八代目桂文楽が初の芸術祭賞をもらった時のインタビュー記事を見つけた。
記録の意味も込めて、記事にしておく。
昭和29年(1954年)12月13日付の朝日新聞である。
「文楽の話術のおかげで、世の〝知識人〟といわれる連中が落語を鑑賞し、認識するようになった」という書き出し。当時、吉田茂、歌人の吉井勇、早大教授の暉峻康隆などという面々がこぞって文楽を讃え、それが文楽のブランドイメージを高めた。また、記事からも、余計なクスグリやギャグを入れず、いちいち説明しなくても噺の中に時代や情景がきちんと描写される「本当の落語」、「落語話術の最高」という評価が既に定着していたことが見て取れる。
戦時中の言論統制の時代が終わり、思う存分自分の芸ができるようになった。名人と言われた、五代目三遊亭圓生、四代目柳家小さんはもう亡く、八代目桂文治に往年の輝きはない。斯界きっての大物、五代目柳亭左楽も、この年、鬼籍に入った。加えて文楽は当時63歳、落語家として脂の乗り切った時期で、その迫力は他の追随を許さなかった。事実、八代目橘家圓蔵は「その時(昭和29年当時)の黒門町の芸はすごかったなんてもんじゃない」と言っている。彼が落語界のトップに君臨したのは当然だったと言っていい。
興味深いのは経歴。記事では「下谷根岸の花柳界の真ん中で生まれた江戸ッ子」とある。実際には父の任地、青森県五所川原で生まれている。母は江戸詰めの常陸国宍戸藩士の娘、婿養子に入った父は一橋家御典医の家の生まれ、両親ともに東京者で、文楽自身も3歳の時に東京に戻っているが、正確に言えば「青森県出身」である。後に自叙伝『あばらかべっそん』に書かれていることだが、この時点ではそういうことになっていたんだな。
「三木助、小さんなどと門外不出の研究会を作って〝死ぬまで修業〟を実践している」との記述もある。小さんは四代目の死後、預かり弟子として一門に入っている。三木助は春風亭柳橋門下だったが、文楽に憧れ、晩年、文楽門下に入った。他のメンバーは不明だが、いずれにしても弟子筋との勉強会をしていたのか。そういえば、文楽は新しい噺を高座にかける前は、弟子を集めて演じて見せたという。
一方で「余計なものをはぶきすぎて〝純文学のような落語〟という声もあり、それが欠点だとみるむきもある。」という指摘があり、文楽自身、「私の芸は今まで一つところばかりみがいてきたようなもの。これを機会に幅をひろげる勉強をしたい」と言っている。
その後、文楽はモデルチェンジすることもなく、確立されたスタイルにやがて体力がついて行かなくなり、絶句という「名人芸の崩壊」を迎えることになる。
八代目桂文楽の訃報が載るのは、17年後。この記事と同じ12月13日付であったことを思うと、感慨深いものがある。
2 件のコメント:
桂文楽・明烏(1959年)
https://www.youtube.com/watch?v=4ylzJ4UdCws
この頃でもすごいですねー。
コメントありがとうございます。
黒門町はすごいです。
私は中2の頃に出会って以来、ずっと惚れています。
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