東京落語界を、その時その時を代表する落語家で表現してみる。
昭和20年代から30年代にかけては、文楽・志ん生の時代。昭和40年代から50年代の半ばにかけては圓生の時代。そして、三遊亭圓生の死後、四天王の時代というのがあった。
戦後の落語黄金時代、最初に若手四天王を提唱したのは精選落語会を主宰した矢野誠一である。彼が挙げたのは、五代目春風亭柳朝、三代目古今亭志ん朝、五代目立川談志、五代目三遊亭圓楽の4人だった。
しかし、昭和50年代半ばの四天王は、少々メンバーが入れ替わる。志ん朝、談志、圓楽は変わらないが、ここに爆笑派として売れっ子だった月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)が加わるのである。
この四天王は、川戸貞吉が言い出し、山本益博あたりが賛同したのだと思う。
本格派とは言い難い圓鏡を入れることに、当時も異論がなかったわけではない。柳家小三治は、三遊亭圓窓はどうなんだ、という声はあった。しかし、元祖四天王柳朝を推す声はあまりなかったように記憶している。その頃、柳朝は、むしろ四代目三遊亭金馬や三代目三遊亭圓歌といった人たちと同列に、ベテランとして扱われていたように思う。
月の家圓鏡が入ったのは「あえて」感がある。志ん朝、談志、圓楽といった本格派3人に、あえて爆笑派圓鏡を入れることで厚みを加え、現代性今日性の色彩を濃くしたい、といった趣旨の文章を読んだ覚えがある。
近年、吉川潮の『江戸前の男』によって、柳朝が復権を果たしたせいか、現在は、柳朝・志ん朝・談志・圓楽を四天王と呼ぶ人が多い。しかし、四天王という言葉がメディアで盛んに使われていた昭和50年代半ば(それは私の大学時代と重なる)には、志ん朝・談志・圓楽・圓鏡こそが四天王だった。
だが、四天王の時代はあくまで過渡的なものであった。それはやがて、そのまま志ん朝・談志の時代に移行していく。
文楽・志ん生もそうだが、二人の対照的な天才が屹立する時代に巡り合うことが、いかに幸運であるか。私たちの世代は、まさに志ん朝と談志が丁々発止の鍔迫り合いを繰り広げるのを、リアルタイムで観ることができたのだ。
「団菊爺」という言葉がある。明治期の九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎を知る老人が、何かといえば「今の芝居はなっちゃいねえ、昔の団十郎は、菊五郎は…」と繰り返すのを揶揄したものだ。(桂文楽でさえ、「今でこそ文楽は、と言われているけど、圓生さん(五代目)が生きていたら、こんな噺聴いちゃいられねえ」と言われたそうだし、志ん生の噺を聴きながら楽屋では「三語楼じゃねえか」とか「圓右じゃねえか」と言う年寄りがいたらしい。)
でも、青春時代に出会った芸が、ずっとその人の基準になる。そして、繰り返しその芸の素晴らしさを語る。だから、語ることのできる(象徴としての)団十郎、菊五郎を持てるということは、この上なく幸福なものなのだ。
私は、文楽・志ん生をリアルタイムでは知ることができなかったが、残された音源によって彼らの落語に魅了され、「文楽・志ん生の時代」に憧れた。志ん朝・談志に至っては、青春期にリアルタイムで体験できた。これが私の原点だ。
文楽・志ん生時代の色川武大が、三遊亭圓生を二人より幾分低く感じると言っているように、やはり私の場合も、志ん朝・談志に続く人たちが、自分の中であの二人を超えることはないと思う。(それは小三治も例外ではない。)
しかし、私より若い人たちには、彼らの「志ん朝・談志」がいる。小朝、志の輔、談春、志らく、昇太、たい平、喬太郎、三三…、今の若い人にとっては彼らの芸こそ名人芸なのだろう。それでいいのだ。そうやって落語はいつの時代も人の心を掴んできたのだ。
私は「団菊爺」のように彼らを否定しないよ。ただ、「志の輔は志ん朝を超えた」とか言われると、「ちょっと違うんじゃない?」くらいは言いたくなるけどね。まあそれも爺の繰り言なんだろうけど。
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