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2016年5月30日月曜日
餃子の王将 王将ラーメンと焼き飯のセット
餃子の王将、水戸さくら道店のランチメニュー、王将ラーメンと焼き飯のセット。
消費税を入れると850円弱。
王将行って餃子食わないのもどうかと思ったけど、晩飯が餃子と予想されたので、あえてこうした。
ラーメンはちょっと少な目。醤油、塩、王将の3タイプから選べる。
王将ラーメンはとんこつ系の白濁したスープ。
まずは麺をやっつけて、焼き飯とスープで締める。
焼き飯は、卵、葱、叉焼というまさに王道。
おたまの形そのままの半球形がうれしいやね。
旨し、でござんした。
満腹になった後は、近代美術館で絵を見る。
企画展は「あした天気にな~ぁれ」。
ここはいつも凝った企画ものを出してくる。
今回は「晴れ」「曇りから雨」「小堀進の空」「雨上りの虹」という構成。
学芸員さんが心から楽しんでいる感じがいい。
中でも「小堀進の空」が圧巻でしたな。
この大胆な雲の描写を、是非見て欲しい。
2016年5月26日木曜日
正岡子規『水戸紀行』 ~土浦辺り~
先日、真鍋と土浦の間をうろついた。
ふと本棚を眺めてみて、『水戸紀行』という本があったのに気づく。筑波書林版、「ふるさと文庫」シリーズの1作で、正岡子規の水戸へ旅した紀行文と、柳生四郎土浦短期大学教授の解説が収められている。奥付を見ると1979年に初版本が出ている。
では、子規も私が歩いたあの辺りを歩いたのだな、と思って拾い読みしてみると、これがなかなか面白かった。
土浦辺りのくだりを紹介してみよう。
この紀行文を子規が書いたのは、明治22年10月17日から同20日にかけて。旅行そのものは、これに先立つことおよそ半年前、4月3日に東京を出発し、同7日に帰京している。
明治22年4月3日早朝、同じ下宿の友人一人を伴い、子規は、友人菊池謙二郎のもとを訪ねようと水戸へ出立する。当時子規は22歳(子規と漱石は共に慶応3年生まれ、翌年が明治元年だったため、明治の年数がそのまま満年齢を表している)、文科大学(東京帝国大学文学部)国文科の学生だった。
その日は藤代に宿泊。翌4日は朝から雨だった。子規たちは雨に打たれ寒さに震えながら、昼頃土浦に入った。
昼飯を食おうとしたが手頃な店がない。宿屋らしき店に入って声を掛けると体よく断られた。歩いて行くうちにとうとう町はずれまで来てしまう。やむなく目についた小さな旅籠で頼んでみると、快く飯を出してくれた。ただ飯は不味い。家も一間か二間しかなく、ひどくむさくるしい。子細に観察してみて、やがて子規はこう思い至った。
「家族は三人にて夫婦に娘一人と覚ゆ。家婦の愛嬌よくて客を丁寧にもてなす処より娘皃(かほ)のあかぬけして一通りならぬ処を思へば此家は曖昧屋と知られたり」
つまり、この家は「食事も出せば女も出す」あやしげな店だったのである。二人は這う這うの体で逃げ出す。その上、向かいの車屋で車を頼もうとしたが高値を吹っかけられ、彼らは憤然として疲れた足を引きずりながら真鍋の坂を上って行く。
この本の解説を書いた柳生氏は、子規の歩いた水戸街道を実際にたどって実地検分をしているが、土地の人の話によると、その曖昧屋は土浦から真鍋へ入るつなぎの田圃道にあり、「初音」という名前だったらしい。車屋は真鍋の坂下と「初音」の辺りと2軒あり、「初音」の方のは「金さん車屋」と呼ばれ、評判はよくなかったということだ。
子規たちは土浦で霞ヶ浦を見ることが望みだった。できれば、見晴らしのよい座敷から霞ヶ浦を眺めながら、のんびりと昼飯を食べたかった。それがこの有様だ。彼らの落胆はいかばかりだったか。
