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2017年8月31日木曜日

夏の思い出

子どもたちの夏休みも今日で終わり。
では行く夏を惜しんで。

前山の山百合。

庭の百日紅。

その向こうに前山の山百合。

牛久のかっぱ祭り。


テレビで隅田川の花火大会を見る。

塩屋崎灯台。

防潮堤の工事か。

鹿島神宮参道。

鹿島神宮楼門。

今年の夏は、8月に入ってずっと雨が降っていたし、猛暑も例年ほどじゃなかったね。
それはそれでいいのだが、先日、泊まりの宴会の時、寝苦しくてエアコンかけたまま寝てしまい、夏風邪を引いてしまった。ここんとこ肌寒いし、治りが遅い。年取ったんだなあ。

2017年8月30日水曜日

楼外楼 麻婆麺

この間、長男とつくばの楼外楼でランチを食べる。
長男はまたもや中華麺。
私は麻婆麺にする。好きなんだよね、麻婆麺。
半炒飯を付けて二人で食べる。

では私が食べた麻婆麺です。

麻婆麺、単品で800円。
半炒飯を付けて900円です。

ぴりっとくるけど辛さはそれほどでもない。

デザートに杏仁豆腐。
他にサラダバー、コーヒー、麻婆豆腐(または焼きそば)も付く。

炒飯は長男の大好物だ。
本格中華の味。旨し。

食べ終わった頃、別の用事で出かけていた妻と次男も合流。
次男はお兄ちゃんと同じ中華麺、妻は好物の五目焼きそばを食べました。
私もコーヒー飲んだりして、久々にゆっくり食事を楽しんだよ。

2017年8月29日火曜日

北浦右岸を行く

先日、鹿嶋で飲み会があった時、北浦右岸(西側)を堤防沿いに行ってみた。
鉾田から潮来の神宮橋まで、約1時間かかった。
右岸は入り江があったり半島状に突き出た所があったり、変化に富んで面白い。

鉾田市高田辺りの船溜まり。

シロサギやアオサギがいた。

近くには火の見櫓があった。

行方市吉川の辺り。

行方市天掛の辺り。
遠くに北浦大橋が見える。

行方市新宮の辺り。

潮来市水原。北原洲吠崎。
遠く鹿島臨海工業地帯の煙突が見える。

稲刈りの最中。

半島状に突き出た形だ。

潮来側の神宮橋。

写真にすると、似たような風景になってしまうなあ。

2017年8月27日日曜日

「ひよっこ」の宗男さんへ

ちょっと前、NHKスペシャルでインパール作戦の特集を見た。
その後ネットで調べようと思って検索していると、「インパール作戦 茨城」というワードが上位にあるのに気づく。不思議に思って開いてみると、どうやらNHKの朝の連続ドラマ「ひよっこ」の中で、ヒロインみね子の叔父宗男さんが、インパール作戦の生き残りだったということかららしい。
サイトのコメントによると、茨城県出身者で構成された歩兵第213連隊は、第33師団に隷属し北支から南方へ転戦してインパール作戦に参加、連隊の戦死者数は中国戦線で406名、ビルマ戦線で4278名だという。

うちの伯父は昭和17年12月に召集され、水戸東部37部隊に入隊。翌年1月にビルマ方面軍に編成されてビルマに渡った。
水戸からは歩兵第二連隊がペリリュー島へ、歩兵第102連隊が東部ニューギニアへ、歩兵第213連隊がビルマへと派遣された。ということは、伯父が配属されたのも、この歩兵第213連隊だと考えるべきだろう。
2007年8月13日付の常陽新聞に掲載された石下町(現常総市)出身の人は、昭和18年4月に水戸東部37部隊にインパール作戦要員として入隊し、第33師団歩兵第213連隊に配属された。インパール作戦は昭和19年3月から7月中旬まで行われた。うちの伯父さんが派遣されてほぼ1年後。伯父さんもまたインパール作戦に参加したことに、恐らく間違いはないだろう。

