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2016年11月10日木曜日

圓朝襲名にまつわるエトセトラ

三遊亭圓朝といえば、『真景累ヶ淵』、『怪談牡丹灯籠』などの作者として明治文壇の言文一致運動に大きな影響を与えた唯一無比の名人、本名出淵次郎吉その人である、ということに異論を持つ人はあるまい。

 しかし、多くの落語ファンは、一方で二代目圓朝が存在したことを知っている。 二代目圓朝を襲名したのは、初代三遊亭圓右。初め二代目三遊亭圓橘に入門したが、後に師ともども圓朝門に入った。「いずれ圓朝の右腕に」という期待をかけられ「圓右」の名を貰う。圓朝死後は、明治末期に四代目橘家圓喬とともに、大正年間には三代目柳家小さんとともに名人と並び称せられた。大正13年、圓朝の名前を預かっていた藤浦周吉から二代目圓朝襲名を許される。しかし、圓右は軽井沢で引いた風邪をこじらせ肺炎を引き起こしてしまう。同年10月24日、病床で襲名の披露目をしたものの、一度も圓朝の名で高座に上がることなく、11月2日に死んだ。したがって彼を「二代目圓朝」と言う者はいない。
ちなみに五代目古今亭志ん生は、師初代柳家三語楼とともにこの初代圓右の芸を参考にして売り出した。皮肉な古老は、楽屋で志ん生の噺を聴きながら「三語楼じゃねえか」とか「圓右じゃねえか」とか言っていという。
「咳をしても一人」で知られる尾崎放哉に、「糸瓜が笑つたやうな圓右が死んだか」という句がある。
放哉は、東京帝大法学部を出て生命保険会社の要職に就いた、いわばエリートだ。ところが大正12年、突如職も学歴も妻も捨て去り、京都一燈園という宗教団体に入る。そして寺を転々としながら寺男として働き、その傍ら自由律の俳句を詠んだ。
圓右が死んだ頃には神戸市の須磨寺にいた。遠く神戸の、俗世を離れた寺にまで「圓右死す」のニュースは届いたらしい。
初代圓右はそれ程の名人だった。

その後、圓朝を継ぐに値する者は出ず、「三遊亭圓朝」という名跡は落語界の最高峰として冒すべからざる存在として、今も君臨している。
・・・というのが定説だが、どうやらその実色々あったらしい。
圓朝の名を預かっている藤浦家では、圓朝の名を塩漬けにするつもりはなかった。その名にふさわしい者が出てくれば、継がせるつもりだった。
藤浦周吉の孫、藤浦敦が書いた『三遊亭円朝の遺言』(新人物往来社:1996年刊)の中で、彼は五代目柳家小さんとの対談でこう語る。
「でぶの円生(五代目、六代目三遊亭圓生の養父)はあんまりうまいんで、私の家(落語三遊派宗家)で二代目の円朝を継がせようとしたくらいなんですが、果たさぬうちに早死しました。」
また、六代目圓生についても「余談だが、最晩年に円生は円朝を襲名したいという妄想を抱いて私に頼みに来た。」と言っている。
五代目、六代目と圓生が二代にわたって「圓朝襲名」を視野に入れていたとは興味深い。
しかし、圓生という名前は三遊亭では最高峰の名前である。圓朝が二代目圓生の弟子であり、「エンチョウ」が「エンショウ」の音に似せた名前であることからも、この襲名は筋目がよくない。「圓生→圓朝」の流れが出来上がると、ちょっとおかしな状況になってしまうだろう。
やはり圓生は三遊亭の「てっぺんの名前」でいた方がいい。

近年、春風亭小朝の圓朝襲名がまことしやかに囁かれたことがある。現在はとんと聞かないが、藤浦敦自身、小朝のことは買っている。前述の『三遊亭円朝の遺言』では、立川談志、五代目小さんと並ぶ対談の相手、しかも3つある対談のトリを飾るのが小朝なのだ。可能性としてなくはない。
小朝ももう60歳を超えた。随分前に出したCD(圓朝作『怪談牡丹灯籠、お札はがし』)では、何か名跡襲名の可能性をほのめかしていたが、このまま「小朝」で全うするつもりなんだろうか。襲名するとすれば、この辺りが最後のチャンスだろう。
しかし圓朝はどうか。確かに系譜をたどれば、五代目春風亭柳朝→八代目林家正蔵→四代目橘家圓蔵→四代目三遊亭圓生→三遊亭圓朝、と圓朝に行き着かないわけではない。八代目正蔵が教えを受けた三遊一朝は圓朝の直弟子でもある。ただ、正蔵は最後には三代目柳家小さんの弟子になり、自らの住まいも「小心居」と名乗るほど小さんに傾倒した。後に四代目小さんの身内となって、四代目の前名である蝶花楼馬楽を襲名。四代目の死後は五代目と小さん争奪戦を繰り広げた。芸は三遊派だが柳派にあまりにも近い。そもそも小朝の春風亭も柳派の亭号だ。そこから三遊亭の象徴的な名跡である圓朝を継ぐのはいささか強引ではないか。