しかし、真鍋の坂を上って行くと左手に絶壁があり、石段が続いている。あそこを登れば霞ヶ浦が見えるに違いないと思い寄ってみると、果たしてそこは数百坪に及ぶ公園で、茶屋には「總宜園」という額が掲げてあった。
この断崖に立って南の方を見やると、雨に煙って広い湖が見えた。子規はやっと念願の霞ヶ浦を見ることができたのである。
子規はここで「霞ながら春雨ふるや湖の上」という句を詠んだ。
ご難続きの土浦だったが、最後に見ることのできた霞ヶ浦は、子規に静かな感動を与えてくれたのだと信じたい。
この公園は今はない。国道6号線を通す工事で切り崩され、公園そのものが消失してしまったという。
この後子規は北上して石岡で1泊し、水戸へ向かった。
この土浦の場面に象徴されるように、東京から水戸へ、ほとんどを行き当たりばったり徒歩で行くという無茶な旅を子規は続けた。この旅は彼の身体を蝕む。水戸紀行の旅から帰ると間もなく、子規は喀血し結核と診断される。この喀血の後、「鳴いて血を吐くほととぎす」から、彼は筆名を子規と定めた。つまり、この『水戸紀行』が、子規名義で書かれた、まさに初期の文章であったのだ。
今度は『水戸紀行』片手に石岡の街を歩いてみよう。その時は、またこのブログで紹介したい。
ふと本棚を眺めてみて、『水戸紀行』という本があったのに気づく。筑波書林版、「ふるさと文庫」シリーズの1作で、正岡子規の水戸へ旅した紀行文と、柳生四郎土浦短期大学教授の解説が収められている。奥付を見ると1979年に初版本が出ている。
では、子規も私が歩いたあの辺りを歩いたのだな、と思って拾い読みしてみると、これがなかなか面白かった。
土浦辺りのくだりを紹介してみよう。
この紀行文を子規が書いたのは、明治22年10月17日から同20日にかけて。旅行そのものは、これに先立つことおよそ半年前、4月3日に東京を出発し、同7日に帰京している。
明治22年4月3日早朝、同じ下宿の友人一人を伴い、子規は、友人菊池謙二郎のもとを訪ねようと水戸へ出立する。当時子規は22歳(子規と漱石は共に慶応3年生まれ、翌年が明治元年だったため、明治の年数がそのまま満年齢を表している)、文科大学(東京帝国大学文学部)国文科の学生だった。
その日は藤代に宿泊。翌4日は朝から雨だった。子規たちは雨に打たれ寒さに震えながら、昼頃土浦に入った。
昼飯を食おうとしたが手頃な店がない。宿屋らしき店に入って声を掛けると体よく断られた。歩いて行くうちにとうとう町はずれまで来てしまう。やむなく目についた小さな旅籠で頼んでみると、快く飯を出してくれた。ただ飯は不味い。家も一間か二間しかなく、ひどくむさくるしい。子細に観察してみて、やがて子規はこう思い至った。
「家族は三人にて夫婦に娘一人と覚ゆ。家婦の愛嬌よくて客を丁寧にもてなす処より娘皃(かほ)のあかぬけして一通りならぬ処を思へば此家は曖昧屋と知られたり」
つまり、この家は「食事も出せば女も出す」あやしげな店だったのである。二人は這う這うの体で逃げ出す。その上、向かいの車屋で車を頼もうとしたが高値を吹っかけられ、彼らは憤然として疲れた足を引きずりながら真鍋の坂を上って行く。
この本の解説を書いた柳生氏は、子規の歩いた水戸街道を実際にたどって実地検分をしているが、土地の人の話によると、その曖昧屋は土浦から真鍋へ入るつなぎの田圃道にあり、「初音」という名前だったらしい。車屋は真鍋の坂下と「初音」の辺りと2軒あり、「初音」の方のは「金さん車屋」と呼ばれ、評判はよくなかったということだ。
