安藤は1908年(明治41年)、浅草生まれ。1946年(昭和21年)、久保田万太郎の推挙で雑誌『苦楽』で聞書き「落語鑑賞」を連載、活字によって桂文楽の話芸を活写し評判を呼ぶ。その後、三越落語会や東横落語会などでホール落語という興行形態を確立させ、古典落語のステイタスの向上に寄与した。一方文部省芸術祭執行委員審査委員を務め、斯界で絶大な発言力を持つに至る。文楽が昭和20年代に昭和の名人の座に駆け上がるのに、安藤の文筆が大きな力になったことは否定できないと思う。
以前にも書いたように、安藤はペンによって、出口は放送業界と公私にわたる細やかなマネジメントによって、文楽を支えた。それはあたかも車の両輪のようであったかもしれない。 出口一雄と安藤鶴夫の両者にも、また浅からぬ縁があった。
出口と安藤は1歳違い(出口の方が1つ年上)、生まれも共に浅草である。それだけではない。二人とも東京中学の出身であった。
安藤の年譜によると、彼は1921年(大正10年)、13歳で東京中学に入学している。そして、1923年(大正12年)2年生の時に、数学の成績不振により落第、留年した。そのために、同じ東京中学に進んだ出口の2歳下の弟、利雄(Suziさんの父親)と同級生となった。
安藤はその後法政大学に、出口一雄は立教大学に進む。 卒業後、安藤は新聞記者として演劇や落語に関わり、出口はレコード会社に就職、落語のSPレコード制作に従事する。共に落語や演芸に関わる仕事をしており、顔を合わせる機会もあったのかもしれない。
二人の道が交差する機会がもう一度ある。1951年(昭和26年)、ラジオ東京開局時に、安藤は同局の編成局制作参与に就任する。(ちなみにこの年、安藤は日本演劇協会理事、文部省芸術祭執行委員会企画委員にも就任している。)そして、その2年後、出口がプロデューサーとしてラジオ東京に入社してくるのである。この関係は1955年(昭和30年)、安藤が参与を辞めるまで続いた。
TBSで出口の後輩プロデューサーだった川戸貞吉は、『対談落語芸談2』の中で次のように語っている。
「私どもの先輩出口一雄という人は、おなじ学校を卒業しながら、アンツルさんと犬猿の仲。 それでねェ誰か間ィ入る人が立ちまして『仲直りをさせよう』と。つまり“出口一雄と安藤鶴夫を握手させる会”ッていうのをやったんだそうです。会がつつがなく終わって、散会したとたんに『あの野郎』ッてもう出口さんがいってたっていう話が伝わってるくらいですからね。」
三代目桂三木助は安藤が贔屓にしていた落語家だが、彼の没後安藤が音頭を取って「三木助を偲ぶ会」というのをやった。
その時、それに対抗し、アンチ安藤派が集まって、同日同時刻に「しのばず会」というのをぶつけてきた。所も不忍池に近い本牧亭の下でやっていた料理屋を使ったというのだから念が入っている。
本牧亭の席亭、石井英子によると、その日「しのばず会」に集ったのは、総勢十数名。メンバーは作家玉川一郎を始め、新聞記者の富田宏、先代の貞丈、都家かつ江、そして黒門町桂文楽などがいたという。
文楽がアンチ安藤派の集まりに列席したというのは意外に思われる。しかし、実は「偲ぶ会」「しのばず会」両方に招待された者が少なくなかったのである。それらのほとんどは、どちらにも行きかねて両方に欠席の返事を出しのだが、われらが桂文楽は平然とかけもちをしたのだ。単に「八方美人」では済まされない、文楽の面目躍如たるものがあり、私の最も好きなエピソードの一つである。
もちろん出口一雄もその中にいた。Suziさんが言っていた「アンツルをこきおろす会」というのは、これだったかもしれない。
大正10年1月に撮られた出口家の家族写真。(Suziさん提供)
詰襟姿が出口一雄。向かって左前方で椅子に座っているのが、弟利雄(Suziさんの父)。
この年の4月、安藤鶴夫が出口と同じ東京中学に入学してくる。
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