「私の記憶では安鶴の生き方や人生の渡り方に関しては伯父にとっては第1の理由ではないと思います。
それは、彼ら(私の父や伯父出口一雄に言わせれば)から見れば(私は安鶴の出生地が東京の何処かは知りませんが)生まれた場所が純粋の江戸っ子の場所ではないのに、浅草の生まれ、と言うのが気に食わなかったからだと言う風に受け取っています。これは私の父も伯父に賛成でしたから、事実なのでしょう
『安鶴は偉そうに声高に平気で言いやがる、正直じゃねェ』、と言うことなのです。例えば神田とか浅草、根岸界隈ではなく、何処か違う所の生まれなのです。 それをいつも一番怒って言っていましたね。『アン畜生は言う資格なんかねェ、江戸っ子といえる所で生まれちゃいねェ』、良くそう言っていました。
『正直に生まれはホントの江戸っ子じゃないけど、私は江戸っ子気質が好きです。それで生きて行きます、って言やァいいのに、正直じゃねえよ。大衆をだますたァ。江戸っ子の風上にも置けねェ』ッて言ってましたね。
『正直で隠し事のねェ竹筒ッポが江戸っ子だよ。汚ねェ野郎だよ、あいつは』 と腹立てて言っていました。」
ただ、Suziさんの「江戸っ子」観は、伯父とは若干違うようだ。彼女はこう続ける。
「でも私(Suziの個人的浅薄知識から洞察すると)江戸っ子なんて言われるようになったのは歴史から見ると江戸幕府が開かれても初期、中期頃になっても、ズーーーッとそんなことは無いんですよね。だって江戸は出稼ぎの寄り合い社会の、男が80%の都市だったんですから。裏長屋の住民で結婚しているのは2人がせいぜい。その他は皆独り者。江戸っ子なんて声高に言われだしたのは江戸の庶民社会が落ち着き、2代3代と江戸生まれが続いた後の事。江戸の後期から明治初期になって起こった感覚です。
だから江戸の人間はその頃までは決して田舎者や他県からの出身者に対して偏見や優越感なんて持っていないんですよ。落語が盛んになる頃から起こったのが江戸っ子感覚、と私は視ています。当時の女は自由がなく決められた相手と嫌でも結婚、なんて考える人が多いいようですが、とんでもないですよ。
男社会の女日照りですから、女はいくらでも結婚できた。亭主に死なれたって、別れたって直ぐ又結婚できたんですよ。女日照りだもん。記録では7回結婚が最多だそうです。といって結婚式なんてものは無い無い。近所や友人が寄って祝っただけ。見合いや親が決めた結婚は武士と金持ちの商人娘だけですよ。三行半だって男が書いた、なんてウソウソ!男が書かされた。がホントのところ。甲斐性なくて飲んだくれで仕方ないから、女が書かせたンです。杉浦日向子やその他の著書を読み漁れば身に付く知識ですよね。江戸時代の酒の飲まれた量も歴史上に於いてダントツ。でも下り酒を薄めて売っていたのでそのアルコール量は売り手の薄め方次第でさまざまです。これも読み漁ると面白い面白い!!スミマセン脱線しました!!」
さて、Suziさんはこんなエピソードも紹介してくれた。
「安鶴は1年落第して父のクラスに来ました。そこで父は彼と友達になったんです。 ある日彼が赤ん坊の写真をじっと見てるので父は聞いたそうです。
『ナンダイその赤ん坊?お前どこかに作っちゃったのかよ?』
『違うよ、俺、伯父さんが生まれちゃったんだよ』
『何だ、伯父さんて?』
『祖父さんがよ、女中に手出しやがってよ。子供ができちゃったんだよ。祖父さんの子じゃ、俺の伯父さんだよ。俺この子どう呼ぼうか迷ってんだよ』
『そりゃ考えるよな』と言う可笑しな話です。
これは私が父から聞いたホントの話です。」
これまで出口一雄と安藤鶴夫について述べてきたが、現在の知名度で言えば、はるかに安藤の方が上だろう。それについて、Suziさんはこう語る。
「しかし真面目に安鶴の事を私から冷静な目で視て判断すると、伯父と安鶴がいくら仲が悪かろうと、安鶴に水を開けられた理由は、安鶴の『書く力』です。そして安鶴のマメさです。
『東京新聞の富田さん(記者)だってあんなに言ってるじゃないよ。口伝して書いてこそホントの勝負だよ伯父さん』と何度も何度も本当に口酸っぱくして言いました。
『わかってるよ!でもな、そんなこと俺はどうでも良い。こき下ろす会でしゃべってりゃそれで良い』。
伯父はそういう人でした。江戸っ子の単純な世渡りです。伯父も父もそして私自身をも含めて、私達は良い意味でも悪い意味でも、江戸っ子の長所、短所を余りにも持ち過ぎています。(私は江戸っ子ではありません!駒込生まれです。そして東京郊外の育ちです)伯父は落語家に沿った商売をして、その時その時の人と人との心の通じあいがあればそれで良い。そういう人でした。年とともにそれが増して行き、酔いがまわってツーツーに腹が通うとしんみりし、ホロリとするときも多くなりました。
昔話をしていてイロイロ思い出したり懐かしい話になるとそれもホロリ、でした。
父が『兄貴も涙もろくなったなあ』とよく言っていたものです。文楽さんの亡き後は、黒門町、って言葉が出たらもう泣き、そんなでしたね。ガクーーッと来ていました。」
確かに毀誉褒貶はあるものの、直木賞作家であり現在も多くの著作が残る安藤と、一介の芸能プロダクション代表で終わった出口とでは、知名度において大きな開きがあるのは事実だ。各所で散見される言説も安藤についての方が圧倒的に多い。
しかし、Suziさんを通してその人となりを知るにつれ、私はいっそう出口一雄という人に強く惹かれるようになった。無愛想で偏屈で、でも落語が芸人が黒門町桂文楽が好きで好きで、まっすぐに彼らのために尽くした出口一雄という人がいたことを、こんなネットの片隅にだが、私は書き残しておきたいと思うのだ。
最後にもうひとつ。安藤も出口も八代目桂文楽の熱烈な支持者であったが、この二人には微妙な温度差がある。
五代目柳家小さんは、2002年に落語協会広報誌『落語の友』に掲載されたインタビューの中で、「安藤鶴夫先生はいろんな批評を書くだろ?あの先生も初めのうちはうちの師匠(四代目小さん)をね、本当に噺の神様みたいにやってた。師匠が死んじゃってから、今度は文楽師匠になって、文楽師匠も飽きちゃったら、今度は三木助…」と言っていた。
それに対し、出口は、老いていく文楽を細やかな心遣いで最期まで面倒を見た。どちらと一緒に酒が飲みたいかといえば、私は出口さんと答えるだろう。
安藤鶴夫の著作。
確かに彼の文章には「芸」があると思う。
『出口一雄と安藤鶴夫』の稿終わり。
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