子規たちは土浦で霞ヶ浦を見ることが望みだった。できれば、見晴らしのよい座敷から霞ヶ浦を眺めながら、のんびりと昼飯を食べたかった。それがこの有様だ。彼らの落胆はいかばかりだったか。
しかし、真鍋の坂を上って行くと左手に絶壁があり、石段が続いている。あそこを登れば霞ヶ浦が見えるに違いないと思い寄ってみると、果たしてそこは数百坪に及ぶ公園で、茶屋には「總宜園」という額が掲げてあった。
この断崖に立って南の方を見やると、雨に煙って広い湖が見えた。子規はやっと念願の霞ヶ浦を見ることができたのである。
子規はここで「霞ながら春雨ふるや湖の上」という句を詠んだ。
ご難続きの土浦だったが、最後に見ることのできた霞ヶ浦は、子規に静かな感動を与えてくれたのだと信じたい。
この公園は今はない。国道6号線を通す工事で切り崩され、公園そのものが消失してしまったという。
この後子規は北上して石岡で1泊し、水戸へ向かった。
この土浦の場面に象徴されるように、東京から水戸へ、ほとんどを行き当たりばったり徒歩で行くという無茶な旅を子規は続けた。この旅は彼の身体を蝕む。水戸紀行の旅から帰ると間もなく、子規は喀血し結核と診断される。この喀血の後、「鳴いて血を吐くほととぎす」から、彼は筆名を子規と定めた。つまり、この『水戸紀行』が、子規名義で書かれた、まさに初期の文章であったのだ。
今度は『水戸紀行』片手に石岡の街を歩いてみよう。その時は、またこのブログで紹介したい。
雨の真鍋宿。こちらは2014年の初冬。
2016年5月24日火曜日
土浦 旧水戸街道を歩く
先日、旧水戸街道を、土浦の真鍋宿から中城町まで歩いた。
しぶい町並みが続くので、好きなコースである。
初夏の爽やかな日差しを浴びてのお散歩。少々暑かったけど、いい気持ちでした。
真鍋といえば、どうしてもここは撮ってしまう。旧藤本蚕業支店。
真鍋の坂。宿場町の面影を残す。
どうしても、ここも撮ってしまう。
マスターはスタンダールのファンなのか、岩崎良美のファンなのか、どっちだろうね。
関東鉄道筑波線の線路跡は、サイクリングコースになっている。
ここは新真鍋という駅があった所。
この畳屋さんは現役です。
月読神社。
商売繁盛、無病息災にご利益あり。
のぼりには「ピンピンコロリ」と書いてありました。
「北門跡」の石碑がある。
立派な看板建築。
中城通り入り口のほたて食堂。
この後、旧6号沿いのコメダ珈琲で一休み。
無料のモーニングセットが嬉しい。
2016年5月22日日曜日
吾妻庵総本店 大もり
長男と土浦へ行く。
昼食は、中城通りの吾妻庵総本店。大もり、900円。
細くて腰の強い蕎麦を、辛目のつゆにちょっとつけて威勢よく啜り込む。旨いなあ、老舗の味だ。
座敷では、じいさん二人が、ビールとぬる燗で酒盛りを始めた。
ゆったりとした時間が、ここでは流れている。
息子はざる、800円也。
盛りがいいねえ。
ほんとはここでとろとろ飲みたいところだが、車で来ているからね、ささっとやっつけて蕎麦湯を貰う。いい時間を過ごさせていただきました。
何度も載せているが、吾妻庵総本店の店構え。この空間で、この蕎麦を味わうところに価値があるのだ。
2016年5月21日土曜日
柳家喜多八を悼む
今朝、新聞を読んでいたら、柳家喜多八の訃報が出ていた。
思わず目を疑った。まだそんな齢じゃないだろう、ととっさに思った。
寄席に行く時、私にとって「この人が出てるから行ってみようかな」と思わせる中に、必ず入っているうちの一人だった。
短く髪を刈りこんだ職人風の雰囲気の人が多い柳家にあって、喜多八の髪をなでつけた細面の風貌は、どちらかというと三遊亭に近い。明治の四代目圓生を思わせる。