「ひよっこ」の宗男さんはインパール作戦で戦友のほとんどを失い、飲まず食わずで山の中を歩く。ある時、斥候に出されたジャングルの中で、一人のイギリス兵に遭遇する。イギリス兵を呼ぶ仲間の声が聞こえ、死を覚悟した宗男さんに対し、イギリス兵はにっこりと笑いかけ、密林の中に姿を消したという。
宗男さんは笑いかけてきたイギリス兵に対し、呆然とするだけで笑って返すことができなかった。それが悔しかったと言い、さらにこう続ける。「拾った命だから、笑って生きようと決めたんだ。」
「で、俺の中でビートルズとあいつがごっちゃになっちゃって、だから俺は言いてえんだ、ビートルズに。『俺は生きてっとう!俺は笑って生きてっとう!お前も生きてっか!笑ってっか!』と言いてえんだ。」

もちろんインパール作戦で戦いが終わったわけではない。この後歩兵第213連隊は1年以上ビルマ国内を転戦する。昭和20年6月にはタイ国境付近のラマイン地区にたどり着き、そこで終戦を迎えた。
しかし、伯父さんは昭和20年7月20日、トングー県東北部ベネコン付近で戦死する。その日トングーではシッタン渡河作戦という戦闘があり多数の兵が亡くなっている。家で言い伝えられている話では、伯父さんは雨季のジャングルを行軍中、将棋倒しに巻き込まれ泥水の中で溺れて死んだということだ。
歩兵第213連隊がその頃タイ国境付近に転進しているのに、伯父さんがなぜトングーで死んだのかは分からない。ただ、その連隊が所属した第33師団、さらにはその師団が所属した第15軍もほとんど壊滅状態にあり、転戦するうちに伯父さんが本隊から離れてしまったということも考えられないことではない。

私はテレビに向かってこう声をかけたい。
「宗男さん、あなたのいた部隊に、霞ケ浦沿いの小っちゃな村から来た、サブちゃんという人がいなかっただろうか。知っていたら、どんな小さいことでもいい、その人について話してくれないか。」と。

2017年8月22日火曜日

昭和の土産物 続編

以前、「昭和の土産物」の特集をしましたが、うちにはまだまだあるんですな。
というわけで、では続編と参りましょう。

潮来の伊太郎。
若い人は知らないか。

箱根。

長瀞。

富士山五合目。
人にもらったのだろうか、同じのが2個あった。

日本アルプス。くず湯?

箱根の関所。

犬吠埼。

伊豆の踊子。

もうひとつ、伊豆の踊子。

どこかは不明。
貝殻と魚籠があるところを見ると、海沿いなんだろうな。

伊豆のようだ。

伊東。

猿ヶ京温泉。

筑波万博の提灯。

側面にはマスコット、コスモ星丸



2017年8月20日日曜日

女の噺 CDブック『完全版八代目桂文楽』を聴く③

文楽と言えば、「色気があって女が巧い」という定評がある。
そこで今回は、「女の噺」に注目して聴いてみた。

女が主人公になっている噺は『厩火事』。準主役級では、『夢の酒』、『かんしゃく』、『心眼』、『悋気の火の玉』、『松山鏡』、『締め込み』、『星野屋』辺りが挙げられようか。
気づいたことは、その多くが夫婦の噺である、ということだ。しかも可愛らしく堅いタイプの女性が多い。『厩火事』のお崎や『締め込み』のお福はその典型だし、『夢の酒』のお花の世間知らずな可憐さもいい。『心眼』のお竹は「(容貌が)まずい女」という設定だが、その一途に夫梅喜を思う気持ちは胸を打つ。『悋気の火の玉』のあかみさんだって、多くの演者が憎々しさを誇張するのに対し、文楽のは「ふん」と拗ねる様さえ可愛らしい。
もう少し範囲を広げてみても、『つるつる』の小梅は芸者だが、やはり身持ちの堅い印象を受けるし、『明烏』の浦里もほんの一言しか登場しないが、崩れた感じはしない。『三枚起請』や『お見立て』に出てくる喜瀬川のような女は、文楽の噺には登場してこないのである。

