ページビューの合計

2014年6月13日金曜日

1988年の郡上八幡

あれは確か1988年の2月だった。
その当時下呂に勤めていた高山T君の所に遊びに行った。
T君の宿舎に2泊したのだが、1泊目に彼は風邪を引いて寝込んでしまった。
そこで、次の日、T君のスターレットを借りて、私は一人で郡上八幡へ行ったのだ。
その時の写真を見つけたので、載せてみる。

下呂から郡上八幡へ行く途中。こういう風情に立ち止まってしまう。
郡上八幡の街。以下続きます。
郡上八幡の象徴。川からの眺め。
郡上八幡城から市街を見下ろす。

郡上八幡から帰ると、T君は何とか快復していた。
そこで私たちは温泉に入り、当時愛飲していたハートランドビールを買って来て、乾杯をしたのでありました。






2014年6月10日火曜日

小川町稚蚕共同飼育所

壁に、「小川町稚蚕共同飼育所」と書いてあるのが見える。この建物は、県道からほんの少し脇道に入った所にある。
先日、旧富岡製糸工場が世界文化遺産に選ばれた。休日には、多くの観光客で賑わっているという。
絹製品は、近代日本における重要な輸出品であり。そして、その土台を支えたのが、養蚕農家であった。
私が子どもの頃には、至る所に桑畑があったし、裏の家は養蚕を営んでいた。
蚕は「オゴサマ」と呼ばれ、屋内で大切に飼育された。(何百匹もの虫が、暗い建物の中で、かさこそと桑の葉を這いまわりながら葉を食む、といった光景を想像するのは、あまり気持ちのいいものじゃないけれど。)
土浦の昔を書いた本にあった話では、大徳裏に遊郭が軒を連ねる一角があり、繭を売ったばかりの現金を握りしめた男たちでたいそう賑わったという。
富岡のような、歴史のある重厚なものではないけれど、そんな時代を偲ばせる遺構が、今もひっそりと残っているのは、やはり感慨深いものがある。


2014年6月4日水曜日

高野文子『絶対安全剃刀』他

高野文子、『絶対安全剃刀』。大福さんのブログに出てきたが、これがまた私にとっては、どストライクなのだ。
私は大学時代、川崎の4畳半のアパートで、破滅型純文学とともに、マンガにも耽溺していた。つげ義春、いしかわじゅん、吾妻ひでお、坂口尚、大友克洋…、そして、女流では、何といっても高野文子と近藤ようこだ。
『絶対安全剃刀』の奥付を見ると、「昭和57年2月15日 第3版発行」とある。ということは、私がこの本を買ったのは、3年の終わり頃か。
その頃には、私は1人で酒を飲む習慣が出来ていて、割とこまめにアパートに帰っていた。きっと、三上寛とか友川かずきとか友部正人なんてところをかけながら、サントリーレッドをあおっては、読みふけったのだろうな。
発想の奇抜さ。多彩な才能。完成度の高い絵。何もかもが衝撃だった。
中でも、『田辺のつる』は凄い。大友克洋が描くようなリアルタッチの人物が居並ぶ中、主人公の認知症の老婆のみが、いかにも後の高野文子調のシンプルな線で、彼女の精神世界そのままの幼女に描かれるのだ。この手があったか、と誰もが瞠目した表現だった。
作品集の最後を飾る『玄関』の郷愁、不条理ギャグの『アネサとオジ』、近藤ようこにも通じる若い女の心の暗部に迫る『はい―背筋を伸ばしてアナタノバンデス』『うしろあたま』、大友克洋調の『方南町経由新宿西口京王百貨店前』、江戸戯作に題材をとった『早道節用守』(杉浦日向子みたいだが、絵の完成度が違う)、死を扱いながら軽やかに厳粛な『ふとん』等々。格調高雅、意趣卓逸、どれもこれも作者の才の非凡さを余すところなく示している。(都会に憧れる田舎の女子高生がラジオ番組にリクエストするサザンオールスターズの曲が『タバコロードのセクシーばあちゃん』だぜ。センスいいよなあ。)
ただ、余りに多彩であるため、ちょっとばかり統一感に欠ける印象はある。(絵柄も作品によって全然違う。)ビートルズでいえば、名曲ぞろいだが、いささかとっちらかった感じの『ホワイトアルバム』ってところかな。
そして、ビートルズが『ホワイトアルバム』の後、完成度の高いトータルアルバム『アビイ・ロード』を出したように、高野文子は第2作品集として『おともだち』を出してくるんだな。前半が「日本のおともだち」、後半が「アメリカのおともだち」という2部構成になっているのも、A面がジョン、B面がポールの個性が際立つ『アビイ・ロード』みたいだ。
中でも『春ノ波止場デウマレタ鳥ハ』は圧巻だぞ。これで私は完全にノックアウトされたのだ。
物置から『るきさん』『棒がいっぽん』『黄色い本』も持って来て読んだけど、やっぱ凄いわ。
寡作だし、マンガファンじゃないと名前を知らない人かもしれないけど、出会えてよかった。高野文子のおかげで、(大げさかもしれないけど)私の人生は随分豊かになったと思うのである。

