4年ぶりで、家族を連れて伊豆へ行く。
1日目は長岡でイチゴ狩り。
子供二人、服をべたべたにしながら食べておりました。
天城湯ヶ島「たつた」に投宿。
いつもながら心地よい雰囲気。
いちばん安いプランだったものの、料理も大満足でありました。
2日目は修善寺「虹の郷」で遊ぶ。
市内の宿に泊まった人は、何と400円引き。
中は花がいっぱい。子供も遊べるし、お勧めスポットだと思います。
それから戸田に出て昼食。
魚フライ定食は、アジフライが何と5枚。これが旨い。ぺろっといけました。
海と富士を楽しみながら帰途へつく。
渋滞で東京を抜けるのに手間取りはしましたが、楽しい旅行でありました。
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2009年3月22日日曜日
桂文楽 むらくとの別れ
小莚が東京に帰った時、彼の芸の師匠、朝寝坊むらくは既に東京を捨てて旅に出ていた。
それにはこのような経緯があった。
新富座の芝居茶屋で四代目橘家圓蔵と口論の末、むらくが圓蔵を殴った。立花家橘之助との三角関係が原因と言われている。橘之助は浮世節の大家。明治、大正の演芸界で女帝と言われた人物である。もともとむらくは大阪で橘之助に見出され、立花家左近として東京でデビューした。そして、真打ち昇進時に襲名した「朝寝坊むらく」の名前は、橘之助の亡夫のものだった。いかに橘之助がむらくを支えたかが分かる。橘之助はむらくよりも15歳年上だったが、二人は男女の仲になる。まるで『真景累ヶ淵』の豊志賀と新吉のようだが、橘之助は豊志賀のように一途ではなかった。橘之助は恋多き女であり、その情夫の一人が圓蔵だった。圓蔵からすれば、師匠と深い仲になったむらくを身の程知らずと思っていたかもしれないし、また、橘之助の引き立てでめきめき売れ出し、名人の道をひた走るむらくに脅威も感じただろう。いずれにしても、圓蔵はむらくに対して激しい敵意を燃やしていた。むらくにしろ、橘之助の情夫である圓蔵に嫌悪感を抱いていたに違いない。二人は一触即発の状態だったのだ。
圓蔵はむらくよりも18歳年長。大正期の三遊派をリードした大看板である。上下関係の厳しい芸界にあって、そのような人間を殴って無事でいられるはずもない。むらくは名前を橋本川柳に改め、長い旅に出た。
この旅についていった若い落語家がいる。初代三遊亭圓歌門下の歌笑。元は講釈師だったが、落語家に転向していた。彼は師匠の世話を兄弟弟子の歌奴に任せ、川柳の後を追う。そして巡業の間、たっぷりと川柳の芸を吸収した。この歌笑が後の三代目三遊亭金馬である。後年「三代目圓馬の豪放な部分は金馬が、繊細な部分は文楽が受け継いだ」と言われた。三代目圓馬の若き日、橋本川柳時代の勢いのある芸に薫陶を受けた結果であると言われている。
こうして、ひとまず小莚はむらくと別れた。ただ、二人の縁はここで切れたわけではなかった。
余談。四代目橘家圓蔵は四代目三遊亭圓生門下である。二つ目で橘家圓蔵の名前を貰い、その名前のまま真打ちに昇進した。人呼んで「品川の圓蔵」。その能弁は、芥川龍之介をして「全身これ舌」と言わしめた。三代目柳家小さんとともに大正の落語界を牽引し、もともと二つ目名の圓蔵を一代で大看板にのし上げた。五代目三遊亭圓生襲名を決意するも59歳で急死。一門には五代目、六代目の圓生がいる。
それにはこのような経緯があった。
