落語についてはコメントの質問でほぼ言い尽くされていると思います。
ただ「、若い頃の録音を聴くと、ぽんぽんゴムまりが跳ねるようなテンポで爆笑を取っています。お客は文字通り腹を抱えて笑っているんですよね。「小さんの若い頃はすごかった」と言われたのもうなずけます。
老練なシブいイメージがありますが、豪速球をびしびし投げていた爆笑派でもあったんですね。
文楽は小さんの芸に惚れこんだからこそ、周囲の反対を押し切っても五代目襲名に奔走したんだと思いますね。
小さんの大きさは、文楽の影響もあったかもしれませんが、天性のものもあったと思います。何より素直な人柄だったそうですから、色んなものを吸収したんでしょう。
金原亭馬生一門の人によると、分裂騒動の時はおろおろしていたという一面もあるようですが、馬生に任せる所は任せていた。人に任せることができるのも、人としての大きさといっていいかもしれません。
》ただ「、若い頃の録音を聴くと、ぽんぽんゴムまりが跳ねるようなテンポで爆笑を取っています。お客は文字通り腹を抱えて笑っているんですよね。「小さんの若い頃はすごかった」と言われたのもうなずけます。
老練なシブいイメージがありますが、豪速球をびしびし投げていた爆笑派でもあったんですね
小さん師が終戦後、期待の若手といわれていた事が伺われました、唯変な処へ行かず、その年齢に相応しい方向に
変えていったのが良かった、談志師が「落語頭の良い人」と云われたのが納得出来ました。
》小さんの大きさは、文楽の影響もあったかもしれませんが、天性のものもあったと思います。何より素直な人柄だったそうですから、色んなものを吸収したんでしょう。
馬風師の著書『会長の道』では談志師の脱退の時も、小さん師も師弟の縁を切るのではなく、「協会に名前を残しておけ」と云った
事と、談志師の弟子でも協会に残りたい者は一門で弟弟子の馬風師等の預かりにして残す様にしようとして、馬風師と談志師と親しい俳優の毒蝮三太夫氏が小さん-談志の和解の場を設けようとしたのを、
談志師がドタキャンした事と、弟子の談生師(現馬桜師)が馬風預かりで協会復帰した折に、御礼かと
思うと馬風師に「てめえ俺に喧嘩売りやがった」と啖呵を切られたので、小さん師から「談志を破門」と云う結論を
下したとその経緯が書かれております。
唯その後も談春師の著書『赤めだか』で小さん師に直に稽古つけて貰った事や、孫の花緑師に
「志らくや談春とは良い付き合いしろよ」と云ったり、
「あいつは(談志)はあいつでいいんだよ」
「あいつなりに一派をこしらえてやってるから一本立ちだよ」
「何処まで行っても師弟っていうのは変わらないもんだろ」と云われたと書かれております。
一般的に談志師の失礼とも思われる態度を含めても、芸や実力その様な事を含めて最期まで師弟の絆は
切れていなかったという事なのでしょうか?
小さんは談志の芸を買っていたんだと思います。
「師匠の弟子でいちばん上手いのは誰ですか?」と問われて、小さんは「談志だな。小三治もいいが、談志の方が上だ」と言ったといいます。
談志の方は、どこまで小さんが許してくれるかのチキンレースをやっていた感があります。(圓丈の見解がそうです)
談志は承認欲求が強い人だったので、こういうことをするのです。だから、談志が言う「何でも許してくれた小さん師匠」というのは、そのまま信じるのは危険だと思います。小さん一門からすれば、複雑な思いがあるでしょうね。
今は談志サイドからの証言が多く美談に収まりがちですが、そう単純にすむ話ではなさそうです。
師弟の絆は、気持ちの上では切れていなかったのかもしれませんが、小さんは結局、自分の一門の弟子を選んだのではないでしょうか。
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