ページビューの合計

2009年4月8日水曜日

桂文楽 東京復帰

大正5年、小莚は東京に帰った。彼はまだ二つ目。寄席に出るためには、誰かの身内にならなければならない。
当時、大阪から帰って来て売れに売れていたのが翁家さん馬、後の八代目桂文治であった。小莚はさん馬の弟子になり、翁家さん生の名前を貰う。(さん生という名前はもともと三遊亭の名前。四代目橘家圓蔵が前座時代名乗っていた。近年では川柳川柳の圓生門下時代の芸名であり、現在は文楽の弟子だった柳家小満んの弟子が柳家さん生を名乗っている。スケールの大きいいい噺家だ。)
こうして、さん生は東京の落語界に復帰した。大阪で寄席のお茶子をしていた、おえんという5、6歳年上の女と所帯を持ち、御徒町に住んだ。この頃、親友、春風亭梅枝らと「幸先組」というのを結成する。「幸先組ってのはどういうものなんだい?」と四代目志ん生(当時は金原亭馬生)に聞かれた梅枝は、「強気を助け、弱きをくじくんです。」と言って煙に巻いた。
梅枝の奇人ぶりを示すエピソードは多い。そのひとつ。行水をしていたさん生の女房を、切符を売って仲間に覗かせた。さん生も切符を買わされ、自分の女房の裸を仲間と一緒に覗いたという。
やがて梅枝は東京を去り、放浪の挙げ句、大阪で不遇のうちに死ぬ。臨終の際、女房に向かって「俺が死んだら四天王寺のどこそこを掘り返してくれ。壺の中にお前に残した金がある」と言った。葬式を済ませた後、女房が言われたとおり掘り返すが、何も出てきはしなかった。(一説に言う、女房が言われたとおり掘り返すと、果たして壺が出てきた。中を見ると一枚の紙切れがあり、そこには「これが嘘のつき納め」と書いてあった。)
翌年、さん生はさん馬から「真打ちになれ。」と言われる。自信が持てず一度は断るが、ついには承諾し、馬之助と名前まで決めて、昇進の準備を進めた。しかし、その頃、東京落語界は月給制を敷いた演芸会社とそれに反対した睦会とに分裂する。さん馬は睦会に参加すると言って血判まで押したにもかかわらず、三代目柳家小さんへの義理を果たすため、演芸会社へ寝返った。若いさん生はそれが我慢できず、睦会のリーダー五代目柳亭左楽のもとへ走る。
下谷黒門町の左楽の妾宅を訪ねたさん生に対し、左楽は「それは公用だからここでは聞かない。明日本宅の方へおいで。」と言った。そして、翌日左楽はさん生にこう言った。「よろしい、引き受けた。亭号なんぞはそのままでいいから、うちへおいでなさい。」左楽の人柄を偲ばせるエピソードだと思う。
八代目桂文楽が、人生の師と終生仰いだのが、この五代目柳亭左楽であった。

0 件のコメント: