言わずと知れた、八代目桂文楽の自宅があった所だ。
落語家も大家ともなれば住んでいる町名で呼ばれる。
古今亭志ん朝は「矢来町」、五代目柳家小さんは「目白」、三遊亭圓生は「柏木」だった。
中でも極め付けが「黒門町の師匠」八代目桂文楽だった。
上野の松坂屋の向かい、風月堂そばの路地を入ると、都会の喧騒から隔絶されたような一角がある。社団法人落語協会の事務所があり、そのはす向かいに長方形の空き地がある。そこが文楽の自宅跡である。
その佇まいを、柳家小満ん『べけんや―わが師、桂文楽』から引用してみる。
「(前略)今は立派なビルになっている和菓子の『うさぎや』さんの真裏の路地を入ったところで、路地の入り口の左角が古今亭今輔師匠のお宅であった。文楽師匠のお宅は左側で、向こうの角から二軒目で、わずか九坪半の小さなお宅であったが、大きなガラス戸の玄関と、お勝手口の板塀があり、二階の手すりといい、ガラス戸といい、塀といい、まるで鉢のように真っ白に磨きぬかれていた。
玄関には表札が二枚並んでいて、
『桂文楽』
『並河益義』
とあって、横に“柳家小さん書”としてあった。」
まるで文楽の芸そのままの、きれいで端正な様子がうかがわれる。建物は昭和50年ぐらいまでは存在していたという。どうして私は、当時、ここを訪れなかったのか。今更ながらに後悔する。
近くの通り沿いに、ビルの中にあるお稲荷様がある。そこの奉納一覧には、我らが黒門町、桂文楽の名前が、今なおあるんだな。それを大切にカメラに収めて、予約した宿のある、神田明神の方へ向かうのでありました。
黒門小学校。重厚な造りですな。
落語協会事務所。
この空き地が、桂文楽宅跡。
文楽の家があった路地。
お稲荷様の奉納一覧。右上には古今亭今輔の名前も見える。
そして、よっ待ってました、黒門町。
路地を出た所には、しぶい建物がありました。
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