東京演芸会社に対抗して発足した睦会について、八代目桂文楽はこう語っている。
(二つ目だった文楽が、旅から帰って間もなくのことである。)
「ちょうどそのころ三遊派柳派を一つにして演芸会社ができましたが、すぐまた二つにわれまして、演芸会社は三代目小さん、円右、円蔵、小円朝、小勝、馬生(後の先代志ん生)で、睦会は左楽、今輔(先々代)、志ん生(シャモと呼ばれた先々代)、橘之助、華柳、燕枝、神田伯山、伊藤痴遊などでした。」(『あばらかべっそん』より)
顔ぶれからいって、あの笠間稲荷の奉納額は、この辺りの時代といっていいだろう。
ちなみに、当時文楽は、翁家さん馬(後の八代目桂文治)門にいて、翁家さん生を名乗っていた。馬之助を襲名して真打昇進が決まっていたが、師匠さん馬が演芸会社に鞍替えするのに反抗して、柳亭左楽のもとへ身を寄せた。
左楽は、さん生を亭号も変えず身内に迎え、翁家馬之助として真打に昇進させる。
左楽はその時の口上で、
「この馬之助はさん馬の弟子ですが、師匠とこれこれの関係ではなればなれになっておりますので、すがられたら私も男で、どうか一人前にしてやりたいとおもいますから、どうかお客さまもお引き立てください。またはじめて馬之助も真打になったんですから、おかえりをお急ぎの方はいま私がしゃべっているうちにおかえりをねがって、どうかあれが上がりましたら、わずかの時間でございますから、おひと方もお立ちになりませんように、おしまいまで聞いていてやってください。これは左楽のお願いでございます」
と言って、客席を感動させた。
後に文楽はこの睦会で「睦の四天王」の一人として大いに売り出すことになる。(睦会は演芸会社に比べ大看板が少なかった。そのため左楽は積極的に若手を売り出したのである。)
また、正岡容の文章の中に、あの奉納額のメンバーに関する記述を見つけたので、紹介してみる。出典は、河出文庫刊『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』から。
まずは柳亭柳昇。朝寝坊むらく襲名以降のものだ。一部を引用しよう。
「朝寝房むらくは柳昇である。毛筆で描いた、明治の文学冊子における、小川未明氏が肖像の如き、坊主頭のむらくは、つい先の日の柳昇である。― 私は、この人を、今の東京の噺家の中で、それも老人大家たちの中で、かなり高きに買っている。得がたき人だと思っている。
今の世の、客べら棒は、むらくが出ると『酔っぱらい』とのみ注文するし、当人も、近頃人気がなくなったせいか、たいてい『酔っぱらい』ばかりでごまかしては下りてゆくが、その『酔っぱらい』にしても!だ。あの調子っ外れで、いやにはにかみ屋で、妙にきちんと膝にのせて、諷(うた)う時決まって右手を不自然に高くあげたやぞうをこしらえて―といった段どりよろしく諷い始める、めちゃめちゃに文句の錯乱した『梅にも春』や『かっぽれ』は聞きこめばこむほどいいものである。」
お次は文の家かしく。
「震災前では、文の家かしく、あの蟹のようでワイ雑な顔で、いつもきまって十年一日しゃっくりのまじる都々逸ばかりやっていました。― 浅利、蛤やれ待て蜆、さざえのことから角を出し― というのが絶品だったといいますが、そういう文句や節廻しの記憶はなく、やはり、しゃっくりばかり。あとは、むしろ『蟹と海鼠』のとっちりとんが、あの顔にピッタリとしていて結構だったと覚えています。」
どうです?いいでしょ。大正の御世を彷彿させる。あの奉納札の人物が、生きた人間として立ち上ってくる。正岡の文章のリズムがまたいいんだよね。立川談志の文章は、多分正岡の影響を受けているんじゃないかな。
河出文庫のおかげで正岡の文章が手軽に読めるようになった。ありがたいことです。河出さん、これからも頑張ってね。
最後に笠間稲荷の絵馬殿にあった奉納額。こちらは明治時代の役者のもの。
で、こちらが絵馬殿。
江戸時代の建造物です。
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