文楽と言えば、「色気があって女が巧い」という定評がある。
そこで今回は、「女の噺」に注目して聴いてみた。
女が主人公になっている噺は『厩火事』。準主役級では、『夢の酒』、『かんしゃく』、『心眼』、『悋気の火の玉』、『松山鏡』、『締め込み』、『星野屋』辺りが挙げられようか。
気づいたことは、その多くが夫婦の噺である、ということだ。しかも可愛らしく堅いタイプの女性が多い。『厩火事』のお崎や『締め込み』のお福はその典型だし、『夢の酒』のお花の世間知らずな可憐さもいい。『心眼』のお竹は「(容貌が)まずい女」という設定だが、その一途に夫梅喜を思う気持ちは胸を打つ。『悋気の火の玉』のあかみさんだって、多くの演者が憎々しさを誇張するのに対し、文楽のは「ふん」と拗ねる様さえ可愛らしい。
もう少し範囲を広げてみても、『つるつる』の小梅は芸者だが、やはり身持ちの堅い印象を受けるし、『明烏』の浦里もほんの一言しか登場しないが、崩れた感じはしない。『三枚起請』や『お見立て』に出てくる喜瀬川のような女は、文楽の噺には登場してこないのである。
そういえば三遊亭圓生がこんなことを言っていた。
「文楽さんの噺は女でいえば、どこから見てもいい女。いつもきちんと化粧して居住まいも正しい。ところが志ん生さんの方はひどい女だ。身持ちも悪く行儀も悪い。だけど、男から見りゃあ、文楽さんの方は隙がない分だけ息が詰まる。志ん生さんの方が魅力がありますよ。そういうわけで、人気投票をすると、志ん生、圓生、文楽の順でした。」
なるほど、その通り。
文楽という人はネタの数は少ないし、そのレパートリーにも偏りがある。自分の主題に則した噺しか演じられないタイプの落語家だ。(私はそれを「一人称の落語家」と呼んでいる。圓生タイプは「三人称の落語家といえよう。)ということは喜瀬川のように男を手玉に取るタイプの女には、感情移入できなかったのだろうな。
しかし、そういう悪女タイプが出てくる噺が、文楽のネタにも1つだけある。それが『星野屋』だ。その『星野屋』にしろ、長い間お蔵にしてきた噺だし、真打になる頃に「真打は人情噺ができなければならない」ということから覚えた噺である。文楽が自発的に持ちネタにしたものではない。(同じ悪女タイプのお染が出てくる『品川心中』も音源としては残っているが、文楽としては捨てたネタである。)
つまり『星野屋』や『品川心中』の存在は、文楽の噺に登場する女性像の特徴を、かえって際立たせるものだと思う。
さて、私は冒頭に「文楽と言えば、『色気があって女が巧い』という定評がある」と書いたが、実はその大部分は男同士の会話が主である。花柳界を題材にした『明烏』『つるつる』『愛宕山』等でも女性の台詞はごく少ない。まして若旦那ものやお店もの、『酢豆腐』のようなわいわいがやがやの噺などは男しか出てこなかったりする。まさに色川武大が言うように「落語は男のつぶやき」である。
文楽にしろ、あくまで主役は男。だが、所々で登場する女が、また印象的なんだな。主役級で活躍するのは可憐で堅い女だが、ちょい役で出てくる女が、いかにも如才なくよく練れた人が多い。『明烏』の茶屋のおかみ、『船徳』の船宿のおかみ、『心眼』の芸者小春、『夢の酒』のご新造なんかがこれに当たるが、これがまた巧いんだよなあ。それが「文楽と言えば、『色気があって女が巧い』という定評」につながってくるんだろう。
私はかつて『厩火事』のお崎のモデルは、文楽の最初の妻ではないか、と書いたことがある。私はここでも「可憐で堅い女」(その多くは主人公の妻である)は、文楽に尽くした女たちの投影ではないかと思う。そして「いかにも如才なくよく練れた女」には、文楽がお座敷に呼ばれた際の観察が生きていると思う。
文楽のネタをまとめて聴いてみて、この2つのタイプが、文楽がリアリティーを持って演じることができた女性像なんだろうなあと思った。
そういう視点から見ると、『夢の酒』が、文楽の「女の噺」の集大成に思える。息子の嫁お花に慈愛のまなざしを向け、夢の中で向島のご新造との会話を楽しむ大旦那に、私は文楽自身の姿を見るのである。(柳家小満んも、文楽晩年の名演として『夢の酒』を挙げている。)
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