大福さんのブログ、しばらく更新がなかったけど、復活してくれて嬉しいよ。楽しみにしていますんで、これからもこまめに更新してくださいね。

2014年6月2日月曜日

鹿島神宮

この間、東国三社のひとつ息栖神社を載せたので、今度は鹿島神宮を載せてみます。
さすが常陸之国一宮、いかにも清浄な空間です。
写真は2011年秋のものです。
楼門

拝殿

本殿

鹿園近くのお土産屋さん

奥の院

要石

参道にもシブい建物が多い。

香取神宮には何十年も行っていない。今度行ってみようかなあ。

2014年5月30日金曜日

畑先生の思い出②

畑先生の思い出をもう少し。

ゼミのコンパでは、まず先生に楽しんでもらうことを考えた。
何しろ、文学部の学生である。世間一般の人より浮世離れしている奴が多かった。勝手に飲ませておくと、何だか訳の分からん飲み会になっていってしまう。(それはそれで面白かったりするわけだが。)
畑先生自身、ご自分が面白くない飲み会だと、すねて、シメの歌を歌ってくれないこともあった。
そこで、副ゼミ長の岐阜改め高山T君(T君からの強い要望による)と、落研部員の私の出番だ。まず、先生お気に入りのガラモンSさんを隣に配置し、T君と私が対面に座る。私は落研でこそ根暗で通っていたが、人間関係というものはあくまで相対的なものだ、文学部では「陽気な冗談ばかり言っている男」(小説『山の上大学文学部国文学科ゼミ対抗ソフトボール大会』より)となるのである。相方のT君とは、会話の呼吸が合った。ゼミ長のS君によると、私たち二人の会話は漫才のようであったという。そうして、二人で、S君やら後輩やらを軽くいじりながら、場を盛り上げた。
前にも書いたが、学会のお手伝いをした後はよかったね。先生が「寿司を食べよう」と言うと、すかさずT君が「『小僧の神様』ですね」と切り返す。寿司屋の後のスナックでは、先生がボトルキープしていたサントリーホワイトを振る舞ってくれたが、ガラモンSさんは先生の隣で、手慣れた様子で水割りを作っていたっけ。

私の落研最後の対外発表会には、先生も観に来てくださった。
この時私は『芝浜』を演ったのだが、先生は「よかったよ」と誉めてくださった。「あのお飾りの笹の葉が揺れる音を、亭主が雪が降っている音に聞く場面が、なかなかいいね」
受付には、洒落だったのだろう、当時でも珍しい合成酒を置いて行かれた。合成酒を飲んだのは、あの時が最初で最後だが、あの味はちょっと忘れられない。
卒業間際になって、先生から「落研の顧問を辞めるよ」と言ってきた。詳しくは覚えていないが、新幹部がしくじったらしい。いくら謝っても駄目だった。
教師であれば、間違いを教え、諭し、次は同じ間違いをさせないようにする、というプロセスを踏むべきだろうけど、先生の場合は許せないんだな。それがいかにも先生らしい。
高山T君が「先生はろくでもない大学生と、ずっと同じ土俵に上がり続けたんだな」と言ったけど、畑先生を語るには、けだし名言だと思う。
そして、しくじっても破門されても、私たちはそんな先生が大好きだったのだ。

畑有三先生のご冥福をお祈り申し上げます。

追記。
畑先生のシメの歌は『古い顔』だと、高山T君が教えてくれた。T君曰く、「ダークダックスも歌っている名曲。『美人だったあの人も/今では会えぬ人の妻』という哀愁の名フレーズ。ぜひ読者に紹介してほしい」とのことでした。

