立川談志は優れた評論家でもある。その著書も多い。
ただ、気になるのは、人の芸を語りながら、度々自己評価が挿入されることだ。それも自画自賛といっていい程その評価は高い。
例えば、五代目古今亭志ん生の芸を賛美しながら「でも家元のほうが深い」と言ってみせたり、五代目柳家小さんを「女が描けない」と批判しながら「俺様は何でも出来る」と胸を張ったりする。かつては「文楽師匠の芸なら3日で出来る」と豪語したという。
もはや今、談志を名人と呼ぶのにためらいを持つ者はいないだろう。斬新で確かな解釈、迫真の描写力、その高座は多くの人を感動させている。著名人にも熱狂的なファンは多い。今更「俺は凄い」と強調する必要はあるまい。それが談志の売りだとしてもだ。
自己評価が高い人、それを周囲に主張する人というのは「自分を認めて欲しい」という欲求の強い人である。そして、多くの場合「自分は正当に認められていない」と思っている人である。当代一の名人と自他共に認める立川談志もその一人であるというのは、いささか奇異な感じがする。が、実は談志もその一人なのではないか、と私は思う。
立川談志にはトラウマがある。多分それは自身の真打ち昇進時の記憶である。
談志は、二つ目時代からその才能を認められ、将来を嘱望されていた。と同時にその特異なキャラクターは「生意気だ」という悪評も生んでいた。そんな中、真打ち昇進において、談志は後輩の古今亭志ん朝、三遊亭圓楽に後れをとる。自分の芸に絶対の自信を持つ談志は、志ん朝に対し「昇進を辞退せよ」と迫り、圓楽の昇進時には悔しさのあまり号泣したという。前回触れた落語協会分裂騒動は、談志が志ん朝の香盤順位を下げようとして起こした陰謀であるという説もある。いずれにしろ、この真打ち昇進にまつわる一件は、談志の心に大きな傷を残したに違いない。
もちろん談志はそんなものに負けなかった。闘志をむき出しに落語と格闘した。その結果、談志は既成の名人像に収まらない高みに上り詰めた。にもかかわらず、今なお「俺を正当に評価しろ」とのたうち回る。それを人間くさいととるか、更に高みを目指す志があるととるか、痛々しいととるか、人それぞれだと思う。
新宿末広亭の席亭、故北村銀太郎翁はかつて「談志なんかもあるところまではゆくだろうが、歪んだ感じで進んでゆくことは免れ得ないんじゃないかな。」と言った。
その「歪んだ感じ」の方へ談志を押しやった屈折のおかげで、談志はかつてない形の名人像を作り上げた。しかし、その「歪んだ感じ」を、今の私は受け容れがたいのだ。
3回にわたって立川談志のことを書いた。
「志ん朝・談志」は、私たちの世代にとって「文楽・志ん生」と並ぶ「僕らの名人」と言っていい。おそらく我々は「団菊爺」ならぬ「朝談爺」になるだろう。青春時代の多感な時期に、志ん朝・談志の鍔迫り合いを見ることが出来たのは、私にとって、大きな幸運である。立川談志が大切な落語家であることに、今も変わりはない。
しかし、新興宗教の教祖のような今の談志に、私は強い違和感を抱いている。その違和感がどういうものなのか、うだうだと書いてみた。煮え切らない文章で、結局何が言いたいんだというような内容だが、今の私にはこれが精一杯である。
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