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2020年4月11日土曜日

『紋三郎稲荷』聴き比べ

例のコロナ騒ぎで家にいる。
徒然なるままに落語を聴く。先日コメントでmoonpapaさんが『紋三郎稲荷』について書いておられたので、せっかくだからこの機会に聴き比べをしてみる。
ネットで検索すると、あっという間に、二代目三遊亭円歌・六代目三遊亭圓生・五代目(当代)柳家小せんのが出てくる。便利な世の中だね。

『紋三郎稲荷』(円歌の型)のあらすじは次の通り。
常陸国笠間藩、牧野越中守家来、山崎平馬は参勤交代の折、風邪を引いて皆と一緒に出立することができなかった。ようやく二、三日遅れて江戸に旅立つ。幸手の松原で松戸からの帰り駕籠に乗る。八百文というところを、酒手を付けて一貫文にした。防寒のために割羽織の下に着込んでいた狐の胴服の尻尾が駕籠の外に出ていたことから、駕籠かきが平馬を紋三郎稲荷の眷属と思い込む。洒落っ気のある平馬はそのまま狐なりすます。松戸では紹介されて本陣に入った。主人は笠間稲荷を熱心に信心していることから、平馬を手厚く歓待する。やがては近所の者も次の間に集まってお賽銭を投げ込む始末。夜中、酔いから覚めた平馬は、後ろめたくなって七つの鐘とともに本陣から逐電した。その時、庭の隅に祀られていた稲荷の祠から狐が姿を現し、平馬の後ろ姿を見送りながら、「近頃化かすのは人間に敵わない」

もともとこの噺は二代目円歌の得意ネタ。まずは円歌を聴いてみた。
口演時間は15分足らず。円歌らしく明るく賑やか、軽い小品に仕上がっている。
びくびくする駕籠かきと洒脱な平馬とのやりとりが楽しい。
圓生の方は『圓生百席』からの音源か。客無しのスタジオ録音。マクラをたっぷり振って35分。噺自体は20分ほどである。
円歌に比べ、一人一人の登場人物の骨格をしっかりさせた重厚な造りになっている。
平馬が勤番となって江戸へ行くことになったが、風邪を引いて同僚より二、三日遅れて旅立つ。その時に病み上がりの身体を用心して狐の胴服を着込むということを、導入部で仕込んでいる。丁寧な構成である。
平馬が駕籠に乗るのは取手(とって)の渡しを渡った所。ちなみに円歌は幸手(さって)の松原。圓生は、「取手(とりで)は昔〝とって〟と言っていた」というけれど、取手という地名は「砦(とりで)」に由来するので、〝とって〟という読みはないと思うのだが、どうなのだろう。ただ、笠間から幸手を通って松戸へ行くのは、水戸街道を上って取手に行くより、かなり遠回りになる。圓生の型の方が合理的である。
小せんのは圓生の型。現在はこれがスタンダードなんだろうな。当代の小せん、寄席で聴いたことがあるが、改めて聴くと上手いね。きちっとした楷書の芸だ。

さて、この『紋三郎稲荷』に関しては、ひとつの不幸なエピソードがある。春風亭一柳著『噺の咄の話のはなし』にあるのがそれだ。
一柳がまだ圓生門下で好生を名乗っていた頃の話。二つ目になったばかりの好生は、大幹部の円歌に着物のたたみ方が気に入られ、目をかけてもらっていた。ある時「稽古においで」と言われ、『紋三郎稲荷』を教わる。ようやく高座にかけてよいという許しを得た頃、師圓生が自分の前で『紋三郎稲荷』をやってみろと言った。やってみると、圓生は「それでは丸で駄目だ」と言う。そして古い速記本を取り出すと、それを読みながら、噺をすっかり直してしまった。それは円歌から教えられた原型をとどめぬほどであった。
ちょうどその時、電話が鳴って圓生にテレビ出演の依頼があった。圓生は『紋三郎稲荷』を出すと答え、好生こう言った。
「あれはだいたいうちのお師匠さん(四代目橘家圓蔵)がやっていたもので、その弟子の円玉さんのを私は聞いて知っている。円歌さんは、その円玉さんに教わってやっているんで、私がやるぶんには一向差しつかえがない」
結局、好生は圓生版『紋三郎稲荷』を覚え直さざるを得なくなった。
加えて圓生は好生に若手勉強会で『紋三郎稲荷』をかけるように命じる。悪いことは重なるもので、その場に円歌がいた。円歌は自分が教えた噺の出来を楽しみにして、好生が出る若手勉強会に足を運んだのだ。
噺を聴いた後、円歌は怒りをにじませて好生に言った。
「お前はセコだよ。私が教えてやった噺をめちゃめちゃにして・・・。第一、円生君だってセコすぎる。弟子に教えたものを師匠がとって放送に出すなんて・・・」
以後好生は、それまで呼ばれていた円歌のトリ席に、二度と呼ばれることはなくなった。