ダルな感じを売り物にしていた。気怠そうに高座に現れ、「虚弱体質ですぐ疲れちゃう」とかなんとか言いながら枕を振りつつ、噺に入ると、きびきびした熱演で客を惹きつけた。得意なのは柳家のお家芸、滑稽噺。『だくだく』『いかけや』『味噌蔵』『小言念仏』などが心に残る。
シャイだったのだろう、ぐいぐいくる押し出しの強さはなかった。どこか斜に構えた感じがあった。
私が近年接した高座では、「落語に飽きちゃったんだよね」と言いながら、浪曲の『清水の次郎長伝』から『石松の代参』のくだりを落語に仕立てたネタを演じていた。私としては、直球の落語で勝負して欲しかったな。そして渋いベテランのポジションではなく、真ん中に出てきて欲しかった。それだけの力はあったのだ。
66歳か、落語家として最もいい時期なのに・・・。本人がいちばん口惜しいだろう。
柳家喜多八師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
思わず目を疑った。まだそんな齢じゃないだろう、ととっさに思った。
寄席に行く時、私にとって「この人が出てるから行ってみようかな」と思わせる中に、必ず入っているうちの一人だった。
短く髪を刈りこんだ職人風の雰囲気の人が多い柳家にあって、喜多八の髪をなでつけた細面の風貌は、どちらかというと三遊亭に近い。明治の四代目圓生を思わせる。
ダルな感じを売り物にしていた。気怠そうに高座に現れ、「虚弱体質ですぐ疲れちゃう」とかなんとか言いながら枕を振りつつ、噺に入ると、きびきびした熱演で客を惹きつけた。得意なのは柳家のお家芸、滑稽噺。『だくだく』『いかけや』『味噌蔵』『小言念仏』などが心に残る。
シャイだったのだろう、ぐいぐいくる押し出しの強さはなかった。どこか斜に構えた感じがあった。
私が近年接した高座では、「落語に飽きちゃったんだよね」と言いながら、浪曲の『清水の次郎長伝』から『石松の代参』のくだりを落語に仕立てたネタを演じていた。私としては、直球の落語で勝負して欲しかったな。そして渋いベテランのポジションではなく、真ん中に出てきて欲しかった。それだけの力はあったのだ。
66歳か、落語家として最もいい時期なのに・・・。本人がいちばん口惜しいだろう。
柳家喜多八師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2016年5月17日火曜日
鰹の刺身
「目には青葉山ほととぎす初鰹」
この時期になりますと、鰹の刺身のことを話さずにおられませんな。
ある時、飲み仲間に「いちばん好きな酒のつまみは何か」と訊かれた時、さんざ悩みながら、それでも絞り出したのは、鰹の刺身か湯豆腐だった。
「いちばん」となると難しいよな。まあ寒けりゃ湯豆腐、この時期なら鰹の刺身ということだ。
まずは冷たいビールをきゅーっとやって、おもむろに醤油ににんにくを溶かし、皮付きのところをぺろっといく。そうなると、お次は純米酒の冷や(常温でいい)だね。鼻腔に立ち上る米の香りとすっとした咽喉ごしを楽しもう。箸休めにそら豆とか谷中生姜があると、もう文句はない。
我ら茨城県民は鰹の刺身が大好き。田植えだ、親戚が来た、息子の運動会だ、なんて何かっつーとこいつを食べる。しかもカスミだとかタイヨーだとか、その辺のスーパーのものが、かなりのクオリティーなんだな。大学時代の友人、飛騨高山のT君は、独身の頃うちに遊びに来て、スーパー山内の鰹の刺身を食べて、「これがスーパーの刺身か」と感動しておった。