そういえば三遊亭圓生がこんなことを言っていた。
「文楽さんの噺は女でいえば、どこから見てもいい女。いつもきちんと化粧して居住まいも正しい。ところが志ん生さんの方はひどい女だ。身持ちも悪く行儀も悪い。だけど、男から見りゃあ、文楽さんの方は隙がない分だけ息が詰まる。志ん生さんの方が魅力がありますよ。そういうわけで、人気投票をすると、志ん生、圓生、文楽の順でした。」
なるほど、その通り。
文楽という人はネタの数は少ないし、そのレパートリーにも偏りがある。自分の主題に則した噺しか演じられないタイプの落語家だ。(私はそれを「一人称の落語家」と呼んでいる。圓生タイプは「三人称の落語家といえよう。)ということは喜瀬川のように男を手玉に取るタイプの女には、感情移入できなかったのだろうな。

しかし、そういう悪女タイプが出てくる噺が、文楽のネタにも1つだけある。それが『星野屋』だ。その『星野屋』にしろ、長い間お蔵にしてきた噺だし、真打になる頃に「真打は人情噺ができなければならない」ということから覚えた噺である。文楽が自発的に持ちネタにしたものではない。(同じ悪女タイプのお染が出てくる『品川心中』も音源としては残っているが、文楽としては捨てたネタである。)
つまり『星野屋』や『品川心中』の存在は、文楽の噺に登場する女性像の特徴を、かえって際立たせるものだと思う。

さて、私は冒頭に「文楽と言えば、『色気があって女が巧い』という定評がある」と書いたが、実はその大部分は男同士の会話が主である。花柳界を題材にした『明烏』『つるつる』『愛宕山』等でも女性の台詞はごく少ない。まして若旦那ものやお店もの、『酢豆腐』のようなわいわいがやがやの噺などは男しか出てこなかったりする。まさに色川武大が言うように「落語は男のつぶやき」である。
文楽にしろ、あくまで主役は男。だが、所々で登場する女が、また印象的なんだな。主役級で活躍するのは可憐で堅い女だが、ちょい役で出てくる女が、いかにも如才なくよく練れた人が多い。『明烏』の茶屋のおかみ、『船徳』の船宿のおかみ、『心眼』の芸者小春、『夢の酒』のご新造なんかがこれに当たるが、これがまた巧いんだよなあ。それが「文楽と言えば、『色気があって女が巧い』という定評」につながってくるんだろう。

私はかつて『厩火事』のお崎のモデルは、文楽の最初の妻ではないか、と書いたことがある。私はここでも「可憐で堅い女」(その多くは主人公の妻である)は、文楽に尽くした女たちの投影ではないかと思う。そして「いかにも如才なくよく練れた女」には、文楽がお座敷に呼ばれた際の観察が生きていると思う。
文楽のネタをまとめて聴いてみて、この2つのタイプが、文楽がリアリティーを持って演じることができた女性像なんだろうなあと思った。
そういう視点から見ると、『夢の酒』が、文楽の「女の噺」の集大成に思える。息子の嫁お花に慈愛のまなざしを向け、夢の中で向島のご新造との会話を楽しむ大旦那に、私は文楽自身の姿を見るのである。(柳家小満んも、文楽晩年の名演として『夢の酒』を挙げている。)


