旧美野里町役場、小美玉市役所がある辺りである。
まずは国道6号線を渡り、貴布禰神社にお参り。
京都の貴船神社が本社だが、なかなかに立派な佇まい。
息子の合格を祈る。(この時期は色んな神様にお祈りしたのよ)
歩道橋からの眺め。
お参りを済ませ、もう一度国道を渡り、旧道を歩く。
旧美野里町は、竹原村と堅倉村が合併してできた町。どちらも旧水戸街道の宿場があった。
元は宿屋とおぼしき建物。
ここと同じ屋号のビジネスホテルが国道の向かい奥にある。
この建物も、漆喰の看板を見ると宿屋っぽいなあ。
吉村昭の『天狗争乱』の中には、田中愿蔵(たなか・げんぞう)隊が土浦真鍋宿を焼打ちした後、森沖新田や中貫の村を焼きながら北上、府中に宿陣した翌日、竹原宿の伊勢屋に投宿したという記述がある。
隊長の田中は当時21歳。隊員には、同じ思想の下では平等であると言って、身分の象徴である髷を切らせた。隊には血気盛んな若者が多く、軍用金の徴収も強引で、「ザンギリ組」と呼ばれて恐れられた。真鍋宿焼打ちに先立ち、栃木町では町民を殺害した上、400戸を焼き尽くした。(消火にあたった者も容赦なく斬り捨てたという。)
やがて田中隊は本隊から除名され、那珂湊の戦いの後、独自の道を行くことになった。助川陣屋で追討軍に敗れ、八溝山中に逃れるも進退窮まって解散。田中は、とある山小屋に潜んでいたのを通報され、捕えられて処刑された。彼の首は水戸に送られ晒された。
天狗党は、後に武田耕雲斎を総大将にして京都へ向かい行軍している時には厳しい軍律で知られ敬意も払われていたが、挙兵当時は田中隊のような振る舞いをする者が少なからずいた。偽天狗党も跋扈し金品略奪があちこちで行われ、民衆の天狗党に対する恐怖と怨嗟が広がっていったという。
この堅倉宿でも、そんな歴史の一コマがあったのだなあ。碑文を読みながら、しばし感慨にふける。
いつもは車で通り過ぎるだけの所だが、歩いてみると色々面白い。
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