新富座の芝居茶屋で四代目橘家圓蔵と口論の末、むらくが圓蔵を殴った。立花家橘之助との三角関係が原因と言われている。橘之助は浮世節の大家。明治、大正の演芸界で女帝と言われた人物である。もともとむらくは大阪で橘之助に見出され、立花家左近として東京でデビューした。そして、真打ち昇進時に襲名した「朝寝坊むらく」の名前は、橘之助の亡夫のものだった。いかに橘之助がむらくを支えたかが分かる。橘之助はむらくよりも15歳年上だったが、二人は男女の仲になる。まるで『真景累ヶ淵』の豊志賀と新吉のようだが、橘之助は豊志賀のように一途ではなかった。橘之助は恋多き女であり、その情夫の一人が圓蔵だった。圓蔵からすれば、師匠と深い仲になったむらくを身の程知らずと思っていたかもしれないし、また、橘之助の引き立てでめきめき売れ出し、名人の道をひた走るむらくに脅威も感じただろう。いずれにしても、圓蔵はむらくに対して激しい敵意を燃やしていた。むらくにしろ、橘之助の情夫である圓蔵に嫌悪感を抱いていたに違いない。二人は一触即発の状態だったのだ。
圓蔵はむらくよりも18歳年長。大正期の三遊派をリードした大看板である。上下関係の厳しい芸界にあって、そのような人間を殴って無事でいられるはずもない。むらくは名前を橋本川柳に改め、長い旅に出た。
この旅についていった若い落語家がいる。初代三遊亭圓歌門下の歌笑。元は講釈師だったが、落語家に転向していた。彼は師匠の世話を兄弟弟子の歌奴に任せ、川柳の後を追う。そして巡業の間、たっぷりと川柳の芸を吸収した。この歌笑が後の三代目三遊亭金馬である。後年「三代目圓馬の豪放な部分は金馬が、繊細な部分は文楽が受け継いだ」と言われた。三代目圓馬の若き日、橋本川柳時代の勢いのある芸に薫陶を受けた結果であると言われている。
こうして、ひとまず小莚はむらくと別れた。ただ、二人の縁はここで切れたわけではなかった。
余談。四代目橘家圓蔵は四代目三遊亭圓生門下である。二つ目で橘家圓蔵の名前を貰い、その名前のまま真打ちに昇進した。人呼んで「品川の圓蔵」。その能弁は、芥川龍之介をして「全身これ舌」と言わしめた。三代目柳家小さんとともに大正の落語界を牽引し、もともと二つ目名の圓蔵を一代で大看板にのし上げた。五代目三遊亭圓生襲名を決意するも59歳で急死。一門には五代目、六代目の圓生がいる。
2009年3月19日木曜日
日本酒には豆腐がよく似合う
日本酒には豆腐がよく似合う。
日本酒に刺身、これは最良の組み合わせとして、巷間伝えられている。例えばここに、小生愛飲の銘酒「神亀」があったとする。その隣に、スーパー山内で千二百円也の中トロを置く。これ以上美しいカップルはない。神亀といえば、日本酒界の押しも押されもせぬエース。マグロ中トロは、スーパー山内鮮魚部が自信を持って推薦する、魚界の才媛である。それは、あたかも、プロ野球の人気球団のエースが、モデルやスチュワーデスと結ばれるようなものだ。
この豪華な組み合わせの前に、豆腐はいかにも分が悪い。スーパー山内で、八十七円。ピンクに肌を染まらせた中トロに対し、色は真っ白で、形もまっ四角、色気も愛嬌もない。
しかしだね、この豆腐というやつが、実に日本酒の味を引き立ててくれるのである。鼻腔に芳醇な香りを漂わせつつ、何の未練もなく喉を通過する酒。その、わずかに残るべたつきを、さり気なく払拭する豆腐。その絶妙のコンビネーションは、酒に、そういえば、おれの隣にはいつもお前がいたんだなあ、という感慨を喚起させずにはおかないであろう。
中トロがモデルなら、日本酒と豆腐の組み合わせは、エースと、高校の時の野球部のマネージャーといったような、マコトにほほえましくも、大地にしっかりと足をつけた関係と言えまいか。
しかも、暑い時は冷奴、寒い時は湯豆腐と、いかようにも合わせてくれる。そう考えると、あの白ささえもが、花嫁の白無垢を連想させてくれるではありませんか。
中トロだと、こうはいきませんよ。刺身じゃなきゃ駄目、山葵は本ワサ、醤油に溶くなんてとんでもない、と気位が高いだけに注文が多い。