完全主義者の圓生にとって、円歌の『紋三郎稲荷』は穴だらけだったのだろう。しかし、それは二人の向いている方向が違っていたからに他ならない。円歌は円歌で楽しいし、圓生は圓生で聴きごたえがある。しかし、圓生には自分の価値観以外のものは認められない。そしてその価値観を弟子にも求める。悪気がない、というよりも信念に基づいているだけに厄介だ。もうひとつ、自分より芸が劣る円歌が香盤で上にいる、という意識も影響していたと思う。だからこそ、円歌の噺が「まるで駄目だ」となるのである。その間で翻弄された好生は本当に不憫だなあ。

物置で見つけてきた昔の絵葉書から。
昭和初期の笠間稲荷神社拝殿。

現在の拝殿。昭和30年代に再建されたもの。


2020年4月7日火曜日

昔の絵葉書 ~朝日新聞~


物置で見つけてきた昔の絵葉書。昭和初期のものと思われる。
朝日新聞が作ったもの。「新聞が出来るまで」を解説している。


新聞の出来るまで(1)
政治・経済・社会外報・運動・学芸・写真・各部の記者・日本満州は勿論、全世界の枢要地に配属された通信部員に配置された通信部員の間断なき活躍に依って、ピックアップされたニュース・写真等は飛行機・鳩・電信・電話・電信写真等の連絡機関を利用して編集局内の整理部に集中され適当に取捨選択される。



新聞の出来るまで(2)
原稿は文選・植字の後ゲラ刷となって校正をうけ、製版された写真等と一諸(ママ)に紙型となり鉛版に鋳込み輪転機にかけて印刷にかかるのである。


 新聞の出来るまで(3)
刷り上がった新聞は自動的に折畳まれ、奔流の如くキャリーを使って発送所に飛び込み忽ちのうちに各販売店に荷造りされてコンベヤーから専属トラックへ。そして配達所(市内)へ、駅(地方)へ突進するのである。


通信手段が「鳩」だったり、出来上がった新聞がトラックに載せられ「突進」したりと、時代を感じさせる内容。裏面に「世界一の読者数を誇る、東京朝日新聞・大阪朝日新聞」とあるのが泣かせる。

2020年4月5日日曜日

引きこもりの一日

朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。
『源氏物語』は「幻」まで。光源氏も死んだか。
昼はレトルトのカレパ。



無印のカレーは旨い。
昨日とはうって変わって、天気が悪く肌寒い。
夕方になって晴れる。
柿の若葉が芽吹き始めた。


夕食は煮込みハンバーグ、サラダ、食パンの耳を揚げたので白ワイン。

今日、ブログを開けてみたら、カウンターが見事に3並びでした。


もう1枚。昨日物置で見つけてきた絵葉書。


あの名優、六代目尾上菊五郎。ちょっと感動。

2020年4月4日土曜日

春が来た

朝、ホットサンド、紅茶。
散歩がてら床屋に行く。桜が満開。





昨年の今頃、このブログの読者のさざなみmooさんに桜の花びらが走るのを教えていただいた。自分だけでは見えないものがあるんだな。今年はそれを楽しむことができました。ありがとうございます。

昼は長男と一緒にナポリタンを作って食べる。


妻は仕事。ドラッグストアのパートに出ているが、お客が殺気立っていて大変だという。
『源氏物語』は「夕霧」「御法」まで読み進む。とうとう紫の上が亡くなってしまったよ。