初鰹から戻り鰹まで、こっから先、秋口まで鰹が楽しめる。これが私の人生において、大きな喜びのひとつになっている。もちろん刺身を毎日食うほど金持ちじゃない。いいんだ、何かあって、ご褒美やお祝いに、ここぞの鰹が食えればいいの。むしろその方が旨いと思うんだよね。
2016年5月15日日曜日
続ご先祖様
以前、我が家のご先祖様の話をした。明治の頃、この地にやって来て、裁縫所をやりながら田地田畑を買い、この家の基礎を築いた女傑のおばあさんの話である。
その続きを話してみたい。 女傑のおばあさんには子どもがなかった。そこで、隣の集落から養子をもらった。それが私の祖父にあたる。祖父は近くの村から嫁を貰い、3人の子に恵まれた。
いちばん上の女の子は長じて東電の技師のもとに嫁いだ。2番目はやはり女の子で、この人は16か17で早世した。そして3番目に待望の跡取り息子が生まれた。
昭和の初めごろ、この3人の子の母親が亡くなる。祖父は後妻を貰った。後妻は、霞ヶ浦の対岸の村に生まれ、結婚して浅草に出たが、その結婚に失敗し郷里に帰って来ていた人だった。この人が私にとっての祖母である。
跡取り息子(私にとっては伯父に当たるので以後伯父と呼ぶ)は温厚な好青年に育っていた。しかし、その頃日本は、中国とのいつ果てるとも知らぬ泥沼のような戦争を続けていた。昭和16年12月8日には欧米を相手に宣戦を布告、世界を相手に無謀な戦いを始めるに至る。
伯父に召集令状が届いたのは昭和17年の暮であった。ただちに水戸東部連隊に入隊。翌年には陸軍歩兵としてビルマ(現ミャンマー)に送られた。以後、伯父はビルマ派遣軍森隊の一員として、ビルマ各地を転戦することになった。
平時であれば、初代のおばあさんが買い集めた田地田畑を親子で耕し、いずれどこかから気立てのいい花嫁を貰って、この家を引き継いでいったのだろうと思う。
ところが彼を待っていたのは、38式歩兵銃を担ぎ、故郷から遠く離れたビルマの密林を歩き廻る日々だった。ビルマでは過酷な戦いが続いていた。特に昭和19年のインパール作戦は、補給を無視した無謀な作戦だったため、多くの兵が飢餓と病気によって無残に死んだ。その退却路は「白骨街道」と呼ばれるほどであった。(この作戦では7万人を超える兵士が死んだと言われている。)
伯父はこの戦地で2年以上も生き延びたが、昭和20年7月20日、ついに戦死した。26歳であった。墓石に刻まれた文章を読むと、戦死した場所はビルマ国トングー県ベネコン東北部とある。調べてみると、この日トングーでは「シッタン川渡河作戦」という戦闘があり、多くの兵士が雨季で増水した川で溺死している。この年、ビルマは4月に雨季に入り、豪雨と洪水に日本軍は悩まされていた。私が小さい頃聞いた話では、泥水に浸かりながらの行軍中、隊列に将棋倒しが起きて、伯父はそれに巻き込まれてしまったということであった。
いずれにしても伯父はビルマの雨季の泥水の中に沈んだ。遺骨はおろか遺品もなく、祖父母は家に届いた戦死通知を墓に埋めた。
跡取り息子を亡くした祖父は、生家から養子を迎える。それが私の父である。我が家は2代養子で繋いで、やっと家系を存続させた。
15年以上前、妻とマレーシアのペナン島に旅行したことがある。
ホテルのプールのデッキチェアに座り、マラッカ海峡を眺めながら、私は伯父のことを考えていた。
田舎の農家の跡取り息子は、なぜマラッカ海峡を越え、遠くビルマまで行って死ななければならなかったのだろう。戒名に「温厚院」と付けられるほど温和な人が、なぜ38式歩兵銃を担がされ、殺し合いの場に放り込まれなければならなかったのだろう。そして、私と伯父は同じ海を前にして、なぜこうも違うのだろう。