ところで、倒幕の立役者の一人、大村益次郎は、豆腐で酒を飲むのが、唯一の楽しみだったという。高校生の時やってたNHKの大河ドラマ「花神」での、彼の杯を口に運ぶ手つきが印象的で、私はいまだにそれを真似しているのである。
日本酒に刺身、これは最良の組み合わせとして、巷間伝えられている。例えばここに、小生愛飲の銘酒「神亀」があったとする。その隣に、スーパー山内で千二百円也の中トロを置く。これ以上美しいカップルはない。神亀といえば、日本酒界の押しも押されもせぬエース。マグロ中トロは、スーパー山内鮮魚部が自信を持って推薦する、魚界の才媛である。それは、あたかも、プロ野球の人気球団のエースが、モデルやスチュワーデスと結ばれるようなものだ。
この豪華な組み合わせの前に、豆腐はいかにも分が悪い。スーパー山内で、八十七円。ピンクに肌を染まらせた中トロに対し、色は真っ白で、形もまっ四角、色気も愛嬌もない。
しかしだね、この豆腐というやつが、実に日本酒の味を引き立ててくれるのである。鼻腔に芳醇な香りを漂わせつつ、何の未練もなく喉を通過する酒。その、わずかに残るべたつきを、さり気なく払拭する豆腐。その絶妙のコンビネーションは、酒に、そういえば、おれの隣にはいつもお前がいたんだなあ、という感慨を喚起させずにはおかないであろう。
中トロがモデルなら、日本酒と豆腐の組み合わせは、エースと、高校の時の野球部のマネージャーといったような、マコトにほほえましくも、大地にしっかりと足をつけた関係と言えまいか。
しかも、暑い時は冷奴、寒い時は湯豆腐と、いかようにも合わせてくれる。そう考えると、あの白ささえもが、花嫁の白無垢を連想させてくれるではありませんか。
中トロだと、こうはいきませんよ。刺身じゃなきゃ駄目、山葵は本ワサ、醤油に溶くなんてとんでもない、と気位が高いだけに注文が多い。
ところで、倒幕の立役者の一人、大村益次郎は、豆腐で酒を飲むのが、唯一の楽しみだったという。高校生の時やってたNHKの大河ドラマ「花神」での、彼の杯を口に運ぶ手つきが印象的で、私はいまだにそれを真似しているのである。
2009年3月12日木曜日
桂文楽 旅暮らし(補足)
前回の補足。
別派を立てようとした小南が所属していたのは三遊派だった。その三遊派の頭取は二代目小圓朝。つまり、この時点で小南と小圓朝は敵対していたことになる。
小南の企ては失敗し、大阪へ落ちた。師匠の家に住んでいた小莚は、師匠と共に住処をもなくした。師匠なしでは寄席にも出られない。小莚は師匠に捨てられたのだ。
ここで私は、なぜ小莚はむらくの弟子にならなかったのだろうという疑問を持つ。その芸に心酔し、目もかけられていた。当時むらくは29歳。若手ではあるが、別に弟子をもってもおかしくはない年齢だと思う。むらくが四代目橘家圓蔵との確執によって東京を捨てるのはその5年後。小莚が東京へ帰る直前である。まだ、むらくは東京にいたのだ。
しかし、小莚は小金井芦洲について旅に出た。芦洲の芸にも惚れていたというのがその理由だ。当時、旅で修業するというのが一般的なやり方だったのかもしれない。ただ、ひとつ言えるのは、小莚はここで(意識的かどうかは定かではないが)自立の道を選んだのである。
ちなみに、小圓朝も月給制の失敗から多額の負債を抱え、程なく旅に出る。もちろん弟子の朝太(後の志ん生)もそれについて行った。旅の途中で朝太は師匠と別れ、小莚と同時期、2年の間旅暮らしをしている。
小莚が旅で辿ったルートは次の通り。まず芦洲と静岡へ。芦洲に捨てられ名古屋へ落ちる。名古屋で圓都の身内になり、金沢、福井と北陸を旅する。明治天皇崩御で一座は解散。いったん東京へ戻るものの再び旅へ。京都桂派に属し笑福亭に住み込む。ここでは後の三代目春風亭柳好と一緒だった。その後は大阪。そして神戸。1年後、大連行きの一座に参加。長春、遼陽まで遠征した。
