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2015年10月17日土曜日

八代目橘家圓蔵師の訃報に接して

八代目橘家圓蔵さんが亡くなった。81歳だった。

月の家圓鏡で、私が子どもの時分から売れっ子だった。
大橋巨泉が司会をしていた「お笑い頭の体操」は毎週欠かさず見ていた。替え歌のコーナーで、横森良造氏のアコーディオン伴奏で、すんごい音程で歌ってた。
末広演芸会の大喜利では、円形脱毛症を隠すために毛糸の帽子を被って出演した姿を憶えている。
「エバラ焼き肉のたれ」「メガネクリンビュー」のCMも忘れ難い。

私が大学に通っていた頃は、落語の充実ぶりが凄かった。当時は落語協会分裂騒動の直後。圓鏡さんは三遊協会に参加しながらも、寄席への出演が不可能になったことから、古今亭志ん朝とともに協会へ戻った。その時、志ん朝は「これからは落語で勝負します」と語ったというが、「落語で勝負」することにしたのは志ん朝だけではなかったのだ。
寄席では必ず爆笑をとっていた。速射砲のように繰り出されるギャグに、我々は文字通り腹の皮をよじらせて笑った。「猫と金魚」「堀の内」「幇間腹」「豆屋」「寝床」…、まさにギャグのシャワーのような高座だった。

落研の技術顧問だった先代の圓蔵師匠が亡くなった時、対外発表会の代演に圓鏡さんが来てくださった。慌ただしく楽屋入りされて、「猫と金魚」で爆笑をさらった後、あっという間にお帰りになった。スターのオーラで満ち満ちていた。私の対外発表会初出演の時のことなので、忘れようにも忘れられない思い出だ。

そして、間もなく八代目橘家圓蔵を襲名する。
圓蔵襲名後は、大ネタにも果敢に挑戦した。「火焔太鼓」や「鰻の幇間」といった志ん生・文楽の十八番も、見事に圓蔵の噺になっていた。

晩年には、黒門町の思い出をよく高座で喋っていた。内弟子として常に身近にいた人が語る昭和の名人のエピソードのひとつひとつを聴くだけで、私は幸せな気持ちになれたものだ。
2011年の正月に、BSでやった「昭和なつかし亭」という番組に、圓蔵さんがゲストで呼ばれていた。司会の二代目林家三平とのからみが最高だった。三平のカンペを取り上げて、頭を引っ叩き、「こんなのアドリブでやれ」と毒づく。全盛期そのまま、70歳半ばを過ぎてこんな大暴れができることに、私はマジで感動した。

ここ数年は寄席への出演もやめ、引退状態にあった。台詞がうまく出てこなくなったから、というのが大きな原因だったという。あの回転の速さを維持するのは大変だったろうな。78歳で絶句して高座を下りた、大師匠八代目桂文楽の悲劇を、自分は繰り返したくなかったのだろう。
これで、私たちが若い頃、「四天王」といわれた人たちは全て鬼籍に入ったことになる。一つの時代が終わったんだなあ。本当に月並みな言い方だけど。

八代目橘家圓蔵師匠の御冥福を心よりお祈り申し上げます。


1979年刊『落語』の表紙を飾った、山藤章二画伯描くところの橘家圓蔵師。
(当時は月の家圓鏡)


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