圓朝は出淵次郎吉が一代で大きくした名前だし、あまりにも大きくなり過ぎた。やはり永久欠番としておいた方が自然だろう。
それよりも各亭号の「てっぺんの名前」、三遊亭圓生とか古今亭志ん生、春風亭柳枝なんていうところを塩漬けにせず、きちんと継承させていくべきだと、私は思うのだが。

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いつも楽しく拝読しております。ワタシも貴兄とほぼ同じ時代にTK大落研に在籍し、渉外で貴会の公演にたびたびお邪魔しておりました。当時は07円蔵師が「補導出演」と称しておられ、師の本牧亭の独演会にも落研サンがお手伝いに駆り出されておりました。質問コーナーで師に「文楽は小満んさんが継ぐんですか?」なんて質問する方がいて、客席が何とも言えない雰囲気になったのを良く憶えております。
円生の名跡は昨今醜い不毛な争いになり、結局「自然鎮火」しましてこの後も無理でしょう。芸をこれだけ多くのメディアで記録されていては、意識するなと言われてもダメですね、演者も客も。円朝の名跡は仰せの通り「今更」であります。あの小朝の光り輝いていた時代をつぶさに見ていたワタシ達からすれば、今の高座は何とも歯がゆい!! 本牧での独演会のあの人気・力量、まさに「上り坂」ってああいうものだな~って感じたものでした。今は40ソコソコに多くの、楽しませてくれる方々がおります。三三・一之輔・文蔵・白酒他・・・。
ワタシは現在も25000枚のMDを所持して「この先どうしよう」であります。聴くのはほとんどが講談で、もう一生分聴いた!?落語から吹っ切れつつあります。楽しい想い出話を又読ませて下さい。

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。
円蔵師匠の会にもいらしたんですか。師匠は私が2年の時亡くなりました。独演会は1回しかお手伝いしておりません。その時師匠が演ったのは『藁人形』。これが最後の独演会だったそうです。当時は月の家靖鏡さんが「かがみ」という名前で前座を務めていました。
近年は若い勢いのある人たちが出てきて、寄席も活気があります。文蔵もいいし、もちろん三三・白酒・菊之丞・一之輔なんてところも好きです。考えてみれば、学生時代熱心に聴いた、志ん朝・談志・小三治といった人たちも当時は40代。今の若い人たちにとっては彼らが「俺たちの名人」になっていくんでしょうね。
これからも好き勝手なことを書いていくと思いますが、何かありましたらご指摘いただけると幸いです。
私より先輩とお見受けします。今後ともご鞭撻の程、よろしくお願いいたします。

densuke さんのコメント...

訂正。
月の家靖鏡×→○橘家半蔵。
靖鏡は二つ目の時の名前でした。
1990年、真打昇進の際、初代橘家半蔵を襲名されております。
失礼しました。

東志郎 さんのコメント...

07円蔵師の独演会は3度行ってますが、覚書を見ますと随分色々掛けてます。いずれも三席で本牧亭、ネタは 蒟蒻問答 六郷の煙草 国訛り 穴泥 袈裟御前 明烏 幇間腹 お富与三郎大宮の殺し ・・・・。与三郎のこの部分は珍しく、質問コーナーでドナタのネタかお聞きしましたら「先代伯龍の速記」との事、貴兄の先輩達が一番前に座らされて聴いてましたがみんな居眠りしてました・・・・。幇間腹 は陰々滅々とした幇間が登場、コレが愚痴っぽい。師が名古屋で実際に営業していたそうですが、さぞや売れない芸人であったろうと可笑しくなりました。ワタシは馬の助・つばめに間に合わず柳橋・今輔に間に合った年代です。あの頃聴いた講座は今でも思い出せますね、あの記憶力が今あればな~。
今年春に家族旅行で、そして秋に落研同期会10人でいずれも大洗~ひたちなか公園に行って参りました。貴兄の大洗紀行はとても参考になりました。感謝致します。出口氏の事はとても興味深く拝読させて戴きました。
又書き込みさせて下さい、お邪魔にならない程度に・・・・・。 

densuke さんのコメント...

茨城にもお出で下さいましたか。ありがとうございます。
都道府県魅力度ランキングで最下位がウリの我が県ですが、地味にいい所がけっこうあります。
また是非お出掛けくださいませ。
師匠の会のお話、目に浮かぶようです。
師匠は最後の独演会でも、『稲川』『猿後家』『藁人形』と3本のネタをかけています。78歳という高齢で大変だったと思います。「独演会は3本以上」という昔からの不文律を律儀にお守りになっていたのでしょう。
確かに師匠の大ネタは、ちょっとつらい所がありますね。
今思えば、師匠には屈折した面白さがありました。タダモノではない雰囲気があったような気がします。やはり貴重な芸人の一人だったと思います。
こうして落語の話ができるのは楽しいです。ご贔屓の程、よろしくお願いいたします。