随分長い補足ですみません。もっとよく調べてから書けよということですな。
別派を立てようとした小南が所属していたのは三遊派だった。その三遊派の頭取は二代目小圓朝。つまり、この時点で小南と小圓朝は敵対していたことになる。
小南の企ては失敗し、大阪へ落ちた。師匠の家に住んでいた小莚は、師匠と共に住処をもなくした。師匠なしでは寄席にも出られない。小莚は師匠に捨てられたのだ。
ここで私は、なぜ小莚はむらくの弟子にならなかったのだろうという疑問を持つ。その芸に心酔し、目もかけられていた。当時むらくは29歳。若手ではあるが、別に弟子をもってもおかしくはない年齢だと思う。むらくが四代目橘家圓蔵との確執によって東京を捨てるのはその5年後。小莚が東京へ帰る直前である。まだ、むらくは東京にいたのだ。
しかし、小莚は小金井芦洲について旅に出た。芦洲の芸にも惚れていたというのがその理由だ。当時、旅で修業するというのが一般的なやり方だったのかもしれない。ただ、ひとつ言えるのは、小莚はここで(意識的かどうかは定かではないが)自立の道を選んだのである。
ちなみに、小圓朝も月給制の失敗から多額の負債を抱え、程なく旅に出る。もちろん弟子の朝太(後の志ん生)もそれについて行った。旅の途中で朝太は師匠と別れ、小莚と同時期、2年の間旅暮らしをしている。
小莚が旅で辿ったルートは次の通り。まず芦洲と静岡へ。芦洲に捨てられ名古屋へ落ちる。名古屋で圓都の身内になり、金沢、福井と北陸を旅する。明治天皇崩御で一座は解散。いったん東京へ戻るものの再び旅へ。京都桂派に属し笑福亭に住み込む。ここでは後の三代目春風亭柳好と一緒だった。その後は大阪。そして神戸。1年後、大連行きの一座に参加。長春、遼陽まで遠征した。
随分長い補足ですみません。もっとよく調べてから書けよということですな。
2009年3月10日火曜日
桂文楽 旅暮らし
明治43年、桂小莚18歳で二つ目昇進。同年、後の古今亭志ん生、美濃部孝蔵は二代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太の名前をもらう。小圓朝は小莚を師匠小南に紹介してくれた人である。もしかしたら、二人の名人の初対面はこの時期だったかもしれない。
小莚は前座修業を2年で駆け抜けた。本来であれば、洋々たる前途が開けているはずだった。しかし、翌年、師匠小南が別派を立てようとして頓挫。小南は大阪へ帰ってしまう。
師匠をなくした小莚は小金井芦洲の一座について旅に出る。ところが、この芦洲先生、芸は凄いが人間はずぼら。ワリを全部自分で飲んでしまう。しかし、いったん芸を目の当たりにすると給金をもらえないことも忘れ、見惚れてしまう。挙げ句の果てに芦洲先生、興行の途中で東京へドロンしてしまった。
やむなく小莚は名古屋へ下る。そこで三遊亭圓都の身内になり、小圓都を名乗り一緒に旅回りをすることになった。圓都夫妻にかわいがられ、評判も上々、女にももてた。しかし、明治天皇崩御に伴う歌舞音曲の停止令で一座は解散。小莚もいったん東京に帰った。
だが、まだまだ小莚の旅は終わらない。まもなく京都に出て笑福亭という寄席の楽屋に1年間暮らし、その後は大阪に移り富貴に1年間出演、翌年は神戸、さらには中国大陸にまで遠征した。結局、旅暮らしは5年にも及んだ。
旅は修羅場をくぐることでもある。東京のままの綺麗事の芸では通用しない。どんな客相手でも受けなきゃならない。お題噺、落語角力など即興性を要求される場面もある。後の文楽にとってこの旅は、ビートルズのハンブルグ興行のように、実戦的な修業の日々でもあり破天荒な青春の日々でもあったろう。実際、この時代を話す時、文楽は楽しげだったように思う。
