早いもので、今年ももう師走ですか。
師走というと、落語の方では掛け取りの噺がよくかかったもので。三遊亭圓生の『掛け取り萬歳』、柳家小さんの『睨み返し』『言い訳座頭』『穴どろ』なんてところがございます。
当節では『芝浜』でしょうか。立川談志がよみうりホールの独演会でかけた『芝浜』が、伝説の高座となっているのは有名な話です。(ただ、これは談志自身とそのファンによって、やたら神格化されてしまったような気がしますが)
私の世代では、談志だけではなく、古今亭志ん朝、柳家小三治の名演も耳に残っておりますし、先代の三遊亭圓楽も得意にしておりました。
昨今では、鈴本で『芝浜』を演者を変えて10日間演じさせてみたり、新宿末広亭では、「むかし家今松の『芝浜』を聴く会」なども企画されていたようです。
ま、よくできた噺だし、夫婦の情愛という普遍的なテーマを扱っているし、季節ものでもあり、この時期、人気の演目になるのも当然だと思います。
ところで、この噺の前半の見せ場に、主人公の魚屋が浜で煙草を吸いながら夜明けの海を見る場面があります。これは、この噺を売り物にした三代目桂三木助がこしらえたものだと思います。
ほとんどの落語家が、この三木助の型をベースにしているのに対し、古今亭志ん朝は、この場面をばっさりカットしています。志ん朝だけでなく、父志ん生も、兄金原亭馬生もこの場面はやっていない。ここをやらないのが、古今亭の型と言ってもよいでしょう。
この、「古今亭の型」は合理的です。この後、魚屋は金の入った革財布を拾い、その顛末を女房に話すことなるので、この場面があると重複してくどくなってしまう。また、さらにそれを夢にすることを考慮すると、あまり財布を拾う場面がリアルになってもいけない。あの場面は三木助と安藤鶴夫の文芸趣味によって作られたもので、鼻につく。カットするのが、むしろ本寸法なのではないか、という意見もあります。
京須偕充は『志ん朝の落語5 浮きつ沈みつ』中『芝浜』の解説で、こんなふうに述べています。
「ここで、どう絵画的レトリックを駆使しても、あるいは拾得の仕方を克明に演じても、しょせんは主人公の独白のみだ。やりとりでドラマを築く落語本来の醍醐味とは別種で、実は難易度の高い場面ではない。ここがリアルになると主人公が女房に言い負かされ、夢を信じるのがいっそう不自然になるという副作用も生じる。古今亭の思い切った省略は過度のフィクション性を防いでいるといえよう。」
まったくその通り。見事な論理です。
でも、私が『芝浜』をやるとしたら(実際やっていますが)、この場面、やりますね。もともと『芝浜』は穴の多い噺で、知り合いの魚屋さんに聞くと「正直違和感がある」と言います。そのいわゆる「過度なフィクション性」を夫婦の情愛一本でねじふせていくところに、この噺の醍醐味があるのではないでしょうか。
お客がこの場面を欲していて、演者がこの場面を演じたいと思うのなら、やるべきだと思う。私はその場面を演じたいと思います。
もちろん、そこをカットするというのも、演者としてのメッセージになる。それはそれで素晴らしいと思います。
要は演者の料簡です。私はどちらも否定しません。お客に「いい噺だったな」と思ってもらえれば、それでいいと思います。
結論としては、甚だ凡庸なものになってしまいましたな。お粗末様でした。
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家のベランダからの朝焼け。 安藤鶴夫『三木助歳時記』には、三木助が妻の仲子と夜明けを見る場面がありました。 |