時々、無性に食いたくなるものがある。私の場合、①ラーメン、②カツ丼、③カレーライス、というラインナップなのだが、別格として吉野家の牛丼を挙げておきたい。
牛丼は、孤独な食い物である。それは、他のものと比較した時、歴然とする。
例えば、ラーメンの場合、味噌にするか塩にするかスタミナにするか、それともここはシンプルに醤油ときめるか、注文する段階で楽しい逡巡がある。そして、出来上がりを待つ、気持ちの高まりがある。カツ丼にしろ、天丼や親子丼を勝ち抜いた威厳がある。
ところが、牛丼の場合、注文する時は、並か大盛りかのどちらかしかない。そして、すぐに、湯気を立てた牛丼が目の前に供されるのである。ここには、我々が食い物と対峙する時の、間もない、対話もない。ただ、目の前の牛丼に紅ショウガを載せ、七味を振りかけて、わしわし食うしかないんである。そして、食い終わった後は余韻に浸る間もなく、茶を一口、口に含んで夜の街に出て行かなければならぬ。(こういう店は回転が勝負だからね)急いでい食ったもんだから、胃がしくしく痛む。寂寥感でいっぱいになる。 しかし、である。人間、これがたまんない時があるのである。
牛丼は戦闘的な食い物である。かつて、中島みゆきが、自作「狼になりたい」の中で、吉野家の牛丼を歌ったように、人は狼になる時に牛丼を食うのである。カツ丼の、よーし、わしカツ丼食っちゃるもんね、という陽気な気分とは別の、暗く内にこもった戦闘意識が蓄積されるのである。
いちばん印象に残っているのは、(現存はしないが)池袋駅西口付近にあった吉野家である。私は、立川談志が旧池袋演芸場に出ている時は、随分通ったものだ。この寄席は、盛り場の路地裏にあり、当時としても珍しい畳み敷きの席だった。まず、客は入らない。ここで、談志は年に二三回、十日間よほどの事がない限り休演せず、熱のこもった高座を務めた。それは、今思い出しても、とても濃密な空間だった。私は、ここに入る時、決まって腹ごしらえに牛丼を食った。そして、内なる戦闘意識をたぎらせて、しくしく痛む胃をおさえながら、思いつめた目で、立川談志の高座を見つめるのだった。
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