ただ、後に文楽はこう語る、「旅で芸は達者になるけど、くさくなる」。いつまでもそこにどっぷりと漬かっていると、道を誤ることになるのだ。
大正5年、小莚は東京に帰った。ここで彼はもう一人の人生の師と出会うことになるのである。
小莚は前座修業を2年で駆け抜けた。本来であれば、洋々たる前途が開けているはずだった。しかし、翌年、師匠小南が別派を立てようとして頓挫。小南は大阪へ帰ってしまう。
師匠をなくした小莚は小金井芦洲の一座について旅に出る。ところが、この芦洲先生、芸は凄いが人間はずぼら。ワリを全部自分で飲んでしまう。しかし、いったん芸を目の当たりにすると給金をもらえないことも忘れ、見惚れてしまう。挙げ句の果てに芦洲先生、興行の途中で東京へドロンしてしまった。
やむなく小莚は名古屋へ下る。そこで三遊亭圓都の身内になり、小圓都を名乗り一緒に旅回りをすることになった。圓都夫妻にかわいがられ、評判も上々、女にももてた。しかし、明治天皇崩御に伴う歌舞音曲の停止令で一座は解散。小莚もいったん東京に帰った。
だが、まだまだ小莚の旅は終わらない。まもなく京都に出て笑福亭という寄席の楽屋に1年間暮らし、その後は大阪に移り富貴に1年間出演、翌年は神戸、さらには中国大陸にまで遠征した。結局、旅暮らしは5年にも及んだ。
旅は修羅場をくぐることでもある。東京のままの綺麗事の芸では通用しない。どんな客相手でも受けなきゃならない。お題噺、落語角力など即興性を要求される場面もある。後の文楽にとってこの旅は、ビートルズのハンブルグ興行のように、実戦的な修業の日々でもあり破天荒な青春の日々でもあったろう。実際、この時代を話す時、文楽は楽しげだったように思う。
ただ、後に文楽はこう語る、「旅で芸は達者になるけど、くさくなる」。いつまでもそこにどっぷりと漬かっていると、道を誤ることになるのだ。
大正5年、小莚は東京に帰った。ここで彼はもう一人の人生の師と出会うことになるのである。
2009年3月7日土曜日
2009年3月4日水曜日
桂文楽 前座修業
むらくのもとに通って1年が経った。しかし、小莚は『道灌』しか教えてもらえなかった。
ある大雪の夜。小莚は前座として牛込藁店の寄席に出ていた。雪のため師匠連が山の手まで行くのを億劫がって抜いてしまう。当然、高座に穴が空いた。その度に小莚が上がることになるが、出来るのは『道灌』しかない。とうとう一晩に3回も『道灌』を演ることになってしまった。さすがに3度目は小莚も泣きべそをかきながらの高座であった。高座を下りた小莚に、見かねた客が祝儀をくれた。いい話だ。この事があって後、小莚は「道灌屋」「道灌小僧」という異名をとる。(ちなみにこのエピソードは、古谷三敏『寄席芸人伝』の『道灌小僧』という話にそのまま取り入れられている。)
なぜむらくは小莚に『道灌』しか教えなかったか、それにはこんな話がある。
むらくは、かつて初代柳家小せんと1年間同じ寄席に出たことがあった。初代小せん。廓噺に天才的な冴えをみせた。人呼んで盲の小せん。後年業病のため失明、高座を退き、師匠三代目小さんの勧めで後進の指導に専念した。それは「小せん学校」と呼ばれ、柳・三遊といった派を問わず多くの落語家が薫陶を受けた。小せんは、その寄席でむらくが同じ噺を2度とかけなかったのに対し、1年間『道灌』1席で通した。その時、むらくは「あいつに負けた」ともらしたという。
その『道灌』を、むらくは小莚に1年間演じさせた。とりわけ小莚に厳しかったことといい、どこかでむらくは彼に期する所があったのだろう。