2017年8月17日木曜日

演目について CDブック『完全版八代目桂文楽』を聴く②

CDブックに収められた27演目は次のとおりである。

①愛宕山 ( 1954 年 1 月 7 日 : 61 歳 )
②やかん泥 ( 1956 年 3 月 9 日 : 63 歳 )
③景清 ( 1956 年 9 月 16 日 : 63 歳 )
④夢の酒 ( 1956 年 7 月 1 日 : 63 歳 )
⑤穴どろ ( 1956 年 11 月 11 日 : 64 歳 )
⑥富久 ( 1956 年 12 月 25 日 : 64 歳 )
⑦かんしゃく ( 1956 年 7 月 18 日 : 63 歳 )
⑧心眼 ( 1956 年 8 月 13 日 : 63 歳 )
⑨船徳 ( 1956 年 7 月 10 日 : 63 歳 )
⑩つるつる ( 1956 年 10 月 16 日 : 64 歳 )
⑪大仏餅 ( 1966 年 1 月 28 日 : 73 歳 )
⑫明烏 ( 1959 年 6 月 3 日 : 66 歳 )
⑬酢豆腐 ( 1959 年 5 月 25 日 : 66 歳 )
⑭悋気の火の玉 ( 1963 年 5 月 17 日 : 70 歳 )
⑮寝床 ( 1959 年 9 月 16 日 : 66 歳 )
⑯厩火事 ( 1967 年 3 月 14 日 : 74 歳 )
⑰厄払い ( 1960 年 1 月 3 日 : 67 歳 )
⑱素人鰻 ( 1959 年 10 月 28 日 : 66 歳 )
⑲星野屋 ( 1968 年 7 月 19 日 : 75 歳 )
⑳しびん ( 1967 年 5 月 14 日 : 74 歳 )
㉑王子の幇間 ( 1967 年 1 月 4 日 : 74 歳 )
㉒よかちょろ ( 1966 年 4 月 1 日 : 73 歳 )
㉓松山鏡 ( 1966 年 12 月 25 日 : 74 歳 )
㉔鰻の幇間 ( 1967 年 6 月 16 日 : 74 歳 )
㉕締め込み ( 1967 年 10 月 6 日 : 74 歳 )
㉖馬のす ( 1968 年 6 月 16 日 : 75 歳 )
㉗干物箱 ( 1968 年 1 月 28 日 : 75 歳 )

文楽は1962年2月からまる1年かけて、ビクター築地スタジオで『八代目桂文楽十八番集』を録音している。客なしのスタジオ録音盤。文楽全盛期の芸を忠実に記録しようという意欲にあふれたものだった。
このレコードも27演目を収録しているが、CDブックにあって『十八番集』にないのは「星野屋」、逆に『十八番集』にあってCDブックにないのが「按摩の炬燵」である。
なぜ「星野屋」が『十八番集』に収録されなかったかは、CDブックに収められた「星野屋」の口演後の対談から分かる。
文楽は「星野屋」について、司会のアナウンサーの質問に答え、真打になる頃覚えた噺で長いこと高座にかけなかったが久し振りに演ってみた、と答えている。これが1968年。つまり、『十八番集』収録当時、「星野屋」はお蔵になっていたのだ。そして、昔は「真打になるには人情噺めいたものができなくてはならない」という風潮があったので覚えたものだ、と文楽自身言っている。
では、なぜCDブックに「按摩の炬燵」が入っていないのか。これは編集部の「おことわり」という文章の中に答えがあるような気がする。文楽の落語に出てくる、「現代では障害者や職業を侮蔑することば」に対し、「人権上使用してはならない」としながらも、「この時代の中で登場人物たちの人間模様を描く上には、これらのことばの使用を、歴史的事実として認めざるを得ません」とし、それらの言葉が出てくる演目を世に出すことについて、「これら差別や侮蔑の助長や温存を意図するものではない」と理解を求めている。
「按摩の炬燵」は、盲人に酒を飲ませ布団の中に入れて炬燵の代わりにしようとする、(現代の常識からすれば)とんでもない設定の噺である。文楽がラジオの放送で演じた時には、当時でも「あまりに盲人を馬鹿にしている」という抗議が寄せられた。「この時代の中で登場人物たちの人間模様を描く上には、これらのことばの使用を、歴史的事実として認めざるを得」ないとはいえ、言葉以前に内容からして理解を得られるのは無理だと、編集部は判断したのだろう。
しかし、私としては1968年以降も得意にしていたとは言い難い「星野屋」よりは「按摩の炬燵」の方が、文楽の持ちネタを網羅する上では必要だと思うのだが、どうだろう。