そういう時代だった、と言われればそれまでだ。日本全国こんな話はどこにでも転がっていよう。でも、あの戦いで死んだ一人一人にはかけがえのない人生があり、彼らを愛する者にとって彼らはかけがえのない一人一人だった。その自覚を、当時の戦争指導者が持っていたようには思えない。そうでなければ、あんなに人の命を軽々しく扱うような作戦や戦闘が行われるはずがない。(戦争とはそんなもんだと言われれば、やはりそれまでだが。)
しかし私たちの国は、それを痛切に悔やんだ。悔やんだからこそ、その反省に立って今がある。それを私たちは今一度肝に銘じるべきだと思う。
その続きを話してみたい。 女傑のおばあさんには子どもがなかった。そこで、隣の集落から養子をもらった。それが私の祖父にあたる。祖父は近くの村から嫁を貰い、3人の子に恵まれた。
いちばん上の女の子は長じて東電の技師のもとに嫁いだ。2番目はやはり女の子で、この人は16か17で早世した。そして3番目に待望の跡取り息子が生まれた。
昭和の初めごろ、この3人の子の母親が亡くなる。祖父は後妻を貰った。後妻は、霞ヶ浦の対岸の村に生まれ、結婚して浅草に出たが、その結婚に失敗し郷里に帰って来ていた人だった。この人が私にとっての祖母である。
跡取り息子(私にとっては伯父に当たるので以後伯父と呼ぶ)は温厚な好青年に育っていた。しかし、その頃日本は、中国とのいつ果てるとも知らぬ泥沼のような戦争を続けていた。昭和16年12月8日には欧米を相手に宣戦を布告、世界を相手に無謀な戦いを始めるに至る。
伯父に召集令状が届いたのは昭和17年の暮であった。ただちに水戸東部連隊に入隊。翌年には陸軍歩兵としてビルマ(現ミャンマー)に送られた。以後、伯父はビルマ派遣軍森隊の一員として、ビルマ各地を転戦することになった。
平時であれば、初代のおばあさんが買い集めた田地田畑を親子で耕し、いずれどこかから気立てのいい花嫁を貰って、この家を引き継いでいったのだろうと思う。
ところが彼を待っていたのは、38式歩兵銃を担ぎ、故郷から遠く離れたビルマの密林を歩き廻る日々だった。ビルマでは過酷な戦いが続いていた。特に昭和19年のインパール作戦は、補給を無視した無謀な作戦だったため、多くの兵が飢餓と病気によって無残に死んだ。その退却路は「白骨街道」と呼ばれるほどであった。(この作戦では7万人を超える兵士が死んだと言われている。)
伯父はこの戦地で2年以上も生き延びたが、昭和20年7月20日、ついに戦死した。26歳であった。墓石に刻まれた文章を読むと、戦死した場所はビルマ国トングー県ベネコン東北部とある。調べてみると、この日トングーでは「シッタン川渡河作戦」という戦闘があり、多くの兵士が雨季で増水した川で溺死している。この年、ビルマは4月に雨季に入り、豪雨と洪水に日本軍は悩まされていた。私が小さい頃聞いた話では、泥水に浸かりながらの行軍中、隊列に将棋倒しが起きて、伯父はそれに巻き込まれてしまったということであった。
いずれにしても伯父はビルマの雨季の泥水の中に沈んだ。遺骨はおろか遺品もなく、祖父母は家に届いた戦死通知を墓に埋めた。
跡取り息子を亡くした祖父は、生家から養子を迎える。それが私の父である。我が家は2代養子で繋いで、やっと家系を存続させた。
15年以上前、妻とマレーシアのペナン島に旅行したことがある。
ホテルのプールのデッキチェアに座り、マラッカ海峡を眺めながら、私は伯父のことを考えていた。
田舎の農家の跡取り息子は、なぜマラッカ海峡を越え、遠くビルマまで行って死ななければならなかったのだろう。戒名に「温厚院」と付けられるほど温和な人が、なぜ38式歩兵銃を担がされ、殺し合いの場に放り込まれなければならなかったのだろう。そして、私と伯父は同じ海を前にして、なぜこうも違うのだろう。