前座修業が2年になった。小莚も、よくむらくの厳しい稽古に耐えた。ある時小莚が『代脈』を演じ終えて楽屋に戻った時、「銭の高を間違えた」と言って、むらくから叱責された。その時の叱責はいつにも増して厳しく、同席していた師匠小南がとりなしてくれても聞く耳をもってくれない。さんざんにやりこめた後、むらくはこう言った。「来月から二つ目にしてやる。」
当時でも前座修業は5年が当たり前。異例の抜擢である。つまり、この叱責は、小莚がこれで天狗にならぬよう、いわば小言のための小言だったのだ。小莚は感激のあまり号泣したという。
余談だが、後年文楽は、立川談志(当時の柳家小ゑん)が勉強会で『源平盛衰記』を演った後、満座の中彼を叱責した。談志が天狗になっていたので、締めておこうとしての小言だったらしい。もちろんかつての、むらくの自分への小言を意識していただろう。親心もあったにちがいない。談志の才能を認めてのことだったと思う。しかし、談志は文楽の意図を理解はしたが、感激もしなかったし反省もしなかった。
こうして小莚は二つ目に昇進した。しかし、彼の前途は順風満帆というわけにはいかなかったのだ。
ある大雪の夜。小莚は前座として牛込藁店の寄席に出ていた。雪のため師匠連が山の手まで行くのを億劫がって抜いてしまう。当然、高座に穴が空いた。その度に小莚が上がることになるが、出来るのは『道灌』しかない。とうとう一晩に3回も『道灌』を演ることになってしまった。さすがに3度目は小莚も泣きべそをかきながらの高座であった。高座を下りた小莚に、見かねた客が祝儀をくれた。いい話だ。この事があって後、小莚は「道灌屋」「道灌小僧」という異名をとる。(ちなみにこのエピソードは、古谷三敏『寄席芸人伝』の『道灌小僧』という話にそのまま取り入れられている。)
なぜむらくは小莚に『道灌』しか教えなかったか、それにはこんな話がある。
むらくは、かつて初代柳家小せんと1年間同じ寄席に出たことがあった。初代小せん。廓噺に天才的な冴えをみせた。人呼んで盲の小せん。後年業病のため失明、高座を退き、師匠三代目小さんの勧めで後進の指導に専念した。それは「小せん学校」と呼ばれ、柳・三遊といった派を問わず多くの落語家が薫陶を受けた。小せんは、その寄席でむらくが同じ噺を2度とかけなかったのに対し、1年間『道灌』1席で通した。その時、むらくは「あいつに負けた」ともらしたという。
その『道灌』を、むらくは小莚に1年間演じさせた。とりわけ小莚に厳しかったことといい、どこかでむらくは彼に期する所があったのだろう。
前座修業が2年になった。小莚も、よくむらくの厳しい稽古に耐えた。ある時小莚が『代脈』を演じ終えて楽屋に戻った時、「銭の高を間違えた」と言って、むらくから叱責された。その時の叱責はいつにも増して厳しく、同席していた師匠小南がとりなしてくれても聞く耳をもってくれない。さんざんにやりこめた後、むらくはこう言った。「来月から二つ目にしてやる。」
当時でも前座修業は5年が当たり前。異例の抜擢である。つまり、この叱責は、小莚がこれで天狗にならぬよう、いわば小言のための小言だったのだ。小莚は感激のあまり号泣したという。
余談だが、後年文楽は、立川談志(当時の柳家小ゑん)が勉強会で『源平盛衰記』を演った後、満座の中彼を叱責した。談志が天狗になっていたので、締めておこうとしての小言だったらしい。もちろんかつての、むらくの自分への小言を意識していただろう。親心もあったにちがいない。談志の才能を認めてのことだったと思う。しかし、談志は文楽の意図を理解はしたが、感激もしなかったし反省もしなかった。
こうして小莚は二つ目に昇進した。しかし、彼の前途は順風満帆というわけにはいかなかったのだ。
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