文楽の死後、山本益博の監修によってCBSソニーで出した全集では、「星野屋」も「按摩の炬燵」も入っている。「鶴満寺」を入れることに強硬に反対したあの出口一雄が「星野屋」を認めたということは、出口は「星野屋」が水準を満たしていると判断したということか。とすれば、やはり文楽の持ちネタは、以上の28演目とするのが適当なんだろうな。

2017年8月16日水曜日

夏休みの宿題 CDブック『完全版八代目桂文楽』を聴く①


盆休み、妻の実家の新盆で1泊する以外は、ずっと家にいた。
そこで自らに夏休みの宿題を課す。いい機会なので、CDブック『完全版八代目桂文楽』(1988年7月20日刊)全巻を聴いてみることにした。
CD9枚に27演目。10巻目はインタビューや対談他、珍品『子ほめ』全編と、『小言幸兵衛・『品川心中』のサワリが収録されている。
27演目は全てTBSの音源。いちばん古いもので『愛宕山』(1954年1月7日放送、当時文楽61歳)、いちばん新しいものは『星野屋』(1968年7月19日放送、当時文楽75歳)である。
1958年(昭和29年)といえば、文楽が『素人鰻』で芸術祭賞を受賞した年。八代目橘家圓蔵が「昭和29年に芸術祭賞を『素人鰻』で取った時の黒門町の芸はすごかったなんてもんじゃない」と言っている。そして2度目の芸術祭賞を『富久』で受賞したのが1966年(昭和41年)。つまり、このCDブックは、文楽の円熟期のほとんどをカバーしているといっていい。
しかも、放送月を見ると、ないのは2月だけ。ちなみに2月、初午時期の噺である『明烏』は6月3日に放送されているので、本来は全ての月で全て異なる噺での上演が可能であった。文楽は持ちネタは少ないが、その時々で季節感のある噺を用意することができたのだ。
当時のTBSのプロデューサーが出口一雄。五代目三遊亭圓楽は川戸貞吉編『対談落語芸談2』の中でこんなふうに言っている。
「季節感のある噺が多かったもんですから、夏ンなると『船徳』に『酢豆腐』、ね? 冬ンなるとなにッていうふうに、ピシャアァッと頭ン中で出口さんが計算して、出してましたね。」
まさにそれを実証していると思う。
まとめて聴いてみて、新たに気づいたことが幾つかある。それについて、思いつくまま書いてみたい。しばらくの間、お付き合いのほどを願っておきます。

2017年8月14日月曜日

牛久の火の見櫓 ~ 火の見櫓 その10

牛久の火の見櫓です。

まずは牛久市久野の火の見櫓。
牛久大仏の近く。
地区の公民館の敷地内に消防団の詰め所があり、そこに立っておりました。

高さはそれほどないけど、端正な形をしています。

半鐘もきちんと付いている。

錆もない。素晴らしい。

お次は牛久市岡見町。こちらも地区の公民館の敷地に立っている。




高さはこっちの方があるな。

もう一つ。こちらはJAの敷地内にありました。

屋根がない。

装飾的じゃないタイプね。

2017年8月12日土曜日

火の見櫓 その9


石岡市正上内にある火の見櫓。先日、ハワイアンズへ行った時、高架橋を渡っていて視界に入った。
今日、行ってみると鉄工所の敷地内に立っている。近くには消防関係の施設はない。
家からおばさんが出てきたので、撮影許可をもらう。
お話を伺うと、この火の見櫓は、元は石岡消防署にあったものだという。消防署の移転に伴って、ここに移設されたとのこと。
「これ、うちで作ったんだよね」とおばさんは言った。
「へえ、ここで火の見櫓作ってたんですか?」
「今は無線だから、もう必要ないけどね。昔は大子の方からも注文が来たんだよ」
「火の見櫓もずいぶん減っちゃいましたよね」
「この辺りには東成井にうちのがあるよ。屋根が吹っ飛んじゃったけど。これ建てるときには家を建てる時みたいに建前もやったね」

ひょんなことから、いい話が聞けた。まさかここで火の見櫓を作っていたとは思わなかったなあ。
本署の火の見櫓だけに相当立派なものでした。では全容をもう1枚。