そういう時代だった、と言われればそれまでだ。日本全国こんな話はどこにでも転がっていよう。でも、あの戦いで死んだ一人一人にはかけがえのない人生があり、彼らを愛する者にとって彼らはかけがえのない一人一人だった。その自覚を、当時の戦争指導者が持っていたようには思えない。そうでなければ、あんなに人の命を軽々しく扱うような作戦や戦闘が行われるはずがない。(戦争とはそんなもんだと言われれば、やはりそれまでだが。)
しかし私たちの国は、それを痛切に悔やんだ。悔やんだからこそ、その反省に立って今がある。それを私たちは今一度肝に銘じるべきだと思う。
2016年5月10日火曜日
2016年5月8日日曜日
初夏の土浦散歩
毎年、母の日には母の好きな鰻を食べることにしている。
妻と次男は子ども会の行事でお出かけ。そこで、長男を連れて土浦に鰻を買いに行く。
まずは駅前通りの小松屋で、並6人前の蒲焼を注文。1時ごろ取りに来ることにして、それまで土浦をぶらぶらすることにする。
取りあえず、駅ビルに行く。ここには息子お気に入りの鉄道グッズを売っているポポンデッタがある。
本屋やらポポンデッタやらを見て、息子はお母さんとばあちゃんにプレゼントを買うのだと言い、婦人服売り場でハンカチを2枚買った。
土浦の駅や街中は、まだ至る所に鯉のぼりが下がっている。
駅ビルを出て亀城公園に向かう。
途中、しぶい家並みをカメラに収める。
亀城公園は目も痛いほどの新緑で覆われていた。
昼食は亀屋。
私は五目そば、息子はオムライスを食べる。
またぶらぶら駅前に戻り、高月堂で妻にケーキを買い、鰻を受け取って帰った。
初夏の日差しを浴びての土浦散歩。ちょっと暑かったけど、いい気持ちでした。
妻と次男は子ども会の行事でお出かけ。そこで、長男を連れて土浦に鰻を買いに行く。
まずは駅前通りの小松屋で、並6人前の蒲焼を注文。1時ごろ取りに来ることにして、それまで土浦をぶらぶらすることにする。
取りあえず、駅ビルに行く。ここには息子お気に入りの鉄道グッズを売っているポポンデッタがある。
本屋やらポポンデッタやらを見て、息子はお母さんとばあちゃんにプレゼントを買うのだと言い、婦人服売り場でハンカチを2枚買った。
土浦の駅や街中は、まだ至る所に鯉のぼりが下がっている。
駅ビルを出て亀城公園に向かう。
途中、しぶい家並みをカメラに収める。
亀城公園は目も痛いほどの新緑で覆われていた。
昼食は亀屋。
私は五目そば、息子はオムライスを食べる。
またぶらぶら駅前に戻り、高月堂で妻にケーキを買い、鰻を受け取って帰った。
初夏の日差しを浴びての土浦散歩。ちょっと暑かったけど、いい気持ちでした。
2016年5月6日金曜日
チェリー食堂、紅鮭チャーハン
那珂湊、チェリー食堂。大正12年創業。以来90年もの間、この地で愛されてきた店。洋食から、そば・うどん、中華までカバーする、正しい大衆食堂である。
「当店オリジナルメニュー」の中で、燦然と輝く950円、紅鮭チャーハンを注文する。ややしっとり系だな。チャーハン好きの息子に味見させたら「GOOD!」のことでした。
息子はチーズハンバーグライス、930円也を食べた。ボリューム満点、ちょっと食べさせてもらったが旨かったよ。
アップがこちら。青のり、紅ショウガがうれしいね。
店内は昭和の香りがぷんぷんする。
おばちゃんがトマトの小皿をサービスしてくれた。
次回は焼きそばか、ポークソテーに挑戦してみたい。オムハヤシなんかもいいなあ。
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