ページビューの合計

2025年5月19日月曜日

【雑談】文楽十八番『愛宕山』①

文楽は『愛宕山』をその他の多くの噺と同じく三代目三遊亭圓馬から受け継いだ。


三代目圓馬。大阪生まれ。父は落語家、月亭都勇。七歳の時、月亭小勇で初高座を踏む。

その後、浮世節の大家、立花家橘之助の身内になり、東京に出て立花家左近を名乗った。

七代目朝寝坊むらくを襲名して真打昇進。落語研究会に抜擢され、将来を嘱望された。

しかし、当時の大看板、四代目橘家圓蔵と諍いを起こし、むらくの名前を返上。橋本川柳を名乗って東京を離れた。この事件の背景には、立花家橘之助をめぐる三角関係があったと言われている。

旅回りをした後、結局、生まれ故郷の大阪に落ち着き、三代目三遊亭圓馬を襲名した。

東京落語の大看板、四代目柳家小さん、八代目桂文楽、三代目三遊亭金馬、五代目、六代目の三遊亭圓生などが若手時代に稽古に通い、大きな影響を与えた。『愛宕山』や『景清』といった上方落語を東京に移した功績もある。

ネイティブの上方弁に加え、江戸っ子弁でも啖呵が切れるほど堪能だった。まさに「落語バイリンガル」。『愛宕山』でも、大阪弁、京都弁、東京弁を見事に使い分けたという。


大正14年、圓馬は落語研究会出演のため上京した。東京では文楽が待ち構えていた。

早速「お稽古を」と願い出る。

「おい、東京まで来て稽古するのかい?」と圓馬が言うと、文楽はこう切り返した。

「そんなこと言わないで、金馬も四代目小さんも待っていますよ」

圓馬は、「お前たちのおかげで、おちおち東京見物もできゃしねえ。まとめて稽古するから立花においで」と、神田立花に彼らを呼んで稽古した。

その時教えたのが、四代目小さんに『提灯屋』、三代目金馬に『孝行糖』、そして八代目文楽に『愛宕山』だった。それぞれに合う噺を選んだんだな。『提灯屋』は後に柳家のお家芸になり、『孝行糖』は金馬の、『愛宕山』は文楽の、押しも押されもせぬ十八番になった。圓馬の慧眼と芸域の広さに恐れ入る。すごいなあ。


文楽の『愛宕山』は東京弁のみ。無器用な文楽はそういう選択をしたのだろう。

現代では古今亭菊之丞が、大阪弁、京都弁、東京弁を巧みに使い分けた『愛宕山』を披露している。テレビによって方言を全国化したのが、こういう演出をより可能にしていったのだろうな。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

四代目小さんがまた圓馬に稽古して貰ったって話がちょっと驚きですね。確か子供時代の圓生と一緒に圓馬がやっていた稽古会で圓馬の指摘で恥をかいて、その後の稽古に来なくなってしまったって話を見たことが有るんですけど、それでもこうやって圓馬の元に来て稽古をするってことはやはり圓馬の芸を尊敬していたからなのでしょうかね?

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。
圓馬のむらく時代の話でしょうか、後の五代目圓生や後の四代目小さんを尻目に、子どもだった六代目圓生の方が噺を覚えるのが早かった、ということを圓生自身が書いていました。
圓馬の稽古は厳しく、文楽は物差しで手の甲を叩かれながら仕草を仕込まれたといいます。
それでも追い駆けずにはいられないほど、圓馬の芸は素晴らしかったのでしょうね。

匿名 さんのコメント...

こういう、先輩落語家から大切なネタが継承される話って、本当に良いものですね。
三代目の圓馬さんをはじめ、初代の柳家小せん、二代目談洲楼燕枝、三遊一朝など、さまざまな時代で看板を背負った名人たちが、自分の噺を後輩に継承していく姿はとても素敵で、これからも大切に受け継がれてほしいと感じます。

ただ、その一方で、あまり話題に上がらない落語家さんたちもいますよね。
たとえば、一朝さんと同じく稽古代を務めた三遊亭圓篠や、豊富なネタを持っていた五代目金原亭馬生、そして五代目小さんにネタを提供していた七代目三笑亭可楽など、歴史の陰で落語を支えた“影の立役者”たちの存在も、もっと注目されても面白いのではないでしょうか。

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。PCが壊れていて、お返事が遅れてすみません。
そうですね。噺の系譜をたどるのも面白いと思います。
黒門町は三代目圓馬から多くの噺を引き継いでいますが、圓馬は圓左の薫陶を受けています。志ん生は圓右から多大な影響を受けています。五代目小さんは七代目可楽を通して三代目の芸風を受け継いだといいますね。
八代目正蔵から志ん朝という系譜も面白いですね。
圓條や五代目馬生からどんな噺が、誰に引き継がれていったか、調べてみるのも面白いと思います。