4年の軽井沢合宿。30年以上も前のものです。





2014年5月29日木曜日

畑先生の思い出①

畑有三先生がお亡くなりになったということを、大福さんのブログで知った。
私は、大学時代、先生のゼミで学び、卒業論文を書いた。また、先生は私が所属していた落語研究会の顧問でもあった。いわば、正真正銘、私の恩師である。
先生を偲び、思いつくまま、先生の思い出を書く。

先生との出会いは、1年の時の一般教養の講義であった。その授業は、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』が題材だった。まあ、無頼派にかぶれていた私にとって、さして関心のあるジャンルでもなく、正直言って内容は覚えていない。ただ、先生の長身で洒落た雰囲気だけは印象に残った。
3年になってゼミを選択する時、近代文学というだけで、先生のゼミを選んだ。
ゼミは、3年生が、3人ほどのグループを作り、レジュメを作成して発表する。他の学生は、授業ごとに、題材になった作品の感想を書いたレポートを提出する。
私は他の授業はほとんど出なかったが、ゼミだけは出席した。ただ、4年になってからは、生来の怠け癖が出て、出席はするものの、レポートは1つだけ出したっきり、後は全然出さなかった。
先生からは「伝助君(もちろんここは本名だが)、レポート出しなよ」としきりに言われたが、とうとうそのままにしてしまった。
おかげで4年の時のゼミの成績はB。ゼミでAが取れなかった奴は、学内で私一人だったろう。
しかも、先生は、私が3年の時、落研の顧問になられたが、1年も経たないうちに、幹部がしくじって顧問を辞められた。
私は不肖の弟子でもあったのだ。

ゼミに入って、3年の夏休み。合宿を千葉県の御宿にあった、大学のセミナーハウスでやった。
私が新宿駅の集合場所に行くと、ゼミ員は誰もいない。しょうがないので、指定された電車で、一人御宿に向かった。私は皆が乗る電車を間違えたと思った。「まったく皆しょうがねえな」とぶつくさ言いながら、駅に下り、道を聞きながらセミナーハウスに向かう。
すると、サイクリングをしている一団にあった。これが畑ゼミ御一行様だった。
私は、日程を1日間違えていたのだ。もはや研究会はとうに終わり、リクレーションの真っ最中。あとは打ち上げのコンパを残すのみだった。
先生は、私の顔を見て呆れたように、「しょうがないなあ」と言った。(ほんとにしょうがない。)
セミナーハウスに戻ると先生は、「じゃあ君、これでコンパのつまみに刺身でも買って来なさい」と言ってお金をくださった。
私は、車で来ていた同郷のI君と、岐阜T君と三人で、町の魚屋に走った。
魚屋の親父さんは、「今はトビウオが旨いよ」と勧めてくれた。トビウオの刺身は、思ったよりずっと安くたくさん買うことができ、先生もご満悦であった。
このコンパが、私のゼミでの落語デビューとなった。その話は、以前書いたので、繰り返さないが、先生は「君の落語は面白いねえ」と言ってくださった。そして、その時のネタ『権助提灯』について、いくつか所見を述べられた。「もしかしたら、そのお妾さん、奥に間男隠してたんじゃないの」などと、鋭い指摘もなされていた。
その後は、ジャズ研のDさんの『センチメンタル・ジャーニー』。
シメは先生の歌である。歌詞もメロディーももう忘れてしまったけど、何て歌だったかな、ワルツで、「みんなみんな今はもう…」って感じだったかな。
とにかく旨い酒だった。その真ん中に、先生はいたのだ。

ほんと、とりとめがなくなっちゃった。今日はこれまで。もうちょっと続きます。




2014年5月27日火曜日

息栖神社

一昨年の今頃だったかな、用足しに神栖へ行ったついでに、息栖神社に寄ってみた。
鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社と呼ばれる。
現在の利根川の河口は、その昔(利根川が東京湾に注いでいた頃)、霞ヶ浦が海へと接する所だった。
そして、この三社は、霞ヶ浦が海から大きく内陸へ入り込む、ちょうど入り口の辺りで、きれいな三角形を形作っている。
この息栖神社は、鹿島・香取に比べれば、ちょっとこじんまりしているかな。社殿も、昭和35、6年頃火事で焼けたらしく、今は鉄筋コンクリート製になっている。いささか荘厳さに欠けるかもしれないけど、境内はしんと静かで、神寂びたいい雰囲気だったよ。
鳥居の向こうは船溜まり。その昔、参詣する人は、船で来たんでしょうなあ。