夕方、発泡酒ひと缶持って下の畑に花見に行く。旨し。

個人的桜を見る会。

月も出ていた。花見と月見が一緒にできた。

夕食は妹一家と家で飲む。刺身、ピザ、手羽先、蓮根と牛肉の炒めもので酒。旨し。子どもたちもいとこのお兄ちゃんに遊んでもらった。よかったねえ。

殿様がマスクをくださる。「何もないよりありがたい」という人たちが出てきた。テレビでは「布マスクの使い方」を教えてくれる。まるで大日本帝国に住んでいるみたい。

2020年4月2日木曜日

ちょっと昔の土浦

ちょっと昔の土浦の写真。だいたい20年ぐらい前のが多いかな。

モール505脇にあった佃煮屋さん。
震災で甚大な被害を受け取り壊された。
安西水丸が著書『小さな城下町』でイラストに描いている。

どの辺にあったのか、憶えていないが、もう今はなくなっているだろう。

中城町にあった床屋さん。床屋の建物はシブい。もう今はない。

駅前通りから真鍋の方に向かった所にあった。もう今はない。

筑波線の新真鍋駅の跡。
線路があった所は現在サイクリングロードになっている。

中城町、矢口酒店。震災前の姿。

モール505と駅前通りが合流している辺りにあった文房具屋さん。もう今はない。

「土浦名店街」の看板だけなくなっている。


駅前から亀城公園に向かう途中にあった時計屋さん。もう今はない。

中城町のお菓子屋さん。もう今はない。

桜町。これはまだあるかな。

桜町。建物はあるが営業はしていない。

上の写真のお隣。看板の女の人の眼光が鋭い。

大手町の辺り。

この建物も、もう今はない。


コカ・コーラの看板がある真ん中の並びは、きれいに取り壊されてしまった。

新装なった大徳呉服屋さんの裏にあった蔵。もう今はない。
 
真鍋の坂にある旧藤本蚕業土浦支店。
今は廃墟のようになっているが、この当時はこんな感じだったのね。


前述の文房具屋さんの近くにあった医院だった建物。もう今はない。
こう見ていくと、ずいぶんお気に入りの建物がなくなっちゃたなあ。

さて、殿様が「かつてない」「最大限の」「前例にとらわれない」対策をすると大見えを切った。和牛券やらお魚券やら、さんざ迷走した挙句に出てきたのが、全世帯に布マスク2枚配布するというもの。まあ確かに「かつてない」ものだわね。本土決戦を前に各世帯に竹槍2本ずつ配るようなものか。すげえなあ。どんな素敵なマスクが来るか、今から楽しみです。

2020年4月1日水曜日

新年度

今日から新年度、新しいスタッフとの仕事が始まった。
こういう時期は気疲れがする。皆、気が立ってるしね。
家に帰って、夕食で晩酌。昨夜の「マツコの知らない世界」でやっていた餃子にそそられ、妻が冷凍餃子を焼く。それにジャーマンポテト、サラダ、切干大根で燗酒。
食後にぼんやりボウモアを飲みながらテレビを見ていたら、志村けんの追悼番組をやっていた。昔のコントを立て続けに流していたが、面白いなあ。妻とげらげら笑ってしまったよ。

小学生の頃、私は、コント55号とドリフターズが好きだった。「コント55号、世界は笑う」で私はお笑いファンになる。
ドリフとの出会いは「大正テレビ寄席」にコミックバンドで出ていたのを見た時だ。あれをビートルズの来日公演の前座でやったというから、これもすごい。
その後、「ドリフの全員集合」で大ブレイクした。世の小学生は文字通り腹を抱えて、腹の皮をよじらせて笑った。
「全員集合」が一回終わって、「クレイジーの出発進行」という番組が始まったことがある。クレイジーキャッツにドリフみたいなことをやらせてみたわけだが、これが見事にこけた。すかさず「全員集合」が再開。コメディアンとしてのクレイジーキャッツに引導を渡したのは、ドリフターズだったと言っていいだろう。
私が夢中になっていたのは荒井注がいた頃のドリフターズ、スターは加藤茶だった。「ちょっとだけよ、あんたも好きねえ」はぶっとんでたよ。
志村がドリフターズに加入したのは1974年である。その頃、私は落語に目覚めた。何たって古今亭志ん朝や八代目桂文楽を知ってしまったからなあ。あのべたなドタバタについていけなくなった。
だから私は志村のコントを熱心には見ていない。時期が合わなかったんだな。(ただ大学の頃の「からすの勝手でしょ」はすごいと思ったよ。)
でも、今回見たら、間といいテンポといい、いいんだよね。作り込んでいるんだが、遊びがあって、アドリブとネタとの出し入れが自由自在。ほんとくだらないんだけど、それに徹する潔さ。誰もが笑える。やっぱりすごい。
私は年を取ってからの飄々とした感じが好きだな。

新型コロナウィルスが志村けんをこの世から奪ってしまった。しかも親族ですら臨終に立ち会うことも遺体を見ることも許されなかったという。その衝撃に呆然とせざるを得ない。
志村けんさんのご冥福を祈る。追悼番組で出演者がコントを見ながら爆笑していた。志村さんを見送るのに、これほどふさわしい見送り方はないだろう。

ちょっと前の桜です。

2020年3月29日日曜日

3月最後の日曜日に雪が積もった

昨日までぽかぽか陽気だと思っていたら、今日は雪、しかも積もった。天気予報で言ってはいたが、まさか当たるとは思わなかったよ。


下の畑の桜も見頃を迎えていたが、満開の桜に雪景色という、めったに見ない光景となった。



霞ケ浦は湖面から靄が上がっていた。



団鬼六の『真剣師 小池重明』、先日読了。賭け将棋を生業とした真剣師、異能の天才小池の波乱万丈の人生に圧倒される。彼の終焉の地が、茨城県石岡市。彼が働いていた焼肉屋「七輪亭」は「風々亭」と名を変えて現存している。

『芸術新潮』に「つげ義春、フランスを行く」という記事が載っている。アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞受賞、原画展のための渡仏。つげとフランスの取り合わせがすごい。それでもつげ義春は、あくまでつげ義春、面白い。
息子の正助氏のインタビュー記事も掲載されている。映画に出演していたか。母親の故藤原マキさんは女優だったからね、母親譲りかな。あのつげ作品でおなじみの「正助くん」が、と思うと感慨深い。

世界は新型コロナウィルスで大変だ。どうやら我々は世界史的な毎日を過ごしているらしい。
その中で、殿様は威勢のいい言葉を並べ立てている。でも中身はよくわからない。アメリカさんやお友達には国のお金をばんばん使うのに、この国で生活するみんなのために使うのは嫌みたいだ、ということだけは伝わったよ。