笠間稲荷神社。東門。江戸時代に建造されたもの。
重厚で好きな建物。よく見ると、奉納額がいっぱい飾ってある。思わず足を止めて見入る。
ちょっと影に隠れて見えないけど、落語「強飯の女郎買い」に出て来る「弁松」の札がある。
見事な江戸文字。寄席文字書いていた人間には堪んないな。
花柳章太郎の名前を発見。
もしかしたら、落語関係の奉納額もあるかも、と見ていると・・・。
あった!!
ガラスが反射して見づらいけど、昔の寄席がずらりと並ぶ。
芝恵智十、人形町末廣亭、神田白梅亭、神楽坂演芸場の字が見える。
ついに、お札置き場の屋根の陰に、落語家の名前を発見!
撮りづらいよお。
ちょっと見づらいか。
ここにあった芸人の名前を列挙してみる。
春風亭柳枝、柳亭左楽、立花家橘之助、談州楼燕枝、桂小南、古今亭今輔、林家正蔵、金原亭馬生、春風亭小柳枝、柳亭芝楽、柳亭痴楽、柳亭柳昇、柳家枝太郎、文の家かしく、雀家翫之助、神田伯山、神田伯龍。
どうやら大正時代の睦会の面々らしい。
家に帰って、『古今東西 落語家事典』で調べてみた。長老たちの没年と芸名の名乗りの時期を考えると、大正7年から9年までに奉納されたものらしい。東京演芸会社の月給制に対抗して睦会が発足して間もなくの頃だろう。
では、一人一人について解説してみよう。
○春風亭柳枝・・・4代目。後、小柳枝に名前を譲り「華柳」を名乗る。睦会初代会長。昭和2年、60歳の時、ラジオに出演中卒中で倒れ急逝。その時、彼がばたっと倒れた音が放送されたという。
○柳亭左楽・・・5代目。8代目桂文楽の「人生の師」。睦会副会長。柳枝没後は自らが会長となった。抜群のリーダーシップを発揮し、「5代目」といえば左楽を指すほど。多くの人から慕われた。昭和28年、82歳で没。彼の葬儀は落語葬とされ、葬列は200メートルにも及んだという。
○立花家橘之助・・・浮世節家元。「女公方」と呼ばれた。後に3代目三遊亭圓馬となる朝寝坊むらくが、4代目橘家圓蔵を殴って東京を追われたのも、橘之助を巡る三角関係が原因だと言われている。晩年は東京を離れた。昭和10年の京都の水害で、夫の橘ノ圓とともに溺死した。享年68。
○談洲楼燕枝・・・2代目。人情噺の名手。写真を見ると、谷崎潤一郎に似たいい男である。昭和10年に67歳で亡くなった。
○桂小南・・・初代。大阪出身。8代目文楽の最初の師匠。豆電球を着物に仕込み、宙吊りになって踊る芸で満都の人気をさらった。初め三遊派にいたが借金を作って大阪に帰った(このため二つ目になったばかりの文楽は旅に出る羽目になった)。睦会発足に当たり東京に呼び戻される。その後も東京に居着いたが、晩年は不遇だった。昭和22年68歳で没。
○古今亭今輔・・・3代目。「代地の師匠」と呼ばれた。文楽が若手の頃、クイツキで「明烏」ばかり演っていたところ、「その位置で演る噺じゃない」と注意され、『按摩の炬燵』『夢の酒』『おせつ徳三郎』などを教わったという。大正13年56歳で没。
○林家正蔵・・・6代目。本名から人呼んで「今西の正蔵」。若手の時からの売れっ子で、『居残り佐平治』を売り物にした。文楽は弟子の現小満んに「今西の正蔵さんのがよくてね、20分ぐらいでやってたがね。ああ演らなければ売りものにはならないんだ。しかし、お前は『居残り』は柄ですよ」と言っていた。昭和4年42歳で死去。早逝が惜しまれる。
○金原亭馬生・・・5代目。俗に「おもちゃ屋馬生」。大阪に移っている間に、東京では後の4代目志ん生(鶴本の志ん生)が馬生を襲名していて、大正中期に彼が東京に帰って来た時には「金原亭馬生」が二人いるという珍事となった。やむなく、めくりの字の色で区別し、鶴本が「黒馬生」、「おもちゃ屋」が「赤馬生」と言われた。昭和21年83歳で没。
○春風亭小柳枝・・・後の6代目柳枝。実家がゴミ清掃業(横浜の居留地のゴミを一手に引き受けるほどの大手業者だった)を営んでいたため「ゴミ六の柳枝」と呼ばれた。天狗連出身、30歳で4代目柳枝に入門、3年で真打となった。芸の力もあったのだろうが、実家の財力がものをいったという側面もあったらしい。柳枝襲名の際は、本来5代目のところを、5代目左楽に遠慮して6代目を名乗った。昭和7年52歳で没。
○柳亭痴楽・・・後の7代目柳枝。俗に「エヘヘの柳枝」。陽気な歌い調子で人気があったが、昭和16年46歳で早世した。
○柳亭芝楽・・・後の5代目三遊亭圓橘。最初、初代圓右門下だったが、大正7年に左楽門下に移った。昭和34年75歳で没。
○柳亭柳昇・・・後の8代目朝寝坊むらく。正岡容が「耳しいて狂死せる」と書いた人である。『らくだ』において、紙屑屋がらくだの髪の毛をむしり、、願人坊主が紅蓮の炎の中のたうちまわる凄惨な演出を施した。それは8代目三笑亭可楽が、近年では立川談志が受け継いだ。昭和6年に死んだが、生年未詳のため享年も分かっていない。遺骨の引き取り手もなかったという、『らくだ』を地でいく最期だった。
○柳家枝太郎・・・4代目。初代圓右の門人。後に4代目左楽門に転じた。柳家きっての音曲師として活躍、音曲噺でトリをとることもあった実力者だった。69歳の時、昭和20年5月の空襲で孫と嫁をかばって爆死したという。
○文の家かしく・・・音曲師。『しゃっくり都々逸』で有名だったらしい。大正12年63歳で没。
○雀家翫之助・・・4代目柳枝門人。長くドサ回りをしていたが、睦会発足で呼び戻され重用されたが、昭和になると顔付けにも見えなくなった。生没年未詳。
○神田伯山・・・講釈師。「八丁あらし」と異名を取った名人。『清水の次郎長伝』が売り物。後に広沢虎造がそれを浪曲にして当たりを取った。昭和7年70歳で没。
○神田伯龍・・・講釈師。伯山門下の四天王のひとり。江戸川乱歩の明智小五郎のモデルともいわれる。8代目文楽のライバルはこの人だった、という人もいる。昭和24年59歳の時脳溢血で急逝した。
文楽・柳橋・柳好・小文治の「睦四天王」が売れ出すのは、もう少し後のことなんだろうな。
およそ100年前に思いをはせるのは楽しかったなあ。・・・あまり共感してくれる人はいないと思うけど。
0 件のコメント:
コメントを投稿